読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

人見知り的 もののあはれなる人生訓

人見知りの人見知りによる人見知りの為のなんちゃら。

拗らせた価値観ができあがるまで。

人見知りコラム 人見知り的人生訓 ネガティブ論

僕は今年、割とそこそこな年齢になる。

青年でばっちり通るのだが、子どもたちから見ればうっすらおじさんに片足を突っ込む年齢だ。

といってもまだ20代なんだけど。

 

人生を振り返るにしても、年齢的に早すぎることは承知済みなのだが、時折ふと考えることがある。

自他ともに認めるひねくれ切ったこの価値観は、一体どこを境に、どういう流れで構築されてしまったのかと。

人間関係もそう。女性に対して考えることもそう。

同意を求めようと誰かに吐き出してみても、困惑した笑顔でスルーされていく。

 

なかなかに暗く重い記事になる予感がすごくするが、何かの参考になればということで、人生を振り返ってみようと思う。

  

中学校までは普通だった。

 

今思い返してもそうだ。

実のところ、友達は結構いたし、リア充と呼ばれる人々との伝手もあった。女子とも普通に会話ができていたし、ふざけあえてもいた。

これはただ単に、お互い男も女もなくただ友達というカテゴライズの中で交流していた、ただそれだけなんだろうけれど。

 

さて。

振り返ればある種人生の絶頂期だったこの頃、僕の人生に桜が咲くこととなる。

中学卒業直後、よくわからない化学反応の末、僕という男に彼女という貴い存在ができたのだ。

喜びよりも当惑。扱い方も分からない。

試行錯誤が裏目に出たりそうじゃなかったり。

高校入学に向けての準備のドタバタの最中、僕はうっすらと幸せだったことは覚えている。

 

ある種の転換期。

 

しかしそれは長くは続かなかった。

高校に入って初めて気づいたが、面識も馴染みもない人間は、さながら人を食う鬼のように怖かった。

生粋の人見知り気質を、ぞっとするほどハッキリ自覚したのはこの頃だ。

幸いにも同じような気質の仲間とコミュニティを形成することで、最悪の展開である孤立は免れたものの、自ら進んで井の中に飛び込んでしまったようなものだ。

価値観や交友範囲はみるみる間に狭量化し、大多数の思い出に登場しないポジションに僕は定住することとなる。

そして追い打ちをかけるように、先の彼女という貴い人にフラれたのもこの頃だ。

正直、恥ずかしいことに結構ハートを叩きのめされた記憶がある。

今考えると、馴染みのない他人、特に異性に対する恐れは、これらの経験が同時期に、かつ複合的に起きたことがきっかけなのだろう。

こうして僕は自分が重度の人見知りなんだと悟るに至ったのである。

 

そして入ってくるひねくれた価値観。

 

僕の周りの友人たちは、根は良いヤツらばかりであった。

しかしその性根は僕と同じで、手が届かない世界の物の弱点を並び立てることで、手が届いていない現状が正義のように仕立て上げていた。

具体的には、軽薄な男がモテるだのスクールカーストの上位を占めるだのという現状には、そういう奴らって人としてアレだよね、とか。

女性って普段ニコニコしてても、意外とハラワタは黒いものだよね、とか。

そんなこと言ってる僕たちが一番人としてアレなのだが、指摘してくれる人間はコミュニティにおらず。

酸っぱい葡萄の話と同じように、僕たちは2年をかけて、ただただ輝いている人達のことや、そのステージを酸っぱいと信じ続けることに捧げてしまった。

時折彼たち、彼女たちに親切にされることもあったはずなのに、それには気付かぬふりをして。

今思えば、思い込みを崩されたくなかった、ただそれだけなのではと感じる。

そんな自分をみみっちいと思えているということは、多少は今の僕は成長しているのだろうけど。

 

そうして訪れる高校最後の一年。

 

何か不思議な縁があり、僕は今までのコミュニティ仲間と離れることとなった。

で、新しいクラスは大抵輝いている人たちで構成されており、そして彼らは僕にも無条件に優しかった。

そして、その環境はとても楽しかった。

井の外は、意外と良い景色だったんだ。

もっと早く自分から、井なんていう暗く狭いところから出ていればなーと軽い後悔があるが、まぁいい。

学園祭とか受験とかその辺とかが入り混じる最後の一年だったが、幸せに過ごせたのには違いない。

いっちょ前に片想いなんてのも経験したが、実を言うと当時から身の程知らずなことだってことには気づいていたので、卒業と同時にフラれたこともある種想像できた流れだった。

 

高校3年間は、ひたすら己の器の小ささとか、今まで真価が分かっていなかった世界の素晴らしさとか、色恋沙汰における自分の身の程知らずっぷりとかをたっぷりと学ぶことができた期間である。

奇しくも、僕は県外の大学に無事合格し、進学を契機に新しい土地へ引っ越すこととなっていた。

甘い物とか苦い物とかを全部地元に置いてのリスタート。

不安半分、期待半分で出発したことは、今でもしっかりと覚えている。

 

そして大学にて。

 

大学と言えば、人生の夏休みとも言われる期間であり、人生最後のモラトリアムともいえる。

当然周りには恋愛を謳歌するものも、バイトに精を出すものも居て、人間模様も今までとは全く様変わりしていた。

そして僕はどうかというと、新しい人間関係にそこそこ馴染みつつ、授業もそこそこちゃんと出て、それなりの大学生活を楽しむことに一生懸命であった。

つまりは、ベンチャー精神とは無縁で真逆の、居心地が良い所へと落ち着いてしまったのだ。

つるむ仲間は、高校からの同級生か、同じような気質の人間とばかり。

新しい世界へ行こうとは思いながら、その努力は全くしない、極めて安い男だったと感じる。

 

そして3年間を無難に過ごした後、僕は色々と焦っていた。

聞けば、周りの人間は、立派な志を持った友人とか、エリートな先輩とか、気立ての良い彼女さんとかができまくっているという。

どこで出会うのか?と訊けば、どうして出会わないのか?と返される。

僕が居る世界は、今まで通りの狭さだと、再び自覚するのはこの時である。

 

既に齢は21歳。10代を無彩色で塗りつぶした今、20代の頭にして、同じ轍を踏むわけにはいかない。

そして僕は色々と、下調べもそこそこにあらゆる努力をすることとなる。

 

就職活動は、手を抜かずに頑張った。大阪とか福岡とかまで新幹線で行った。

合コンとやらを企画してみたりもした。慣れない服も勉強し、会話の受け答えも勉強した。

個人的な目的があったのだが、TOEICという資格?の勉強にも取り組んだ。

その他、主に読書を通じて、対人関係のスキルとかその辺を磨くことにも使った。

 

さて。

そんな努力の果て、僕は大した成果を得ることも無く、社会に出ることとなる。

確かに、TOEICのスコアは上がったし、本棚もパンパンになった。

人前で着る服に難儀することも無くなった。

ただ、目に見える形としての誰かは、側に居ないままであった。

原因は当時の僕には分からなかったが、結局は自分のための努力だけでは、誰かを惹きつけることはできない。ただそれだけなんだろなと、今はひとりごちている。

 

社会に出てからの話。

 

枝葉末節は省くが、僕は社会に出て2年弱で一回リタイアしている。

理由はどうでもいいと思うので省略するが、プライベート0の価値観に全く馴染めなかったから、というのが大きい。

退職後しばらく、僕は色々なことに充電期間を使うこととなる。

日雇いバイトに手を出し、意味の分からないことで怒鳴られたり。

今後の自分像を考えて、割と絶望してしまったり。

本気で、22~3歳の頃は、思い出したくもない暗黒期である。

 

転機が訪れるのは、仕事を辞めてから半年後だった。

様々なテヅルモヅルを駆使した結果、今の仕事に出会うことになり、再び社会人として拾ってもらえることとなった。

 

この頃にはもう、プライドもクソも無い状態なので、かつてのゴミみたいな価値観、良く言えば尖がったそれも相当丸くなっており、友人に会うたびに「変わったね」と言われていた覚えがある。

そうしたことを重ねていく内に、僕はある勘違いをしてしまうことになる。

それは、なんだかんだで俺にも魅力ってヤツが出てきたのかな、ということだ。

実を言うと、ただ世間一般の良いとされる考え方に、僕自身が近付いただけであり、何か飛びぬけた輝きが出来たわけでは全然ない。

偶然というのは恐ろしいもので、この頃色々と少し話が弾む異性と職場で出会うこともあった。

食事にも行った。買い物にも付き合った。人生相談も受けた。仕事の補佐もした。感謝もされた。

こういうことが続くと、上記の勘違いには気付けない。さながら人生におけるバブルである。

そしてそのバブルは、結局また桜が咲かないという形で、僕が20代半ばを迎える前に弾けることとなる。

 

結果僕に残ったのは、自分自身のめでたい考え方に気付いたという収穫と、割と叩きのめされた心の痛みのみであり、この時を境にして僕の価値観がガッチリと固まってしまったと感じる。

 

そして今。

 

今の僕の価値観を一言で言ってしまえば、利他主義のニヒリストである。

自分自身が幸せになろうと行動した結果、良い結果になったことが1つもない(と錯覚しているだけかもだが)ことを通じて、誰かをないがしろにして何かをすることには、大きな抵抗がある。

迎合は悪という言葉があるが、僕の中では排他こそ悪である。

独り好きを公言しながらも、誰かといる時間が好きだったりもする。

ただの子どもだなと、我ながら笑ってしまう。

自分を卑下すると言うよりも、周りが自分より遥か高みに居るような気がずっとしている。

転生しない限り敵わないだろうな、という諦めも正直ある。

でも同時に、こんな俺でも頑張りたいよなという小さな野心はあるわけで。

 

人見知りでネガティブなことには自覚があるが、最近いい意味でそれがねじ曲がってきた兆候もある。

他人が怖いからこそ礼儀作法は頭に良く残り、よく実践できるし。

ネガティブが一周回るからこそ、あらゆるリスクを考慮して物事を考えられるし。

 

話は変わるが、最近友人と焼き肉を食べに行ったところ、同行者全員から「お前は丸くなったな」という意見を貰った。

突っ込んで聞いてみると、結局は人間的な成長があるよ的なことで、まじりっけなく嬉しかったのを覚えている。

 

ひょっとしたら僕は、スタート地点が異常なほど後ろにあっただけで、成長そのものは漸次的にしているのかもしれない。

最初から皆がずっと先にいるから、僕だけがずっと取り残されている気がするだけで、距離そのものは同じくらい走っているのかな。

価値観はどうにもならないかもしれないけど、自身の成長という抽象的なものなら、解釈次第でポジティブに捉えられるかも。

 

うだうだ述べてみたが、結局振り返ってみると、価値観が拗れたのは、他者への恐怖と、そこから来る哀しいくらいの自己肯定と悪戦苦闘の賜物なんだなぁ。

 

今後はとりあえず、この価値観とか全部、もう受け入れてしまおう。

それでそっからは、なるようになれの精神でいこう。

但し、目指すべき目標はしっかりと持つけれど、その道程に遊びを持たせるという意味で。

そう思うと、不思議と気が楽になってきた。

諦めるってのは、悪いことと教えらえれてきたけど、場面によってはそうじゃないんだな。

 

そろそろ僕は、理想と幻想の見極めをつけていく。

というところで、そろそろ終わりにしよう。

 

眠れない夜などに、皆さんもこんな風に過去を振り返ってみては如何だろうか。

 

勿論、俺はダメなんだという自己否定が結論にならないように気を付けた上で。

誰かと比べさえしなければ、意外と自分は出来る子なのである。

例えそれが、ただのごまかしとか思い込みだったとしても、きっと色々と楽にはなるから。

東京タラレバ娘(1) (Kissコミックス) 東京タラレバ娘(1) (Kissコミックス)
東村アキコ

講談社

Amazonで詳しく見る by AZlink