僕はネガティブだけど、それなりに充実した人生を生きたいと思う。

「ネガティブ」で片づけず、自分の観察を続けたい。

人見知り目線でモテるヤツらの特徴を分析してみると、何故か人生を見つめなおすきっかけになったというお話。

この間の話なのだが、かつての学び舎の同窓会があった。

 

最後に会ってから10年以上となる再会のため、何故か緊張しながら会場に行ったことを覚えている。

 

そして全員が集合し、懐かしい顔ぶれが揃う。面影があるヤツ。大人びたヤツ。オトナを通り越して老けたヤツ。

 

十人十色の歴史が、その顔つきや雰囲気から垣間見えて、心の底から温かいものがこみ上げてくるのを感じた。

 

僕は一昔前なら、結婚適齢期と言われる年齢となった。しかし、今この時点でも、絶好調で独身である。

 

正直、初婚年齢の高さを考えると、同じような境遇のヤツだらけだろうと高を括っていたのだが・・・。

 

現実は違った。同級生の女子は何人も姓が変わり、中には母親になっている人もいた

 

男も然り。彼女とそろそろ結婚だったり、二児の父親になっていたり

 

そういったほっこりする報告を持ち合わせていた人間は、実に参加者の半数以上に上っていた。

 

気の利いた報告というお土産を用意できなかった、自分の10年にわたる歩みが悔やまれる。

 

―ということで、僕は考えた。ハッピーサイドの人間をきちんと分析すれば、何かしらの共通項が分かるかもしれない、と。

 

案の定、それはあった。会話や所作からそれは掴めた。

 

せっかく考えた事柄であるので、今日はここにまとめてシェアをしようという所存である。

 

 

  

会話の面白さとは、『中身の面白さ』ではない。

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僕は長いこと、ずっと勘違いしていたことがある。それは、エピソードトークの腕前を高めねば、社会になじめないということだ。

 

『話していて面白い人』というのが、素敵な男性ランキングの常連であることもあり、自分なりの面白い話を作ることに呻吟した。

 

僕が考える『話していて面白い人』とは、会話の"中身"が優れていてナンボである。

 

例を挙げれば、某番組のすべらない話みたく、起承転結がキチっとしている笑い話だとか。

 

最近世間を賑わせているニュースなんかについての、お互いの意見を交えつつの議論だとか。

 

論理的に話を作るのはもはや前提だ。

 

そしてその上、如何にして相手が持っていない、しかし必要な情報を付加価値として伝えるか。

 

『話していて面白い』の”面白い”とは、僕の中では『interesting』と同義であった

 

―だが皮肉なことに、この前提は違った

 

それは、二次会で場が温まりきった状態での、イケてる組が女子と交わしている話に聞き耳を立てているときに気付いたのだが・・。

 

どう好意的に解釈しても、それには『中身』が無い

 

不埒なゴシップ、現状のイジり、どうでもいいとしか思えない近況の報告・・・

 

その俎上には、国際情勢だとか経済だとか言った小難しい話は、一切上っていなかった。

 

でも、彼らは非常に面白そうであった。笑いあい、手を叩き、その眼には面白さが突き抜けた証の涙を浮かべながら。

 

この様子を見て、僕は悟った。

 

『女子のいう【話していて面白い】っていうのは、話が面白い人ではなくて、面白く話せる人という意味なんだなぁ。』

 

僕のタイプの人間が響かないのは当然だ。『funny』かどうかと聞かれれば、僕がそうであるワケが無い

 

女友達や彼女を作るための努力の一環として、『面白い内容作り』に精を出すのは、今すぐ止めた方が良い。

 

それよりも、『オーバー気味に喋れるようになる』とか、『相手の話に興味を持って聴いてあげる』といった所作の方が遥かに大切だ。

 

『中身の無い会話をする奴は面白くない』だとか、『論理が崩壊している話は、そうと分かった瞬間から聞くのを止める』と公言するような高邁な人物は、たまにいる。

 

それはそれで個性だから、僕はご勝手に、としか言えないが・・・。

 

こんな話がある。

 

お喋りをメインとしたデートの後、めでたく付き合うことになったカップルに、『何を話したのですか?』と聞いてみると、

 

『覚えていない』

 

―というのが大半だったという。

 

後の印象に繋がるのは、話の面白さではない。中身は相手に残らないのだ

 

それよりも、話を盛り上げる姿勢だとか、傾聴してくれたことへの心地よさだとか、所作の方が比べるまでも無く大切―というトリックなのだろう。

 

残酷―と言えば言い過ぎだが、『モテる本質』はこういうところにあるものだよねと、僕は独りで納得している。

 

『今』を楽しんでいる。

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そういった連中と、きちんと会の中で話した。

 

全員漏れなく共通していたのが、現状がどうあれ、それが楽しそうだったということだ。

 

僕ら側が抱えているような悲壮感だとか、達観した感じとか、あまり意味のない将来のリスクヘッジなんかは、ついぞその口からは出なかった。

 

『今』を彼らは楽しんでいる―。

 

僕は心の底からそう思わされた。

 

僕はネガティブだ。どれだけ嬉しいことがあろうと、どれだけ物事が好調に進もうと、その陰に潜む黒いものにも目が向いてしまう

 

一時期精神的に疲れ、心の拠り所として、また寂しさを発散する相手として、『彼女』という存在を求めたことがある。

 

だが、僕は『先のこと』だとか、『裏のこと』まで考えてしまった。

 

僕という面白さが欠如した人間を、魅力的と捉える人など存在するのか?

 

僕の身勝手な理由で、『彼女』を求めていいものなのか?

 

そうしたパートナーが出来たところで、僕は幸せになれるのか?

 

現状が幸せじゃないと感じてしまっているなら、仮に出来ても状況は変わらないのでは?

 

等々、色々と考えた。

 

哲学的に見える脳内会議であるが、実際のところは自意識過剰を聞こえの良いように解釈しているだけだ。

 

考えても無駄な未来。悲観的に解釈した今。そのどちらも、僕の儚い願いの妨げには違いなかった。

 

結局時間が僕の疲れを癒してくれて、再び平穏な心持に落ち着いてから、結構久しい。

 

ここまで余裕のない、今を純粋に楽しめていない人間に、天使のような存在は確実に不釣り合いである。

 

だが逆に、『今』を楽しめている人間には、そういった『大切な誰か』と出会い、関係を育むチャンスが振ってくるのだろう。

 

重く考えすぎず、かといって無下に扱うわけでもなく、等身大で今を楽しめている。

 

今が楽しい人間に、より良い何かが授けられるというのは、あながちスピリチュアルなものではなく、かなりリアルな話なのかもしれない。

 

結局思うこと。

 

最近読んでいる小説の影響か、文章がいつもより欝々としていて重たいのに、読み返してみて気が付いた。

 

気持ちとしては、そこまで卑屈になっているとは思わないのだけれど。どちらかと言えば、晴れ晴れだとか、清々しい、なんかに近い。

 

理由は多分、より一層深く、『肯定的なあきらめ』が出来たから。

 

―このブログで何度も何度も、『独りで生きていく』みたいなことを書き散らしている。

 

しかし自分自身、完膚なきまでそれに諦めがついていたかというと、正直微妙であった。

 

振り返ると、10代から20代前半にかけては、人並みに甘酸っぱい事柄へ憧れていたものだ。

 

白状すると、浴衣デートとかしてみたかったし、観光地へ一緒に旅行なんかもしてみたかった。結婚は自然にするものだと思っていた。

 

しかし、その夢はもれなく何一つ叶っていない。

 

叶わないまま年を重ねるたびに、言い知れぬ焦りとか、悲しみとか、そういう冷たい物だけが心の底に積もっていった。

 

黙って指を咥えていたわけじゃない。自分なりの試行錯誤はしてきたつもりだ。

 

自分の性格を分析し、理屈で理想の相手を探そうとした。不慣れで不器用なりにも、本とか体験談とかで勉強した。

 

勇気を振り絞って、実践の場に出たこともある。結果は散々だったけれど、どうにか前向きに気持ちを繋いできた。

 

しかし、悪戦苦闘に七転八倒を繰り返しても、『テンプレな』幸せはやってこなかった。

 

そっち方面で幸福を感じたことは、正直断片的だし一瞬だ。結局報われないことによるダメージが大きく上回る。

 

いつまでたっても、僕にそういう甘酸っぱい幸せが来ないのは何故か。

 

ぼんやりとその理由は分かっていたのだが、先の同窓会でそれをついにハッキリと自覚した。

 

乱暴に言い換えれば、『モテるヤツ』とは、『僕と真逆の人間』なのだ。

 

自分が、中身の無い会話をし、大げさに笑いながら手を叩いている場面など、想像できない。

 

未来も過去も放置して、今現在を心から楽しむことを、まだまだ無意識には出来る気がしない。

 

多少の歪みなら努力と我慢で刷り合わせが出来ただろうけれど、真逆となればそうは行かない。

 

寒帯に暮らす生き物を熱帯に放り出すようなものだ。恐らく大半は命に関わるし、仮に生き残っても、快適な暮らしとまではいくまい。

 

僕は『テンプレな幸せ』というヤツが、まったく気質に合わない。

 

薄々理屈で分かっていたけれど、この目で見てハッキリ分かったことは、ちょっぴり悲しくも聞こえる、そういう結論だった。

 

ただ、間違った努力や夢のせいで、無駄に心身が疲弊する―なんてことが無くなると思うと・・・。

 

実際問題、涼やかな気持ちが強いなぁ、というのが嘘偽りない気持ちである。

 

これが、先に述べた『肯定的なあきらめ』の中身だ。

 

しかし、『あきらめ』とは決して悪いことではない。『明らめ』という考え方もある

 

一般解としての『恋愛』だのなんだのは、最も根本的なところから僕に不適と分かったのは、ある種幸運だ。

 

また、存在しない理想のパートナー探しに投じてきた資本を、今後は別のことに振り分けられるとも言える。

 

ひっくるめれば、淡い夢が霧散した代わりに、別の可能性が色々と湧いてきている。それが現状だ。

 

まさか同窓会に参加することで、ここまで自分の中の何かにケリが付くとは思わなかった。何事も蓋を開けるまで分からないものだ。

 

―さて。

 

ここまで長々と文字数を割いてまで、僕は一体何が言いたかったのか?

 

あちこちに論が反れたので、ここに短く纏めてみると・・。

 

僕から見た『モテる人』たちは、押しなべて『中身があろうがなかろうが楽しく話が出来』、『今現在を心の底から楽しむことができる』という特徴がある。

 

しかし、これらの要素とは真逆のライフスタイルを形成している人もいると思う。

 

そういう人には、甘酸っぱい事柄は、むしろ毒になる可能性もある。

 

闇雲に深い思慮も無く『モテたい』と考えるのは、危険なこともあり得るので、迷いがあれば考え直してみよう。

 

といったところに落ち着く。

 

―ここまで書いてみて、ふと思い立って、中学校の卒業アルバムを開いてみた。

 

垢ぬけない出で立ちの自分が、ぎこちなく笑って、枠内に収まっている。まだまだ現実を分かって無さそうな、純粋な笑顔だ。

 

この時から今にかけて、たくさんのことを学んで、たくさんの目標を作り、たくさんの夢を捨てて来た。

 

現状を当時の僕が知ったらどう思うだろうか。少なくとも、嬉しいとは受け取ってくれないという確信がある。

 

でも同時に、人生において今この時がピークで楽しいという自信もある。

 

それで充分だし、これって最高じゃんと、僕はもう開き直りを済ませた。

 

本当に実りのあった同窓会であった。ここまで闇の深い成果を持って帰ったのは僕だけだろうけれども。

 

世間一般の幸せが、そのまま自分の幸せと合致するとは限らない

 

『モテる』ことが、『金を持つこと』が、『偏差値の高い大学に入ること』が、果たして自分にとっての幸せなのだろうか。

 

疑問に思う節があるのなら、酒でも飲みながら考えを巡らせることを僕は薦める。

 

無理をして自分を捻じ曲げても不幸になる。努力や我慢にも限界はある。

 

置かれた場所で咲くことこそが、きっと一番しっくりくる形なのだ。