僕はネガティブだけど、それなりに充実した人生を生きたいと思う。

ネガティブを飼い馴らして、ポジティブに生きたい。

『諾人見知り』序説。

『脱』人見知りを掲げる書籍やブログ、メルマガは本当に多い。

 

しかし、『人見知りを受け入れる』方向性のものはあまり見ない。なぜだろうか。

 

僕は、『人見知り気質を受け入れて、その使いこなす方法を習得すべき』という立ち位置で、ここ最近はずっと居る。

 

『諾(だく)人見知り』とでも言えようか。

 

今日は、この僕の持論である『諾人見知り』について、つらつらと述べていこうと思う。

 

 

  

『諾人見知り』とは。

 

先にも軽く説明したが、『人見知りである自分を受け入れる』ことが根本原理である

 

『人見知りが治れば、~なのに!』という風に、可能性の中に生きている人は多い。

 

そういう人は、正直、人見知りが治っても行動に移さないような気がする。おそらく、別の出来ない原因を並びたてて。

 

逆に、人見知りを自称しつつも行動を起こせる人も、世の中には割といる。僕の知人の中にも結構いたりする。

 

そういう人の共通点は、『人見知りを言い訳にしないこと』が最たるものだ。

 

受け入れた後は、案外打てる手は多い。

 

直接顔を合わせるのが苦手なら、LINEを使えば良いし。

 

コネが薄ければ、知人を辿って構築すれば良い。

 

Not人見知りよりスピードは遅いけれど、結局行動に移せているし、かつ結果が出ているので、僕たちが反駁する余地は多分ない。

 

話を戻すと、『脱人見知りを夢想して可能性の中に生きる』くらいなら、『今の自分を受け入れる諾人見知り』の方が、僕は健全だと思う。

 

確かに、『たられば』の世界を信じて生きることは、精神的に楽ではあるが・・・。

 

仮に成就したとしても、更なるリクエストを己に課すのがオチなのでは?

 

『人見知りが治れば彼女ができる!』→『できた!でも、経済的に豊かじゃないから申し訳がないな・・』→『もっとお金を稼げれば・・』

 

といった風にループする方が多いと思う。欲望はきちんと線を引かないと、際限がない。

 

『人見知り』『ネガティブ』『ヘタレ』といった(世間的に)マイナス要素に、自分で『まぁいっか』と考えられるか。

 

つまり、『ないモノ』に頭を抱えるくらいなら、『それを受け入れる』方が絶対に良いと言えるわけで。

 

・・そうはいっても、残してある可能性を捨て去るのは簡単ではない。

 

『諾人見知り』とは、前向きに色々と諦めることでもある。自分に見切りをつけるようで、抵抗がある人も多いのでは?

 

ということで次は、『諾人見知り』を成すため、その初めの一歩を述べていく。

 

世間が求めるラインの不条理さを認識しよう。

 

世間一般の成功モデルは、本当に辟易する。

 

明朗快活。年収600万以上。高学歴。多趣味。オシャレ。勤勉。休むときは休む。気前が良い。高級外車持ち。・・・

 

最近は押しなべてそのモデルのボーダーは下がりつつあるものの、現実がそれ以上に暗澹としているのが問題だろう。

 

年収は上がらず。SNSによる相互監視が発達し息苦しい。浮気・離婚。生涯独身率の激増。黒すぎる労働環境・・・

 

書いていて本当に気が滅入ってくる。だからこそ、据え置きの成功モデルに合わせるのは、本気で不毛なのだ。

 

つまり、その無茶苦茶さに照らし合わせることで、自分の中の色々なものが諦められることに繋がる。

 

例えば、僕は高級外車について1mmも考えたことがない。そんな金は無いし、何より魅力を感じていない。

 

また、高学歴についても、該当するわけがない状態なので捨てた。というか、肩書に食いつくタイプの人と、あまり僕は交友したくない。

 

何より、僕は結婚というのも興味が無くなった。結婚する気がないので、その前段階に当たる恋愛もどうでもいい。

 

僕は子どもが欲しいと思ったことがあまり無いし、誰かと一つ屋根の下に暮らすなんて本気で耐えられる気がしない。

 

求められる経済負担は絶対に背負いきれないし、後に被りまくるリスクは本気で取りたくない。

 

世間の成功モデル(というより当たり前とされる事象)にあたることでも、冷静に考えれば求められるモノの総計は甚大だ。

 

自分にその器があるのか?かつ、それを本当に望むのか?

 

それを照らし合わせ、1つ、また1つと取捨選択していき、自分の人生をスリムにしていく。

 

ここ最近の情勢を見ていると、これはもはや必須スキルでは?とさえ感じる次第だ。

 

無論、ここで論を止めればただのネガティブの独りよがりだが、スリムに考えることは決して悪いことではない。

 

理由は単純で、『本当に必要な要素に、持っている資本を集中して投資できるから』である。

 

前向きに諦めをつけた後にすべきことは何か。以下に続けて書いていく。

 

『諦められなかったもの』を追いかける。

 

世間のラインと照らし合わせたり、自分の器を考えたりしても、切り捨てられないものはやっぱりある。

 

例えば僕なら、今の仕事もそうだし、趣味として持っているアレコレもそうだ。

 

となれば、切り捨てたものたちに注がれるはずだった時間・金・労力をこっちに投資することで、一層の満足を得られると考えられる。

 

極端な例が、結婚ではなかろうか。婚姻、結婚式、子育てとかその辺を諦めると、莫大な額のお金と、時間が浮く。

 

その分で趣味を充実させたり、経験値として旅行に行ったり、自己投資として読書なんかをすれば、ある意味最適な配分に全てが落ち着く。

 

前向きな諦めを付ける意味はここにある。あれもこれもでは、よほど成功した人格者でない限り、きっと何も出来ない。

 

また、『彼女を作るための脱人見知り』と、『職場になじむ脱人見知り』では、方法論が微妙に違ってくる。

 

何も考えず『脱人見知り!』を目指しても、例えば「お菓子作りのために野菜の切り方を練習しています」といったような残念なズレになり得ることもある。

 

最適解を見つけるためには、やはり問題をシンプルに突き詰めるのは必須だ。

 

そういう意味で考えても、前向きな諦めは非常に価値が高い。『諾人見知り』は諦めに見えて、実際は問題単純化のプロセスなのだ。

 

まとめ。

 

諾人見知りとは、

 

『本当に必要な要素に持っている資本を集中して投資するため、己の人見知り気質を受け入れたうえで、前向きに色々と諦めること』

 

乱暴にまとまる。

 

地の性格をぶっ壊して脱人見知りを計り、心の奥底で溜めに溜めた願望を果たしていく。ここが脱人見知りの動機だろうけれど・・。

 

自分が長年連れ添った、かつDNAレベルで刷りこまれた気質をぶっ壊してでも叶えたい夢とは何なのだろう。

 

恋愛?友達100人?行きたかったクラブに行く?ナンパ?

 

正直、人見知りだろうと友達が100人いるヤツは居るし、ナンパするヤツも居るし、恋愛を満喫して結婚をしているヤツも居る。

 

僕が提唱したいのは、『よっぽど叶えたい夢があり、かつそれは脱人見知りを前提とする』のであれば、それに向けて邁進すればいいという話であり。

 

『でも、大抵のことは、人見知りの気質の使い方を変えれば何とかなるし、そっちの方がラクで早くて健康的だよ』ということである。

 

10年かけて人見知りを治し、そこから異性に声を掛けるのか。

 

人見知りを抱えつつも、アプローチ方法を変えて取り組むのか。

 

掛かる時間や労力、抱えている夢の大きさ。そこは冷静に考えてみてほしい。

 

―という投げかけをもって、この記事を締めようと思う。

 

脱人見知りに疲れた時の選択肢として、諾人見知り。僕は強く推奨する。