僕はネガティブだけど、それなりに充実した人生を生きたいと思う。

「ネガティブ」で片づけず、自分の観察を続けたい。

僕はクソ真面目をやめようと思う。

大昔に書いた記事。

 

hitomishiriteki-jinseikun.hatenablog.com

結構反応が良かったりする。

 

しかし、僕はまだまだクソ真面目から脱却出来ていない。

 

仕事は自分が全て処理するのが当然だと思っていた。

 

雑事も責任のある仕事もやって一人前だと思っていた。

 

一日の中に、自己啓発の時間が無いとかクソだと思っていた。

 

責任感を拗らせた、つまりクソ真面目な僕なのだ。

そして、そんな自分を、実のところ肯定してもいた。

 

ある意味、自分は極端。

そういうのだけが、独身なのもあってか、僕の拠り所となっていた。

 

だが、最近、その価値観をブチ壊す出来事があった。

 

それは些細なものであったが、しかし、確かに僕の価値観をブチ壊した。

 

何というか、自分の見ていた世界の”狭さ”に”気付けた”瞬間だった。

そして今、僕はハッキリと考えている。

 

『よし、確固たる意志をもって、クソ真面目を止めよう!』

 

今日はそこに至るプロセスと、今後の展望についてを、取りとめもなくまとめてみる。

 

 

  

きっかけは体調を崩したことであった。

 

 

先週、僕はウィルスが原因のアレに罹った。

体調も激烈に悪く、泣く泣く欠勤連絡をし、療養生活を余儀なくされた。

 

正直、めちゃんこ不安であった。

『勝手に休んで、恨まれないかな・・』

『皆は働いているのに、申し訳ないな・・』

 

せめてもの贖罪として、引継ぎ連絡はやたら長めなのを送っていた。

僕のクソ真面目は、病床でも健在だ。

 

そして業務が始まる時間になった。

高熱を出しながらも、僕は眠らず、何かしらの連絡に備えて僕は携帯を握りしめていた。

 

我ながら、結構な仕事を抱えていると考えていたからだ。

どこかで必ず、タスクは渋滞する。

 

・・・・ところが、そんな連絡は皆無であった。

僕がいなくても、普通に仕事は回っていた。

 

普通に考えれば当たり前なのだが、僕にとっては驚きであった。

 

『自分にしか出来ない仕事なんて、ないんだ』と、ストンと腑に落ちて理解できたのはこのときだ。

 

『ということは、僕が必死こいて、歯を食いしばって処理してきたあの仕事の山を、僕”だけ”がしなければならない理由は何だ?』

 

というところに行きついた。

 

さらに考えると、多分僕は、仕事の成果ではなく、仕事を処理することに『生きがいややりがい』を感じていたのではと思う。

 

その仕事の内訳は、『誰かに必要と言われた』ものが大半である。

自分が主体的に考えたものは、その中にほとんどない。

 

むしろ、リクエストをとにかく最優先しないと、人としてクソだと僕は考えていた。

自分のことは二の次が正解だと。そんな風に。

 

結果自分がしんどくなろうとも、誰かがラクになれば、仕事としては正解だなんて、盲信していたきらいがある。

 

となれば、そこに成果はいらない。

必要な能力は、速く、要望通りに、次々と、仕事を消化すること。

謂わば機械と同じだ。

 

僕は恥ずかしいことに、結構最近は仕事人として成長してきたと感じていた。

しかし、それはあくまで『歯車として』であった。

 

誰でも出来ることを処理し続けても、自分の価値は高まらない。

自分が抜けても何事もなく仕事が回ったのを見て、実感した。

 

目先の雑事をおろそかにして、尊大な夢ばかり語るタイプの人を、僕は冷ややかに見るフシがある。

 

でも、目先の雑事ばかりに集中し、自分の夢の一切を考えないタイプも、それはそれで危険だ。

 

クソ真面目とは、滅私的に物事を考え、持ち前の責任感を自分に突き立てながら、『他者』のタスクをこなしまくる気質だと、今は思う。

 

誇るべきでも何でもない。

早めに食い止めないと、僕は他人の人生しか生きられない!

 

病一つで、僕は本当に多くのものに気付けた。

だから具体的に考えた。

 

どうすれば、このクソ真面目気質を脱却できるのだろうか。

どうすれば、僕はもう少し、僕の人生を生きられるのだろうか。

 

ヒントはこの本にあり。

 

 

5回目の読了となった。

このブログでも度々紹介しているこの本。

嫌われる勇気―――自己啓発の源流「アドラー」の教え 嫌われる勇気―――自己啓発の源流「アドラー」の教え
岸見 一郎,古賀 史健

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やはりこの本は多くの気付きを与えてくれる。

 

読み返すたびに、劇薬のようなことを考えてしまう。

『僕は僕のことを愛していないのだろうな』という、ソレ。

 

過去の自分のログを振り返っても、たまに思う。

 

『自分を好きになってくれる女性がいるとしたら、その人は頭がおかしいとしか思わない』

 

『自分の遺伝子を遺さないのが正解とさえ考える』

 

とか。

 

当時は論理的な帰結ぶって話を進めていたが、結局自分が病的に愛せていないからこういうのが言えてしまうのだろうな、と。

 

現状、『タスクをこなす』という条件付きで僕は僕を肯定出来ていたに過ぎないのだろう。

 

だからこそ、実際のところ、療養中の自分は何も産まない無価値なヤツとさえ考えそうになった。

 

そこは自覚して、そういう思考にならないように食い止めた。

 

ではなぜ、僕はこうも自分を責めてしまうのか?というのを考えた。

 

多分、『そうするよう教育されてきたから』というのが答えだ。

 

人のせいにしてはいけないと、よく言われる。

ならば、全ては自分のせいである。

実際、そう考えるよう説く本は多い。

 

それは、後に『ではどうする?』と、先を考えることを前提としてのそういうメッセージなのだが・・。

 

僕は『ダメだね俺~』と考えてそこで終わることが多かった。

正しい使い方を知らぬまま、自責自責で考え続けていたという。

 

気付けば、それが完全にクセを通り越して思想にまでなっていたというワケで。

こうなれば、矯正するのは容易ではない。

 

しかし、『嫌われる勇気』にはこうも書いてある。

 

『人生の再選択は可能である』と。

 

となれば、自分に優しい気質を、ここから再び選びなおすことも、出来るという話になる。

 

―ここからの考えは、やたらと長いうえに中身が無かったので大きく割愛。

 

僕が今後目指すところは、

 

①99%の仕事は、誰でも出来ることと自覚する

②自分の理想との差異を責めることをしない

③自分の理想に近づいたことを誇る

④謙虚で留まり、自己批判までいかない

⑤少し我儘に生きても、誰も気にしない

 

というのを、座右の銘レベルで刷りこむことに尽きる。

 

でないと多分僕は、思ったよりも短く、そして思ったよりも味気ない生涯で果ててしまう。

 

クソ真面目気質は、簡単ではないことは承知の上で、葬り去るその日まで粘り強く打ち消していく所存である。

 

終わりに。

 

 

まだ実は体調が治りきっておらず、どうにも日本語がまとまらない。

 

ただ、病欠一つ取ってみても、意味づけを変えると、ここまで意味合いが変わるのかというのが驚きであった。

 

クソ真面目。

かつてはなんか良い言葉だと思っていたが、今は危険な思想としか思わない。

 

もう少し適当に。

もう少し楽しく。

そう生きても、バチが当たるわけがない。

 

病床の中ではあるが、そう思った。

元気になってから、ちょっぴり楽しみである。

 

※続編はこちら。

hitomishiriteki-jinseikun.hatenablog.com

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