僕はネガティブだけど、それなりに充実した人生を生きたいと思う。

「ネガティブ」で片づけず、自分の観察を続けたい。

久しぶりに絶望的に悩むことがあった。そこで得た教訓を勿体ないから書いておくよ!

『魂は地獄で磨かれる』みたいな格言を聞いたことがある。人間としての真価は、辛く苦しいところで高まるもの、という意味だろう。

 

原因はさておき、この1週間は精神的に滅茶苦茶辛かった。過去『適応障害』に突っ込みかけた、あの頃の嫌な記憶が蘇る。

 

今は色々と踏ん切りがつき、やっとこさ元の状態に戻りつつある最中だ。まだまだ心はデリケート。むやみに刺激は出来ない。

 

だが、出来事は全て、『自分がどう思うか』で変わってくるという。だから僕は、この辛かった日々を『良い学び』として捉えたい。

 

ということで今日は、僕が最近落ちた『ネガティブのどん底』で得た学び、それを皆さんにシェアしたいと思う。

 

 

 

ネガティブに考えれば、身の回り全てはネガティブになる。

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 心がハッピーだと、色々と楽しい考えが浮かぶ。いい天気だなぁ、この雨で草木が元気になるなぁ、何して遊ぼうかなぁ、そんな感じ。

 

逆に心が沈んでいると、色々と辛い考えが浮かぶ。クソ暑いなぁ、雨とか嫌になっちゃうなぁ、遊んでる場合かよ俺、そんな感じ。

 

―実際、現実は何にも変わっていない変わったのは、それを受け止める心の方である。精神的に辛いときは、考えの全てが悪い方に行ってしまう。

 

ここ最近は、とにかく身の回りに起こる出来事全てが、自分にとって悪いことのようにしか受け止められなかった。

 

電話が鳴れば良くない知らせだと思っちゃったし、雨が降ればそれだけで良くない出来事が起きそうだとも思ってしまった。

 

不健康極まりない。ゲームをして気晴らしをしようにも、『そんな場合じゃないだろ?』という思考が湧いてきて楽しめない。

 

久しぶりに考え事が止まらず眠れない夜もあった。内容は全て、とある出来事に対する後悔と自責。よく生きてたな~、俺。

 

鬱が鬱を呼ぶ、ネガティブがネガティブを呼ぶというのは、『まさに!』である。もはや正常な考え方とは程遠い。

 

ネガティブ思考は切り離せればなんてことないが、囚われると本人は言葉にできないくらい辛い。

 

そんなことをこのブログで何度も書いてきたが、『やっぱりそうだよなー』というのを再認識させられた。

  

自分を責めちゃう『反芻思考』を止めるのに効くワザとは。

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―となれば、今までここに書いてきたり、ネットで読んだり、本で読んだりしてきた、『脱ネガティブ思考』の技を使うチャンスである。

 

色々試してみて、特に効果があったのは以下の2つ。順番にご紹介。

 

①クリエイティブなことをする!(フラリッシュ)

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 例えばこのブログを書いたり、趣味のお絵かきに時間を割いたり、作ったことのない料理をしたり、などなど。

 

とにかく何かを生み出すことに取り組むようにすると、確かにその間とそこからしばらく、ネガティブ思考は落ち着いた。

 

原理はよくわからないが、多分『没頭』状態を作ることで、一旦ネガティブ思考から離れられるのが理由だと思う。

 

特に悩みが止まらないときは、30分くらい過去記事の書き直しなどで頭の中のものを書き殴り続けた。

 

他にもお菓子作りや裁縫などでも効果があるそうなので、自分に合ったやり方で何かを作るのは、ネガティブ対策に◎だ。

 

②HIITトレーニングを行う!

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簡単に言えば、20秒筋トレして、10秒休み、20秒筋トレして・・ってのを5分繰り返すというエクササイズ。

 

腕立て伏せと、家にあるぶら下がり健康器を使っての懸垂を交互に5分、実際にやってみた。

 

すると、清々しい気持ちでいっぱいになった。(息は絶え絶えであったが)

なるほど、運動もまた、ネガティブの天敵だったか・・。

 

激しい運動をやってみるのも、強すぎるネガティブには効果的!手軽なのも嬉しいので、ぜひ実践してみてほしい。

 

―といったワザで心を軽くすることはできたが、なかなか自分の努力で、完璧に自分の心を立て直すのは難しかった

 

そんな豆腐メンタルの僕が、どうにもならなそうな考えを脱するきっかけになったのは・・・。

 

実は、他の人の支えであった。

 

言葉は人を救う。

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メンタルフルボッコ事件の後、僕は色々な人に『報告』を行った。なるべく第三者視点で伝達しようとは心掛けたが・・。

 

言葉の節々に、僕のつらたんな気分が出てしまっていたのだろう。報告を受けた人たちからは、『労い』の言葉を次々に頂戴した。

 

―僕はこの言葉たちに救われた。「お前は間違ってないよ。」「大変だったね。」「頑張ったね。」「大丈夫だよ。」

 

言った当人たちに、どこまで考えがあったのかは分からない。ーただこういった言葉が、一番僕の心を癒してくれた

 

俺は居てもいいんだ、俺の考えは完全に間違っていたワケじゃないんだ、そんな感覚が湧いてきた。消えてた自己重要感が、帰ってきた。

 

―本当のところ、報告の際、僕は「怒られるだろうなー」と思っていた。もはや思考がまともじゃないので、これは仕方ない。

 

「今回の事案はお前の力不足が招いたことだろう!」と言われるのを覚悟していた。もし本当に言われていたら、まだまだ立ち直れてはいないだろう。

 

―本当に辛い状態にある人を救えるのは、もしかしたら言葉なのかもしれない。現に僕がそうだったように。

 

僕の仕事は、お客(この言い方嫌いだけど)との関係が密だ。当然、悩みを抱えた人たちも多い。

 

その気持ちを学んだ今、僕も誰かの力になれるかもしれない。言い方を間違えれば、その逆になることも重々承知。

 

辛い人に出会ったら、力になってあげたいな。僕は今、その想いに満ちている。僕は本当の『やさしさ』を学べたのかもしれない。

 

終わりに:そもそもなぜ僕はネガティブの底にまた落ちたのか?

 

すごく乱暴に言えば、『人に嫌われる決断をし、実行した』ことだ。

 

全体の利益を考えた結果、何人かに僕のもとを去ってもらう。そんな決断を下し、勇気を振り絞って実行したのだ。

 

僕は誰かに嫌われることがとても怖い。孤独になるんじゃないかと、後ろ指差されるんじゃないかと、不安で不安で仕方ない。

 

だから、『俺のもとを去ってくれ』というセリフは、人生で一度も言いたくなかった。だが―そうするしかなかったし、そうするべきだった。

 

ー僕の想いを伝えた相手が、去り際に僕を睨んだ顔が、未だに忘れられない。残ってくれた人に目を向けたいのにー去らせた人たちに注目してしまう。

 

ハッキリと僕は嫌われただろうな。僕の悪評は広まることだろう。あの人たちを救う手は無かったのか?僕に力が無かっただけじゃないか?

 

自分の力不足をなすりつけただけでは?クズなのはむしろ、僕の方では?僕はここにいる資格があるのか?

 

自分を責めるループはそこから止まらなかった。何故だろう?残ってくれた人たちの得を考えるべきなのに・・

 

何故僕は失ったことばかり、起きてしまったことばかり考えてしまうのだろう?

 

後悔ばかりが湧いてきて、ひたすらひたすら辛かった。自分には価値も資格もないとしか思えなかった。

 

肌も荒れ、軽く不眠になり、肉体的にも辛かった。今文字にしてみると、『そんなことで・・』と思えちゃうのだが。

 

嫌われることが嫌で嫌で、自分を殺し八方美人に徹し、自分をないがしろにして他の人の得ばかり追求する。

 

そんなライフスタイルを20年以上採用してきたのだ。自分が恐れていたことに自分から向き合う恐怖―これはなかなか理解してはもらえまい。

 

けれど・・テクニックと、実践と、周りの人の支え。僕は今、大方元通りになるまで回復することができた。

 

時たま去っていった人たち、僕を嫌う人たちの顔が、声が思い出されるが・・。それはハッキリを振り払わなければな。

 

今僕を支えてくれる人、僕についてきてくれる人を幸せにしなければ。恩返ししなければ。やっと、するべきことがハッキリ見えた。

 

―とまぁ、えらく青臭い文章になってしまったが、これが僕が感じていたリアルである。生々しさが伝わっていれば嬉しいな。

 

ネガティブの底には、確かに大切な教えが落ちている。

 

だが、あなたがわざわざそこに踏み込む必要はない。魂は地獄で磨かれるというが、手段は絶対にそれだけではないのだから。

 

―それでは今日はこの辺で。