僕は真面目な気質だが、同時に怠け者でもある。
そして責任感が変に強い面もあるが、同時にヘタレでもある。
さらに筋金入りの人見知りでありながら、誰かに対し何かを通じて僕自身を表現するのは嫌いじゃないという変態でもある。
―かつて、特に10代の頃は、上記の全ての傾向が、今の2倍以上は強かった。
自分の気質にがんじがらめになりながら、主観的にではなく客観的に見た『理想の自分』になろうと努力していた覚えがある。
「18歳で浪人せず地方国公立に進学して、22歳で卒業して、普通に働いて、27,8で結婚して・・・」という人生の指針もあった。
「休みの日でも向上し続けなければならない」という強迫観念もあった。
「僕は努力し続けないと社会から何かを剥奪される」という恐れもあった。
果たしてそれらは今も抱けているか。
答えはハッキリとノーだ。
僕はかつての僕から見たらクズと烙印を押されるタイプの人間に、見事になり替わっていた。
だが今、かなり気分は楽で落ち着いていて、かつ人生が楽しい。
理想は捨てた方が人生にプラスになることもある。今日はそれについてまとめてみる。
『どうでもいい』
先ほど列挙した『テンプレ』な夢・理想。その大半は、今思えばなんて「どうでもいい」ことか。
大学進学計画はまだ良い。
普通に働くの”普通”って何だ?その時々にしたいことを仕事にすればよい。どうでもいい。
27・8歳にして、僕程度の財力・器・格の男が誰かと結婚すれば、生活が確実に破綻する。
そんな程度の男を選んでくれる女性は、天女ではあるが男を見る目がないとも思う。
僕は僕を産んでくれた家族に関心はあるが、自分が大黒柱となる家庭には関心がない。
多分僕は、よく言えば守るべきモノ、悪く言えば自分の枷になるモノを増やすことが大嫌いなんだと思う。
さよなら、18の僕が抱いた夢。ありがとう、おかげで人生楽になった。
ちょっと脱線したが、つまり、僕が乱発できるようになったのは、「どうでもいい」という言葉である。
かつての夢にペタペタ貼りつけるだけで、肩の荷が下りて、人生が味気なくなっていくというデメリットはあるが、楽になるというメリットが勝っている。
まぁ、どうしてこうも簡単に純粋時代の自分を捨てるような真似が出来るかというと、きちんと理由、もとい言い訳がある。
理想を追い求め続けた果て。
社会に出るまでは、することなんて遊びか勉強かバイトだったのもあり、結構努力というものが出来た。
TOEICとか就職活動とか卒業論文とか、時間があったのもあり、それなりには全部及第点を取ってきた自負がある。
しかし、社会に出たら、まぁ粉微塵に全てが崩れたのを覚えている。
今までの水準で頑張りたくても、時間が無くて。
そろそろ彼女を作ろうと思っても、出会いが無くて。
どれだけ頑張っても、暮らしは楽にならざり、で。
理想というレールから外れまくり、仕事でもまたフラストレーションが溜まり、収入は飲食に面白いほど消えていった。
それでもまだ、かつての僕が抱いていたそれを大事にしようと、結構二律背反な状態のまま足掻いていた時期がある。
そんな生活を無理やり続けて僕はどうなったか?結論を言うと、心と体が壊れた。
この時僕はハッキリと、理想を捨てなければ自分が死ぬということを自覚した。変な真面目さと責任感の強さ、そして純粋な一面がアダとなったのだ。
そこからは「どんな夢を追うか」ではなく、「どの夢なら捨てられるか」に焦点を合わせるようになり、酒の力を借りつつ、一つ、また一つと葬った。
理想の年収、理想の家庭、理想の能力、増やしたい趣味、理想の30代、理想の彼女、理想の嫁、理想のタイプ、理想の未来・・・・
一度捨てられれば面白いもので、芋づる状に流れていく。
今の僕はハッキリいって覇気の無いカス野郎であり、10代の自分が見たら泣くんじゃないかという有様である。
まぁ多分、過去の自分に会えたとしても、これが大人になるということ、とか何とかでちょろまかして終わりである。
だが、決してこれは悪いことだけではない。きちんとメリットもあった。
最後まで捨てられなかったもの。
最後までどうでもいいと烙印を押せなかった者たちがある。
友達、後輩、先輩、自己鍛錬、実家の家族、趣味・・・がそれに当たる。
つまり上記の物は僕の人生の肝であり、それの為に生きている要素が強い。
共通点は、「楽しい」か「多大な恩がある」かである。
僕は返しきれない借りを返す為、しぶとく社会からリタイアせずに生きているとさえ感じる。
意欲のないゴミの癖に、下っ端のまま人生を終えるのには猛烈な抵抗がある。
僕は僕の組織を作ってみたいという不思議な野心も持っている。理由は、その過程が楽しいから。
正直、責任が全く取れない立場より、責任を取らせてもらえる立場の方が、リスクが高い分なんか楽しそうだと僕は感じている。
誰かに永遠にケツを拭かれるのは、赤ちゃんを卒業できないままのようで何か嫌だ。
どうでもいいものをキッパリ人生から捨てていくと、自分の持っている資本(時間、金、労働力など)を集中すべきモノ達が自然と浮かび上がってくる。
夢を捨てることと言えば悲しく聞こえるが、はっきりとやる気がない分野に投資をし続ける方が無益である。
『理想を捨てる』とは、自分が本来打ち込むべき何かを探す第一歩だ。決して逃げでも諦めでもないのである。
―そういえば、3年前だったか、小5の僕から手紙が届いた。何かのイベントで投函したもので、記憶の欠片にも残っていなかった。
一見すると、普通のハガキ。だが、その裏には、未来の僕に対するリクエストが箇条書きで書いてあった。
読んでいくと、目頭が熱くなった。懐かしさや感動のせいではない。何一つ満たせてあげられないことに対する罪悪感のためだ。
だが、そのリクエストをすべて満たしてあげると、僕は僕の人生を生きられないこと、そして生きてて楽しくないことは明らかであった。
純粋過ぎる夢は時に猛毒となるらしい。無ければ生きられないが、度を超すと死ぬ。
そこと折り合いを付けるためには「どうでもいい」という言葉がその一助となる。
だから僕はその手紙を読みながら、最後の方はこう思っていた。
「お便りありがとう。ごめんけど、全部今となってはどうでもいい」
どっちの方が正しいのだろう。
少なくとも僕は、今の方が生きていて”ラク”だと感じているのだが・・・。
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