僕はネガティブだけど、それなりに充実した人生を生きたいと思う。

「ネガティブ」で片づけず、自分の観察を続けたい。

コワイコワイ他者の目から、いっそ自由になるために。『恥をかく』練習のススメ。

超自意識過剰である。何かをやって人に笑われる・・といったことが、怖くて仕方がない。これは幼稚園の頃から、うっすら心当たりがある。

 

発表会とかお遊戯大会が大嫌いだった。人前に出て変な格好をして、内容のない劇をするなんて、公開処刑に等しい。

 

同じ意味では、運動会や体育祭も嫌いであった。苦手な運動を皆の前でしなきゃいけないなんて、これまた恥さらしの舞台である。

 

―こういった病的な自意識過剰の原因は何だろうか。ずっと考えた結果、今は周囲の目に対する過度な恐れだと思っている。

  

「人の目が何?」と思うのか、「うわ、超恥ずかしいじゃん!」と思えるのかが、人生楽しめるか自意識拗らせるかの分かれ道ではなかろうか。

 

そしてまず間違いなく、恥を恐れず色々やれた方が人生は面白い。どうすればそちら側に行けるのか。

 

 そんなことをずっと考え続けていたが、ようやく最近、この辺の自意識過剰さが薄れてきたと感じる。

 

理由は、「他者は自分に興味が全くない」ことに気付けたためだ。僕がどこで何してようが、周りの人は全然興味が無いものである。

 

そこで今日は、他者が自分に興味が無いのを自覚することを狙いとして、いくつか具体的な方法を紹介する。

 

では、以下本文。

 

 

  

意識高い系トレーニングをしてみよう。

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 僕はかつて、家の前でのバットの素振りや、河川敷の階段を全力で駆け上がるトレーニングがすごく苦手であった。

 

理由は、「わ、なんか意識高いヤツがおるで(笑)」と思われそうだったからである。今思えば、僕は病気だったな。

 

しかしいつかは忘れたが、そういうトレーニングを積んでいる人を見ても、すごく興味がない自分に気付いた。

 

道路でシャドーボクシングをしていたり、空き地で立ち幅跳びしていたり。やってることの意識は高いけれど、ぶっちゃけ、どうでもいいなぁ。

 

数分後には、顔も服装も、そもそも性別も思い出せない。そういう意識高い人は、次々と記憶の中から消えていった。

 

・・・あれ?では逆もまた然りなのでは?とそのとき改めて思った。僕は芸能人でも何でもない。ただのその辺のサラリーマンだ。

 

こんな男を観察する暇人もバカも、この世にはいない。

 

そういう悟りもあり、身体が鈍っているときは、ハード目なトレーニングを家の前の駐車場でするようになった。

 

結果、笑われたこともないし、指さされたこともないし、写真に撮られてアップされたことも、至極当たり前だがもちろん無い。

 

一度、思い切って意識高い系のトレーニングをやってみよう。

 

外に出てリフティング。ダッシュ。竹刀の素振り。大いに結構。それらをきっかけに、他者の無関心っぷりが身に染みてわかる。

 

独り○○をしてみよう。

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 カフェが苦手だった。本当は落ち着いたところで読書とか、こういう記事の執筆とか、超やってみたいのだが・・。

 

「わ、ぶってるわー(笑)」と言う、架空の他者の声がその邪魔をしていた。そいつら(もとい僕のメタ)は、カフェで洋書やiPadを開く人間をバカにする。

 

まぁ、さっきも言ったけれど、現実の人間はそこまで暇ではない。まずはこれを強く自覚するべきだ。

 

ということで、独りで行けるところのストックを増やすことで、自意識過剰の程度を弱めよう

 

一応提案しておく。とりあえず僕が行って面白いのは、家電量販店とか、ホームセンターとか。

 

コーヒーメーカーの前で顎に指をあてながら考え込んでも、店員以外誰も興味がないので気にしなくていい。

 

おしゃれなマットレスのスペックを凝視しても、やはり店員以外は興味がないので、好きなだけ満喫できる。

 

そこで自信を付けてからは、独りラーメン店に始まり、独りファミレスとか、何なら独り居酒屋なんかに繰り出しても良い。

 

好きなこと、得意なジャンルで構わないので、独りで行ける場所のバリエーションを増やすことは大切である。

 

無茶ぶりに乗っかろう。

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 最強の壁である。僕は無茶ぶりという言葉が本当に嫌いだ。マジで嫌いだ。

 

 ―とはいえ最近は、意地張ってもチンケなプライドしか守れないと自覚したからか、20代前半に比べて抵抗はかなり弱まった。

 

そして、自分の『恥』ラインを思いっきり超えることで、劇的に性格を変えられそう!と感じているため、昔ほど『無茶ぶりを悪』とは思わなくなった

 

では、全力でふざけるといっても、何をどう?ということだが・・・。例えば、何かしらの会における一発芸を考えてみよう。

 

はた目からみて一番感じるのは、吹っ切れていないパフォーマンスこそ目立つ、という点ではなかろうか。

 

「あいつ、何を恥ずかしがってんねん」とこちらが思うのだ。僕らがする側に立った時も、同じこと。

 

つまり、全力でなんかした方が、好印象に映るし、何より必死になるから、その時間の記憶が消し飛ぶというのもある。

 

でも恥ずかしい・・・。という方は、たぶんまだ、やったことがないだけである。

 

一度してみれば、結構考え方が変わる。ただ、わざわざなんでもない飲み会でピエロになれとも言わないが。

  

こんな僕も過去、諸先輩の前で某アイドルグループのダンスを踊ったことがある。僕の自意識は滅茶苦茶になった。

 

後日、その時の思い出を人にきく機会があった。すると、『そんなんしてたっけ?』という反応が一番多かった

 

自分にとって猛烈な恥でも、やはり他者は覚えてないものなのだ。 それくらい僕らから他者への、そして他者から僕らへの興味って、薄いのである。

 

機会があれば、思い切り無茶ぶりに乗ってみよう。終わってからの話だが、見える景色が確かに変わる。

 

おわりに。

  

今でも自意識過剰がゼロになったかと言われれば、はっきりとノーである。

 

良くも悪くも空気を読めない人がいるが、ああいうのは才能だ。気に病む意味が分からない。

 

それに、少しくらい自意識があった方が、押し引きの感覚や、謙遜のしどころなんかが掴みやすくて、タテ社会のこの世をちょっぴり暮らしやすくなる。

 

強すぎても生き辛いのが難点だが、克服する術だって、ちゃんとある。このレベルの男が何とかなったのだから、大体何とかなるですよ。

 

あとは前回の記事でも触れたことだが、人生は有限だとハッキリ自覚してからというもの、ウジウジする時間がたまらなくむず痒くなったというのも大きいか。

 

とりあえず、社会的に抹殺されない範囲で恥をかいてみよう。

 

どうにも外に出るのがあれなら、寝間着を変な文言の書いてあるシャツにしてみるとかでも良い。

 

結局変わるためには、行動が必須。まぁ何より、やってみましょうよ、ということでおしまいとする。

 

※追記↓

hitomishiriteki-jinseikun.hatenablog.com

 

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