こんなタイトルの記事を書く日が来るとは、正直夢にも思わなかった。しかし、最近の自分を振り返って考えると、そう思わざるを得ない。
あんなに嫌いだった電話が、今ならサッとできる。(嫌いという気持ちは消えていないが)
あれだけ面倒だった他者とのコミュニケーションが、今なら割と円滑にできる(割と、とは当事者比ではあるけれど)
外食が面倒で絶食を選んでいた人間なのに、好きなものを食いにさっさと出かけることもできる。(面倒という気持ちは消えていないけれども)
あまりにも急すぎる自分の変容なので、僕自身も戸惑っているところではあるが・・・。
現状の感覚が薄れないうちに、なぜそうなったのか、思い当たる節を全てここに書き散らしてしまおうと思う。
雑多な記事になってしまうが、ご了承いただけると有り難し。
- 目指したのは、『理想の自分』ではなく、『社会的に最低限』のライン。
- 『他者は自分に興味がない』ことが身に染みてわかった。
- 『自分ルール』を決めれば決める程、結局自由になっていった。
- 『マインド』を作る推薦図書。
- 終わりに。
目指したのは、『理想の自分』ではなく、『社会的に最低限』のライン。
人見知りから脱却した先にあるもの。
それは、どんな性格の人ともあけすけに話したり、自分の意見を堂々と主張したり、異という、ひっくるめれば”きらびやかな”生き方ではなかろうか。
こういった、絵に描いた餅状態の自分は、確かに一般解としての理想ではあるものの、ハッキリ言って無意味としか思わない。
理由は、上記のステータスを得ても僕は別に幸せにはなれないだろうと自覚したからだ。
どんな性格の人ともあけすけに話せれば、それは確かに輝いている。しかし、そういうにぎやかな人生を送りたいかといわれれば別だ。
僕に必要な明るさは、居酒屋で「すいませーん」と言える程度で十分だ。
自分の意見を主張できれば、色々とストレスは減るかもしれない。
だが、そうしてまで通したい意見を、僕は持ったことがない。ブイブイ胸張って、人を率いるタイプでもない。
僕に必要な自己主張は、「○○へ遊びにいこーぜー。」と言える程度のそれで足りている。
まとめると、自分が掲げ続けてきた理想像に対し、最低限という合格点があまりにも乖離していることにやっと気付いたワケで。
こういう状態での努力は、正直どこまで行っても合格点が出ない。疲れるだけだ。
ということを自覚して、ユートピアに暮らす自分を捨て去ったのが、結局人見知り改善に繋がる第一歩となったのかもしれない。
『他者は自分に興味がない』ことが身に染みてわかった。
僕の仕事は、集団を相手にした接客業に近い。
当然、推しどころとしてのポイントがあるときは、かなり強調して伝えているつもりである。
しかし、その記憶の残り具合の低さに慄然とする日々だ。
僕の力不足なのもあるだろうけれど、やはり他者の話には興味がないというのがそもそもの理由なのだろう。
自分なりに結構チャレンジした服装をしても、翌日にはケロッと忘れられている。
自分がかいた恥(親父ギャグを喋ってスベったり、階段でつまづいてこけたり)についても、人の記憶から面白いくらい消えている。
そういったしょうもない事柄を、何故自分だけが強く覚えてしまうのか。
些細な出来事を細かく覚えている理由は、ひとえに動作主が『僕』で、それを恥ずかしいと強く『僕』が思っているから、ただそれだけなんだと思う。
実際、自分以外の誰かがやらかした恥ずかしい出来事、あなたはいくつ思い出していくつ喋れるだろうか?正直、あんまりないのでは?
というわけで、言葉でずっと言われてきた、『他者は自分には興味がない』の意味が、最近体験を通じて理解できたというのも、要素としてはかなり大きい。
僕が動こうとも、他者から見ればどうでもいいのだ。人前で僕が電話をしていようが、周りから見ればどうでもいいのだ。世界は、僕を中心に回っているわけがないのだ。
そして僕から見ても、他者からの批判とか、冷笑とかも、結局は他人事なのでどうでも良くなった。そこでかいた恥に、意味などないのである。
悩んで、気付いた先にあったのは、まさかの開き直りであった。
意外ではあるけど、こうやって欝々とした何かを解放すると、何だかんだで楽しいとは言っておく。
『自分ルール』を決めれば決める程、結局自由になっていった。
僕はこう来たらこうするというルールを、最近意識的にたくさん作っている。
毎朝、コーヒーを買う。起きてすぐ、読書をする。家を出る前に、資格試験の勉強をする。職場についたら、業務を書きだし、優先順位を付ける。
職場の電話が鳴ったら僕が出る。10分程度で終わりそうな仕事が降って来たら、即座に対応する。業務が無くなったらとっとと帰る。
24:00を過ぎてもとっとと帰る。23:30までに帰れたら自炊。それより遅れたら適当に食べて帰る。帰宅後は、とりあえず資格試験の復習。
寝る1時間前からスマホ・PCを触らない。コンビニでは1日700円まで。飲食店にて、頼むと決めたらすぐに呼ぶ。
などなど。息苦しいと思われるだろうか?
ただ、体感としては逆だ。おかげでとっても暮らしやすい。
こういった自分ルールとは、言い換えれば『自分の判断基準』である。これがあると、様々な決断が素早くなるのだ。
判断基準がないと、何かに出くわすたびに、いちいち考えて、決断しないとならない。ダルい。そこに人見知り気質が加わると、尚更ダルくなる。
僕のもつ気質が絡むと、必要だけど面倒なコミュニケーションを、何としても後回しにしたり回避したりする決断を下しがちだ。
結果、後手に回ってボヤになったり、かえって話が抉れたりと、色々不健全だ。
では、判断基準をたくさん用意しておいて、その都度それに照らし合わせ、パッパと決めて行動すればよい、となる。
思考・決断・行動をスピーディーにすることで、人見知り気質がヌタリと介入してくるのを防げるのだ。
「めんどくさいとか知らない。僕は家に帰ったら資格試験の勉強をする決まりなんだ。」
という程度の理由付けで行動ができると、強い。無駄な思考が入らないという意味では、これもまた没頭の一種とも言える。
勿論、一回決めたルールが合わないと思えば、どんどん変えたり捨てたりすればいい。僕もかつて山ほどの自分ルールを作り、変えて、捨ててきた。
ただ、そういうのが固まってくるにつれて、僕は色々と自由にもなった。まずは5個程度で良いので、自分ルールを作ってみることをオススメする。
『マインド』を作る推薦図書。
最後に、人見知りからみたら、目から鱗である思想が載った本を紹介する。
『嫌われる勇気』である。
嫌われる勇気―――自己啓発の源流「アドラー」の教え 岸見 一郎,古賀 史健 ダイヤモンド社 売り上げランキング : 43 Amazonで詳しく見る by AZlink |
あまりにも有名になった本なので、僕はクドクドと言わない。
しかし、これに書いてあることを理解し、実践すれば、確かに人見知りから脱却できるなと感じる。
というより、現在進行形で感じている。
アドラーによれば、『原因』ありきで『現在』が決まるのではなく、『目的』ありきで『現在の行動』が決定しているという。
多分僕は、他者に傷つけられることへの恐怖を回避すべく、『人見知りを利用している』とかその辺ではなかろうか。
しかし、他者の思考や行動は、僕の影響で何とかなる範疇ではない。つまり、僕の問題では無いのだ。
そもそも、”誰か”にとって優れた自分であろうとすることは、”僕ではない人生”を生きることに繋がってしまう。
そういったしがらみから自由になり、幸福となるためには、他人から『嫌われる勇気』が必要なのだ。
・・・という風に僕は薄く解釈している。現在は3回目の再読の最中であり、もっとこの思考は体系的に落としこみたいと考えている。
つまるところ、最近の劇的な人見知り緩和の理由は、このアドラー心理学の実践に帰結しているのだと、ここまで書いて感じている。
実は『嫌われる勇気』は、かつて持ってて一回売ってしまった本なのだ。
1週間くらい前に、また猛烈に読みたくなって、中古で買ったという経緯がある。
頭のどこかにかろうじて残っていた教えと、僕の経験談から生じた考えが結び付いたのだろうか。
これだから読書は面白い。
ちなみに、上記の本には、『嫌われる勇気』の正体や、それを体得する具体的方法などももちろん載っている、
読んだ人も多いと思うが、正直5~6回くらい読まないと、意味が分かり切らないのではと思う。
かくいう僕自身も、3回目にしてやっと、個々の要素の流れが繋がり始めた感じである。
続編はまだ読んでいないが、これを読了したら購入するつもりだ。人見知りこそ、そしてその気質を治したい人にこそ読んでほしい一冊である。
終わりに。
人見知りが改善してきたとはいえ、やはり場面はまだ限定的だ。仕事のスイッチが入ったときじゃないと、克服しているとは厚かましくて言えない。
一応もっかいまとめると、人見知りを治したいのなら、
自分はどの程度まで人見知りを克服したいのかを明確にして、ルールをたくさん定めておき、オリジナルの判断基準を作ろう!!
その上で、『嫌われる勇気』なんかを読んで、自由と幸福へのマインドを作っていけば、おのずと一番怖い『他者』が、自分に興味がないことも分かってくる!
夢を捨てるといえば哀しいけれど、人生をシンプルにしているといえば話は別。
実は自分ルールのくだりにおいては、まだまだ書きたいことがある。それは次回にブン投げる。
では、文字数が多くなってしまったので、今日はここまでとする。