以前、こんな記事を書いた。
hitomishiriteki-jinseikun.hatenablog.com
この記事内でも書いたが、ある程度の『天才』に対し、僕はナチュラルに接することが出来るようになった気がしていた。
しかし―道はまだまだ長いらしい。あんな記事を書いておいて情けないのだが、
さらに圧倒的な天才の話を聞くと、はっきりと自分の中で何かが入り混じる感情を抱いてしまった。
東大推薦合格。外国の名だたる大学で主席。英検1級優待生取得。小学生で超難関国家試験突破。9歳で木を破壊するパンチを繰り出す少女。
圧倒的なコミュ力、行動力を有する者。才色兼備を体現する者。それでいながら、弱者に寄り添える懐の大きさを持つ者。
―心のどこかに、物質化したこの肩書や実績、そして現実からタコ殴りにされる自分を感じる。その姿は見えないが、痛みは確かに存在している。
これは清々しい悔しさ等ではない。どろどろとした敗北感だ。それが確かに、僕の中に存在する。自分のクソっぷりは、隠れていただけで、消えてはいなかったのだ。
もう心がへし折れそうだ。僕はどうすればこういった存在をスルー出来る?
僕は天才になることなど諦めたはずだったが、どこかに自分を無邪気に信じる自分もいるらしい。もうそろそろ、僕は大人になりたいんだ。本当にそうなんだ。
―もうケリを付けよう、そうしよう。
僕はこの記事の中で、自分の中のガキの部分に別れを告げるべく、尽くせる手を尽くし、掛けられるだけの言葉を掛ける所存だ。
相手はもちろん『自分』である。だが多分、『圧倒的な才能』に『敗北感』を覚える同志に向けたメッセージにもなる。
―時間と精神にゆとりがあるとき、ふと読んでみてほしい。では行こう。
- 『圧倒的な才能』はお前に何をした?
- 『競争原理』に蝕まれた心は、そう簡単には治らない。
- 他の人は『お前が負けた』なんて思ってない。実際は・・・
- そんなに一番になりたいなら、お前が取るべき行動は限られている。
- 天才もまた、人間なのだ。
- 終わりに。:さよなら、僕を無邪気に信じてくれる僕。
『圧倒的な才能』はお前に何をした?
まず僕が打破せねばならないのは、『圧倒的な才能』を敵と考えるマインドセットである。
もし『自分より高い能力を持つ人』に関心が無かったり、純粋な敬意を持っていたりするならば、僕はこんなに心の中へ異物感を覚えないはずだからだ。
しかしまだまだどうにも素直に『スゲー』と言えない自分なので、きっと彼ら彼女らを『敵』だと感じているのだろう。
文字にすれば被害妄想や自意識過剰も甚だしいとすぐに気付けるのだが、やはり無意識下で気付き、処理するのは殊の外難しい。
そこで冷静に考えてみる。『圧倒的な存在』は僕に何をした?
・・・・・・・
『何もしてない。』
つまり、勝手に『嫉妬』や『敗北感』を抱いていたのはこちら側の問題であり、言い換えれば彼ら彼女らは被害者である。
今の場所には、何らかの努力なり才能なり、或いは運なりでたどり着けたわけであり、それを他者にとやかく言われる筋合いはないのである。
―認識せねばならないのは、別に『天才』は、積極的に他者を貶めるクズだなんてことはないという、至極当たり前な現実だ。
僕と同じ敗北感を抱いてしまう皆さんは、詭弁だが、これのどこかに同意される点は無いだろうか。
『競争原理』に蝕まれた心は、そう簡単には治らない。
では、『圧倒的な才能』を『敵』とみなすマインドセットは、一体どこで固められてしまったのか?
僕はその土壌こそ、『信賞必罰』を前提とした『義務教育』にあると考えている。
それが良いという人も勿論いるが、そう言えるのは多分『競争に勝ち続けた恵まれし方々だけ』である。
『学校』に通う間、僕らは否応なしに、数多の比較にさらされる。あいつは僕より賢い。とてもモテる。足が速い。背が高い。運動ができる・・・
『優劣』をこれほどまでに濃く体験させられることこそ、この『義務教育』の最たる特徴の1つだと言えるだろう。
悲しいかな、僕はそれらを突っぱねて『俺は俺!』と言えるほど、自分を愛することができなかったのだ。
こういうマインドの人間が陥るのは、『努力し続けない自分に価値はない』という価値観と、『才能ある他者は大切な自尊心を傷つける悪』という猜疑心である。
そして強くこれを思わされる環境に、何年も閉じ込められるとどうなるか。
心の底にこれらがヘドロ以上の頑強さでこびりつき、容易にはがすことができなくなるのだ。
もはやそれはあまりにも強く結びつき、僕と言う人間の一部分と化している。亀で言う甲羅、カタツムリで言う殻のようなものである。
・・・ ここまで己と一体化したものに、気付く方が難しいと言えないだろうか?僕はそれに気づくまで、10代後半から20代前半までかかってしまった。
今は少しずつ少しずつそれを矯正している段階である。一気に剥がせば僕はくたばるだろう。だから本当に、少しずつ、である。
願わくば30歳になる前に、このステップを終えたい。間に合うのだろうか。これは本当に、よくわからない。
他の人は『お前が負けた』なんて思ってない。実際は・・・
僕が強みと思っている部分それぞれに、遥か高みにまで登り詰めた存在が居る。圧倒的な才能、見上げれば眩しく、もはや見えやしない。
僕はその存在の足元にすら及ばない。僕はこの現実に対し、どうしても『負けた』と考えてしまう。その感覚は小さくなってこそいるが、なかなか0にはならない。
だが冷静に考えると、この考えのおかしい点が浮き彫りになる。僕以外に、僕が負けたとジャッジする人間は誰が居る?
僕より高みに居る人間か?いや、才能ある側にディスられた経験は、振り返れば一度もない。そんな小物じゃないからこその天才でもある。
そして、『あいつと比べたらお前のが下』なんて、面と向かって誰かに言われた記憶も、そういえば浮かんでこない。―おや、おかしい。
そして気づく。やはり、『僕』以外に『僕』を敗者にしようと仕向ける暇人は居ない。
全部そうだ。他者がそんなに暇なわけないじゃないか。僕に関心があるワケ無いじゃないか。全ての原因は僕のメタにあったのだ。
僕以外の人は、僕が負けた、負けているなんて考えていない。
興味など一ミリも無いのだ。
―このことには気づいていたはずなのに、『他者比較』という段階になると、その意識が消えていた。あぁ、時間を無駄にした。自尊心も、無駄にした。
つまり、自分によほど関連するテーマでもない限り、どんな天才も究極『どこかの誰かさん』である。
その人が居なければ地球が終わるみたいな人間は、究極、存在しないのだ。そう考えれば、生物としてのステータスに、極端な差があるとは言えない。
『天才』と出会ったとき、比べて負けるしか選択肢が無い僕は、言い切ればただのアホであったのだ。
大体はスルーすればいい。人となりを見て、親しくなれるならそうしたらいい。学べるところがあれば、学べばいい。
僕は誰と戦い、何を守っていたんだろう。四六時中、十数年も、本当に一体。
あぁ、マジでバカバカしい。上昇志向と言えば聞こえはいいが、僕は自分が負けるために上を見続けた生粋のマゾだったのだ。
素直に喜べなかった過去の成功が、今さら本当に愛おしい。そしてそのために捧げた努力に謝りたい気分である。
繰り返す。
『天才』と『あなた』の勝負に関心がある人間などこの世にはいない。
もちろん僕も、全然興味なし。ジャッジを下しているのは、いつだって僕で言う『僕自身』だし、『あなた』で言う『あなた自身』なのだ。
そんなに一番になりたいなら、お前が取るべき行動は限られている。
―とはいえ、僕は今の自分の器で停滞することも耐えられそうにない。この性格は、環境等の要因で付随したものではなく、生まれながらのモノである。
実に厄介だ。僕は競争で自分が常に敗者になるよう考えつつも、そこに身をさらすことを好んでいたのだから。面倒な奴だぜ。
最近はこの気質に折り合いをつけるべく、自分から自分への『妥協案』を意識している。その案は2つある。
まず1つは、『ある程度世界を閉じること』である。
もはや何度も書いた持論だが、エリアを地球上にまで広げ、さらに過去や未来まで考えれば、人間誰でもいずれは敗者なのである。
だからこそ、『この集団では負けねぇ』という制限を設けることが大切だと考えている。志が低いという人は、どうぞご勝手に、という話。
もう1つは、『自分しか走者のいないレースを創ること』である。
競争に負けないためには、変な話だが『負けようのない環境』に身を置くのが大切である。
素っ頓狂だが、『英語の長文読解をしながら何匹魚を釣れるか?』みたいな競争があったら、上位に食い込めそうな自信は流石にある。
そして『俺も勝てそうだ』と考える人達が参入して来たら、切磋琢磨しても良いし、何なら別のレースを創るべくサヨナラしても良いのである。
―ぶっちゃけ、才能が飽和しているこの世の中でどうしても『他者比較で勝ちたければ』、本当にこの2つの方法しか採れないと僕は考えている。
天才もまた、人間なのだ。
―とここまで書いたところで、僕の長年のしこりを消し去るような、ある発見があった。それは完全なる偶然で見つけたのだが・・・。
それは、ある『成功者』の方々のインタビューである。そしてその内容に僕は驚いた。
背が高いのが嫌いだったんです。
帰国子女だったせいで、何か変な目で見られて・・・
いや、東大を出たと言っても、良いことばかりじゃないです。
『できて当然だろ』という印象を持たれますし、何もしてないのに敵視されますし・・
友達を作るのが苦手です。
・・・・・・。
・・・なんだ、
僕から見れば全てを手にしている人たちも、
ちゃんと僕たちみたいに悩んでるんだ。
本当に不思議なのだが、これに気付いた瞬間、心の底で渦巻いていた闇がすっきりと晴れていくのが感じられた。
全てを持っているというのは、僕の勘違いだったのだ。人間、ある一面で全てを語るには、あまりにも複雑な歴史や思考を背負っているもの。
何かが出来るから全部できる、だから僕より全てが上である・・・なんて、早計が過ぎた。つまり、バカであった。
才能ある面ばかりを言う人は、実はコンプレックスの裏返し。そんな話を聞いたことがある。
言おうが言うまいが、コンプレックスは基本どの人にも存在するとみて間違いない。仮にそれが無いとしても、人のそれにも興味は無いだろう。
『天才』は、もしかしたら僕らみたいなコンプレックスの塊からスタートし、それを含めて自分を認め、愛することのできる努力家なのかもしれない。
才能が無ければ思い悩み、あれば嫉妬されて思い悩む。背が高い人は低い人をうらやみ、低い人は高い人をうらやむ。
―まだ言葉にし切れないが、何らかの真理に触れた気がする。
何となく、この気質に上手く決着を付けられる日、案外遠くない気がしてきた。
終わりに。:さよなら、僕を無邪気に信じてくれる僕。
さて。
またどうでもいい白状なのだが、最近この歌を聴いて何故か泣いてしまった。
※本当は一部でも歌を載せたかったが、『歌ってみた』ばかりで見つけきらず。ちょっとイライラしてしまった・・・。
特に響いたのは、以下のフレーズ。
普通の人なんかにゃ なりたくない
野球選手になって
パイロットになって
カッコいい車に乗って…
叶えるのが夢だけど 叶わなくても夢は夢さ
泣いて笑ってそれが人生
平凡な毎日に○(マル)あげよう!!
・・・僕はもうそろそろ30歳といういい歳なのだが、一行目はハッキリと『わかって』しまう。
何かで秀でなければ、『その他大勢』『普通』で終わる。それでいいのに、それが嫌だった。つまり、僕は『子ども』だったのだろう。
もちろん、『子ども』のような好奇心と行動力は、そのまま捨てずに武器とする大人も多い。
だが僕には、そうできるまでの自尊心と才能は備わっていなかったという話である。
ということで、無邪気に自分を信じるのはそろそろ終わりにしよう。こんなに文字数を割く通り、ずっと辛いものがあったからだ。
さて。もしここまで全て読んでいただけたのなら、それは本当に幸甚である。何か1つでも、通じることやヒントになることが書けていればありがたし。
―僕はこれから、意識して『天才』に臆さず、変な偏見を持たず、『無駄に』誰かと比べないよう、自分に優しくしようと思う。
まず間違いなく、そっちの方が幸せだろうし、何より楽しそうだ。
何か、大人になるのって、思っていたより悪くないかもしれない。
―こんな独り言をもって、この記事を結ぶとする。