記事数も100を超えて、僕自身の闇がかなり可視化できたと感じる。これまでの記事をじっくり読み返すと、僕の思考の移り変わりがよく分かる。
人見知り。ネガティブ。ヘタレ。おまけにアセクシャルで性嫌悪。世間一般が提唱する『楽しいこと』を満喫するには、障壁が多すぎる。
だからこそ、だ。かなりオリジナリティあふれる僕自身の幸せを追求できるチャンスなんだ。最近はそういう変なポジティブシンキングに落ち着いている。
つまり僕は、世間の求める像に近づこうとするのではなく、それを前向きに諦める方法にシフトしつつあるのだ。
人見知りゆえに、パリピな人種にはなれない。ヘタレゆえ、カリスマ的な何かにはなれない。アセクシャルで性嫌悪ゆえ、甘酸っぱいものが性に合わない。
これを欠点と考えるか否か。僕は、他者が要るものが要らないというのはある意味『才能』だと感じている。
ということで今日は、一体何度目か分からないものの、『前向きな諦め』についての記事を書こうという次第なわけである。
『本当にそれは、あなたに必要ですか?』
集団心理として、誰もが出来ることが出来ないのは心苦しいし、誰もが必要なものを不要と言うとバカにされるのは、世の常なのかもしれない。
この気持ち、昔はよく分かったが、最近はあまりピンとこない。世間の理想を求めることとは、つまり他者の人生を生きることではなかろうか。
世間の理想とは、言い換えれば他の人の願望。お母さん方の言うところの、『良い子のモデルケース』みたいなものである。
そこに主体的な感覚はない。『自分がそうしたいから』ではなく、『周りがそういうから』という価値観で動くのは、正直微妙かなと。
勿論それが幸せならそれで構わないのだが、僕は変なところにトゲがあり、”自分”に軸のない人生はクソだと思ってしまう。
ちなみに、僕が実際のところ他者に振り回されて、自分の意思を見失っていることには、20代半ばで気付いた。
彼女がいなければ人としても男としてもクソだと思い込み、楽しくも無い努力をし、今思えば無駄な投資を繰り返した。
人見知り気質はダメだと思い込み、多量の本を読み、自己否定を繰り返した。
諦めてはいけないと、心を壊す寸前まで働き続けた。
そして、そんな不器用な日々を過ごすうち、あるときふと気付いてしまった。
『あぁ、全然楽しくねぇ。俺は一体、誰の人生を生きているんだ。』
―そこからは、他人から見れば全然そうは見えないだろうけれど、自分勝手な行動を取れるように少しずつ変わっていった。
人に嫌われるのも平気になった。積極的にそうする気はさらさら無いものの、自分を殺してまで好かれたいとは微塵も思ってない。
それができるようになったきっかけは、ふと僕が僕にあることを問うたことだ。
『本当にこれは、俺に必要なのか?』
もし、この質問を自分が取り組んでいる何かに向け、その答えに迷ったのならば、それは人生において不要なものの可能性が高いはず。
僕はこの質問を使い、不要なものをどんどん人生から捨てていった。
熱い人とか、自分の可能性を諦めきれない人にとっては信じがたい話かもしれない。だが、やはりこの作業はメリットが大きい。
以下、データを基に紹介する。
諦めることで手に入る何か。
恋愛が一番わかりやすいので、これを例に取る。
少しポジショントークが過ぎる気もするが、こういう記事があった。
地方とか個人ごとによって大幅に変動すると思うが、異性との交際には年間50万円程度の支出が掛かるのだという。
それに加えて、時間もやはり掛かる。労力みたいに可視化し辛い資本も然りだ。大好きでなければ、とても払える額ではない。
実は諦めるということは、ここに投資するはずだった資源を、別に振り分けるということに他ならない。
最近気付いたのだが、僕は別に彼女が欲しいわけではなく、たまに遊んでくれる程度の人で十分だ。
わざわざ肩書を変えただけで、色々を投下するにはあまりにも惜しい。
―と言う風に、『諦め』によって人生をシンプルに出来るだけでなく、『本当に』好きな何かに、資源を集中できるというワケで。
好きでもないけれど、世間では理想とされている・・みたいな思想は弊履の如く打ち捨てて、自己を見つめなおす方が健全である。
ハマっては飽きるで構わない。
僕は飽き性だ。数か月単位で、熱中するものがコロコロと変わる。
高校の時は、お菓子作りにハマっていた。その名残で、今でもプディングなら焼ける。
また一時期は、ビリヤードとダーツにハマり、よく後輩や友達を誘って行っていたものである。
お気に入りのラーメン屋に出会えば、週3くらいで通い続けた。最近は月1くらいにしているけど。
ちなみに今は何故か高校数学にハマっており、ちまちまと復習を続けている。
その時、その時で色んなことに熱意を持つのは大切だ。しかしそれと同じくらい、それらを簡単に捨てることも重要である。
何故なら、そうでもしないと、いずれ抱え込める没頭の対象の数が頭打ちになるためだ。
あれもこれも、全力で頑張る!なんてのは子供の論理。時間は有限だし、自分という人間は一人しかいない。
何より、思いの外、自分が持っている資源(時間・金・労力)は少ない。適正な配分で割り振り続けないと、人生という観点から無駄が生じる。
シンプルに、そして後腐れなく。大切なことだと僕は強くお勧めする。
終わりに。
今、僕は幸せなのか。ハッキリ言うが、今までの人生でピークに幸せである。
到達できもしない、別に達成したくもない目標を次々と止めてから、本当に身軽になった。
こういうと冷たい人間と思われがちだが、こんな僕にもどうしても捨てたくないものはいくつかあるのでご安心を。
諦めることはネガティブなことではなく、どちらかと言えば極めてポジティブな話なのだ。
最近色々抱え込んで、心がお疲れ気味なのであれば・・・ぜひとも一度立ち止まって、ここに書いたことについて考えてみてほしい。