世の中には色々な成功モデルがありふれている。
出身大学の格付けもそう、年収の多少もそう。ルックス。スタイル。肉体的な強さ。知性の良し悪し。
なんだか、書いていてとても疲れる用語たちである。
どうにも、世間は上記の成功モデルに入れなければ、その人に『敗者』みたいなレッテルを貼りたがるように感じる。
そういう意味では、僕は全身に『敗者』という何かを貼られるに違いない。
「最低でも関関同立やMARCH!」
「年収は妥協しても600万円以上!」
「身長は175㎝以上ないと願い下げ!」
「酒やたばこは論外だ!」
・・・何一つ満たしていない。
では、僕はこういったモデルを目指し、日々努力しているのだろうか。後ろめたく感じているのだろうか。
ハッキリとノーである。理由は、とにもかくにも、めんどくさすぎるからだ。
気にしなければ、ストレスにならない。というよりむしろ、自分の中の『幸せ』の基準を下げることは、かえって『幸せ』の度合いを高める。
今日はそういうお話である。
「~れば幸せ」・・とはいかない。
世間一般での成功モデルの問題点は、あたかも「そうなれれば幸せで、そうなれなければ不幸」と感じられる点が大きい。
僕も過去にそう思うことはあった。努力をしたこともある。実際、達成できたのもある。
しかし、達成してまず思ったことは、「まだまだ上がいるじゃないか」という考えだった。
仮に東大に受かろうとも、東大内でまた学力の格付けがあったりする。
年収が600万円を超えようとも、1000万円稼ぐ人から見れば格下の印象を持ってしまうのでは?
身長が175㎝を超えたとしても、多分他のコンプレックスを気にしだすのが関の山だ。体重。毛髪。筋肉量。などなど?
どうだろうか?
結局、『幸せ』にはなれていないように感じられる。条件付きの幸福というのは、結局達成してみれば不満にしか目が行かない。
正直、僕が哀れな努力を繰り返して学んだことは、これくらいのものであった。
勿論、自己投資や努力を通じ、上を目指し続けるのは、とてもスバラシイことである。
しかし、「もし~れば”きっと俺は”幸せになれる!今の状況はクソだけど!」という考えがあるのならば、正直危険であると思わざるを得ない。
理由はもう、言わずもがな、である。
幸せの基準を下げて変わったこと。
とりあえず、毎日不満なく生きられている。
不満が浮かぼうとも、即座に諦められるか、速攻対応できるくらい小規模なそれに落ち着く。
年収うんぬんとかを言いだしたら、意識高い人たちに僕は鼻で笑われるだろう。
だから何だ?
僕は一人で暮らす分には全く苦労していない。たまに贅沢をしても平気だ。
そもそも帰れる家があるだけでめっけもんである。なんならこのご時世、定職につけただけでもありがたい。
身長は170㎝くらい。昔は180㎝とか欲しかったけれど、今はクソどうでもいい。
身長ごときで自分を否定するような考えは無益だ。どうでもいいと思えば、どうでもいい。
一仕事終えた後の酒は美味い。コーヒーを片手に味わうタバコもまた然り。
人の評価を病的に気にしていると味わえない時間である。
そして、僕は全くもってモテていた経験がない。でも、それが普通だと思っている。僕で妥協する人はどこかがオカしい。
この辺は、ドロップアウトの代償としてはむしろ、「そんなんでいいんすか?」というくらい軽い。
さて。
自分からそういう他者評価のステージを降りてからというもの、とにかく生きやすくなった。
得てして、上記の要素は圧倒的に運の要素が強すぎる。本当に、ギャンブルと同じだ。
手に入ればめっけもんであり、手に入らないのが普通なのである。
手に入るのが普通で、手に入らないのが不幸・・とかいう方がおかしい。理想の自分なんて、色んなゲームのキャラメイキングででも作っておけば良い。
―ただ、そうはいっても、敢えてドロップアウトするというのは結構難しい―そう思われそうである。
ただ、これにも手段がある。以下はそれらの纏めである。
最悪をイメージしよう。今の自分を知ろう。
まず、僕たちの得意技、「最悪の想像」から始めてみよう。
学歴なら、「ぼろぼろの成績で中卒」とか、年収なら「バイトで食いつないで150万ちょい」とか。
恋愛なら、「さんざん貢がされて、最後は本命の彼氏にボコられて終了」とか。
では、現状はどうだろうか。遥かにマシというのが大半だと僕は思うのだが。
それでもまだまだ幸せと感じられないのであれば、一度発展途上国の中でも貧しい国々のドキュメンタリーを観てみるといい。
今も世界のどこかで起きている、凄惨な実情を知ると・・・さすがに価値観は揺らぐ。
つまるところ、いっぺん最悪を考えて、現実がそれよりマシであるのだとすれば、もうOK!という判断をさっさと自分に出すのが一番優しい。
その中でも、もう少し頑張りたいという何かが浮かぶのなら、そこにこそ、どうでもいいやつらから浮いた資本(時間・労力・カネ)を集中して投資すればよい。
基本、「あれもこれも」は不可能な話だ。
「あれを捨ててこれを取る」という考え方のが、結局トータル、何かを生み出せる。
では、どうやってそれを判断すればいいのか?
実は、めちゃ使える指標がある。それは「数字」である。
感情を抜きにして判断をするためには、やはり数字を始めとする客観的なデータは欠かせない。
例を考えよう。
身長やルックスは、生まれてくる子供目線に立つと、親を選べない時点でこちらの扱える範疇を超えている。
つまり、考えるだけ無駄な要素となる。
病的に自分が嫌いなら、イリザロフ法とか、整形をすればいいのでは?
僕としてはどちらも全然興味ないけれど。
年収についても、こういうサイトの数値をジっと見ていると、色々と諦めがつく。
年収400万を超えても、累進課税で持ってかれる額を考えたら・・とか、
年収1000万を超えても、結局税金でしょっぴかれると・・とか、
額面にはない状況まで含めると、果たして必死こいて目指すべきなのかなぁと揺らいでしまう。
勿論、自分に適性がある仕事がたまたまそういう給料だった、とかなら別にどうでもいいのだけれども。
んで、恋愛や結婚も、実情を考えると僕はしり込みする。
昨今、それらについて、「コスパ最悪」とか、「割に合わない」と考えている男性が増えているとか。
ぶっちゃけ、めっちゃくちゃ気持ちが分かってしまう。
とりあえず僕は別に性欲のパワーが強いワケでもなんでもないので、独り身でも平気である。有り難い。
そういうカスなので、彼女だとか嫁だとかいう存在が、僕の中ではかなり優先順位が低くなる。
そんなのに時間とか労力とか色々と投資して、関係の維持にビクつき、何らかのトラブルといったリスクを負うとか、そこまでする意味がとりあえずわからない。
かけがえのない時間とか、やすらぎとやらも抽象的すぎる。
こう思う人が増えているからかは知らないが、男性の生涯独身率は23%、女性のそれは14%くらいにまで高まっているという。
5人に1人の割合なら、少数派だからと恥じる数値では、決してない。
―とりあえず僕は、自分のキャラを考えて、それに合わないことはバシバシ切った。
結果、かなり身軽に人生をエンジョイできている。
―最悪を考えて、それよりマシならもう十分。数字という判断材料も使って検討。
とりあえずこれらが、『幸せ』の基準を"健全に"下げるための、諦めを作るためのツールである。
終わりに。
「幸せとは、なるものではなく気付くこと」
みたいなフレーズがある。青臭いセリフとか笑う前に考えてほしいのだが、実に的を射ている。
実際、今が不幸だと心底思っている人は、仮に東大に受かろうが、イケメン実業家と結婚しようが、心のどこかで結局不満を感じる。
逆に、現状が幸せなら、何をしようとも幸せだ。こういう人間は、強い。
今日延々と書き散らしたことも、実はテーマとして上の要素を含んでいる。
世間が求める『勝ち組』を目指すため、何もかも楽しめていないのであれば、ちょっと立ち止まって考えてみるのも手。
このメッセージをもってシメとする。
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