気付けば、産まれてから10000日以上経った。想像より年月が経ってないとも思うし、逆もまた然りだなとも思う。
この10000日を総括すると、『どこまでも不器用』で、『自分をほとんど愛せていない』日々だと強く感じてしまう。
人見知り。ネガティブ。強すぎる責任感。劣等コンプレックス。並べれば並べるほど憂鬱になるものを背負ってるなと、逆に我ながらちょっと面白くなる。
―そろそろ一旦、自分の人生を言葉にして振り返りたい。その考えがあり、この記事を書こうと思い立った。
だが、こんな無名の男の自分語りなど、面白いワケが無い。せっかくなら、他の誰かにとっても、価値のあるモノにしたい。
だから少し考えた。そして思い付いた。そういえば、『失敗とは学びである』という言葉があるな、と。
『僕自身が重ねてきた失敗の思い出。それを教訓に変えれば、自分のことを書きながら、有益なことも書けるのではないか?』
―決めた。最終的にどういうのが出来上がるか、この時点では全く分からないが・・。とりあえずこれをテーマに書き始めよう。
この記事が呼ぶのは共感か、違和感か、それとも問題提起か、はたまた無関心か。どれであっても、とりあえずは書き終わってから考えよう。
では、以下、僕のセピア色な思い出から、『学び』として皆様に伝えたいことに絞り、言葉にしていこうと思う。
時間が許す限りお伝えいただければ幸いだ。では、続きからどうぞ。
幼年時代:『人から笑われること』は恐怖だと悟る。
当然と言えば当然なのだが、幼少期の記憶はほとんど残っていない。ただ両親に言わせれば、僕は全く落ち着きのない子どもだったという。
本能のままに行動し、調べ、喋るが、興味のオン・オフが激しい。熱中できるものはどこまでも燃えるが、逆もまた然り。そんな子ども。
しかも、幼い僕は全く人見知りしていなかったのだという。対人の恐怖より、未知への興味が勝っていたからだと、今は思う。
―そんな純粋な僕が、ハッキリと『他の人が怖い』と自覚したのは、小学校2年の時だった。確かそれは、水泳の授業中のこと。
僕はクロールを練習していた。泳ぎは得意じゃないので、必死に頑張る僕。ふと、水をかく音に混ざり、どうしてか皆の笑い声が聞こえるのに気付いた。
何故か急に不安になり、泳ぐのを止めて立ち上がってみると、スタートした場所から大きく右にズレている。
しかも、あんなに必死で泳いだのに、僕はプールの真ん中らへんにいた。体感としては、ゴールは目の前にあるはずだったのに。
―あぁ、あの笑いは、僕に向けられたものだったのか。
はっきりと恥ずかしかった。そしてとても嫌だった。当時は知る由もなかったが、きっと僕は『自尊心』を傷つけられたと感じたのだろう。
それからだ。恥ずかしいことをしたり、目立つことをしたり、失敗をしたりといったことに強い恐怖を覚えるようになったのは。
『みんなが』僕を笑っている。
この原体験があり、僕の強すぎる自意識が目覚めたのだと思う。今ならハッキリ、『思い込みも大概にしろよ』と冷笑できるけれど。
『他人は自分に興味などない。お前の顔を気にするのはお前だけ。』僕はもうこれを理解しているが、当時そんなことを誰も教えてくれるわけがなく。
言葉も知らないし、身体能力もないというジレンマの中、僕はそれに向き合わなければならなくなった。
特別勉強ができるわけでも、運動ができるわけでもなかったので、目立つと必ず恥をかく。そう思い、『その他大勢』であろうとした。
目立つことは何でも避けた。ビンゴが揃っても名乗り出たことはほとんどない。学校の授業で答えが分かっても、発表したことなんてほとんどない。
僕は小さい頃から自分を肯定できていなかった。自分には何かが欠落している―それを無意識下にずっと抱えていたと思う。
自意識のズレや拗れは、幼少期に出ることもある。そしてそれは、早めに手を打たないと、後々まで尾を引くコンプレックスになる。
―僕自身、今の仕事柄子どもに接することが多いのだが・・。拗らせた自意識を持つ子はたまにいる。
彼ら、彼女らには、『自信までいかなくていいけど、自分を許せるようにはなろう。』という話を、よくしている。
それは、幼い僕ができていなかったことで、知らなかったことで、必要だったことだから。
第二の僕を減らすために、しっかりと伝えないといけない。その想いが彼らに、そして皆様に届いてたら嬉しいのだが。
さて。
幼少期から色々拗れていた僕だが、ある出会いをきっかけに、転機をつかむことになる。
それは自分が全く想像していなかったジャンルからの、そして完全なる偶然による出会いであった。
小学生時代:やっと見つけた、打ち込めるモノとの出会い。
小学4年生のころ、友達に誘われて、僕は地域の野球チームの見学に出かけた。興味があったとかそういうのではなく、ただの暇つぶしという認識。
そんな軽い気持ちで出かけたのだが・・・。はっきりとここが転機となった。身体を動かすことは楽しかったし、努力も苦じゃない。
僕はその日のうちに入団を決めて、来週からさっそく合流となった。ユニフォームが届く前から、練習に混ざる日々。
始めはもちろんメンバーに選ばれないのだが、そこはこれからの自分の『努力』次第なのだと考えて、頑張り続けた。
野球雑誌を読み、父と河川敷で練習し、毎晩毎晩バットの素振りを繰り返す。『自分は成長している!』という感覚が、何より嬉しかった。
3か月もすると、弱小チームだったのもあり、僕は初めてスタメンに選ばれた。守備位置や背番号は忘れたが、そのときの興奮は忘れていない。
初めての打席はサードゴロの凡退。完全に相手投手に力負けした。―だが、こんなものは挫折じゃない。むしろ、やる気が出た。
そこからはバッティングセンターに毎週連れて行ってもらうなど、自分なりの工夫を続けた。何が目的だったかは―色々あり過ぎて分からない。
そして5年生の夏ごろ、確かセンター返しを決めて、僕は人生初ヒットを打った。理由は分からないが、細かいことを思い出せない。
6年生になるまで、僕の努力は気持ちよいほど報われていった。打順は3,4,5のどれか。スタメンはいつものこと。そんな風に。
もうすでにネガティブだったので、『俺は上手!』だなんて天狗にはならなかったが・・。
正直、自信はついた。この出会いと、誘ってくれた友達に、心の底から感謝している。
ハッキリと、努力の意味と楽しさを、僕はこの野球チームで学んだ。創意工夫とは本来、ワクワクするもの。非常に大切な学びだ。
少年野球チームを引退した僕は、中学校に進学すると同時に野球部へ入ると決めていた。ここは当然の流れだろう。
―後にその野球部で、人生で初めての『挫折』を知ることになるのだが・・・。それはまた別のお話である。
―次回、【思春期編】へ続く。