僕はネガティブだけど、それなりに充実した人生を生きたいと思う。

「ネガティブ」で片づけず、自分の観察を続けたい。

『部屋を片付けられるのが嫌いな人』は、結婚しない方が良い。

僕の周りで、『結婚』の2文字に対するスタンスが二極化されてきた。

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簡単に言えば、『既にした』か、『絶対にしたい』という積極的肯定派と、『いや、絶対ヤダ』という積極的否定派に分かれてきたのだ。

 

ちなみに僕自身は『積極的否定派』で、理由は『今の結婚という制度の下では、自分は確実に不幸になること』が自明だからだ。

 

そして前者を唱える人はどうで、自分を含めた後者を唱える人はどうなのか、面白そうなので仮説立てと観察を何度も繰り返してみた。

 

すると不思議なことに、ある共通点がそれぞれに見えてきたのだ。ちょっと面白いと思ったので、今日ここでシェアしたい。

 

 

部屋を片付けられるのは嫌いですか?

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結構不思議なのだが、『結婚がイヤ』と自称したり、向いてないだろうなと何故か思ったりする人は、『部屋を片付けられるのが嫌い』と答える人が多い。

 

理由は以下のようなのが多い。

 

『自分が自分なりのルールに基づいてモノの置き場とかを決めている最適化された環境なんだから、乱されたくない』

 

『自分が過ごしやすい完全にプライベートな空間なんだから、誰かの手を絶対に入れたくない』

 

といった感じで、要は『お節介を焼かれるのが嫌い』というところに行きつく。

 

もっと言えば、『自分の世話くらい自分でしたい』という思いが強いのだろう。ちなみに僕もそうなので、気持ちは無茶苦茶わかる。

 

『結婚』とは、自分が培ってきた価値観とか文化をドラスティックにぶっ壊す、最たる契機の一つである。

 

『じぶん』というエリアが、ガンガンと削られる感覚。クソ激しく言えば、僕は『結婚』した瞬間から、自分の人生を一度没収されると考えているくらいだ。

 

特別な関係を結んだ瞬間から、何をするにもその相手に対する影響を考えなければならなくなる。

 

そしてもし血を分けた子どもが生まれれば、絶対にその子の人生を第一に考えねばならなくなる。思っている以上に責任も負担も重いのだ。

 

・・・こう考えれば両親に多大な感謝の念が生まれるが、だからといって自分がそうしたいかどうかは別問題だ。

 

僕はケチなので、まだまだ自分の人生は自分のために使いたい

 

―この考え方は、人によって言い表し方こそ違えど、『否定派』の中に共通事項として存在しているような気がしている。

 

つまるところ、自分の部屋すら掃除されたくないのなら、自分の人生に他者のそれを組み込む結婚を我慢することは、絶対に無理であろう。

 

その辺りは、見つめ直してみると面白いのかもしれない。

 

これからの『結婚』のカタチは、否応なしに変化するはず。

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ここからは賛否両論どころか、たぶん『否』だらけなことを書いてみたいと思う。

 

今の世は、名だたる配信者を筆頭として、個人が小規模の会社以上のブランドや価値を生み出し得る時代になっている。

 

結果、『価値ある、魅力ある個人』を中心としたコミュニティが台頭し、大きな注目と人と資本を集めるようになっているのだ。ここは与太ではなく、事実。

 

―すると想像できる流れが、一夫一妻システムの崩壊だ。『個人の価値』が強まると、その人が持つ『価値』に匹敵する魅力を持つ個人は、確実に減っていく。

 

事実婚というのすら飛び越えて、さながら江戸時代の大奥みたいなシステムが再び出来上がるような気さえ、僕はしている程だ。

 

また別に想像できるのが、『提携型』の結婚である。

 

簡単に言えば、『結婚』の面倒なところは全て切り離し、ドライに良いところだけ享受する、『愛』ではなく『利害』で繋がる関係性を指す。

 

例えば、同居は嫌で子どもも要らないけど、『結婚』という関係性であればトクをする場面が多いと判断したとき、それを目的としたドライな関係の男女は増える気がする。

 

―だがこういうのがもし広まれば、同時にそれは、血を分けた子どもという存在の価値の低下にも繋がり得る。これはかなりコワイ問題だ。

 

では、ドライな関係の中で生まれてしまった子どもはどうなるのか?婚外子とか、望まれないままに生まれた子はどうなってしまうのか?

 

―これまたコワイ話だが、僕はそれを代替するサービスが登場し、市民権を得ていく未来を想像している

 

具体的には、身寄りのない子どもたちを逆に手厚く育て上げる施設。そういったものが民間でできないとも限らないのだ。(資金調達も非常に楽だし)

 

『老人ホーム』なる施設が登場したのも、ほんの約100年前である。終始面倒をみるという常識とか文化いった『当たり前とされること』など、状況でコロコロと変わる。

 

とはいえ確かに今現在、身寄りがない子どもたちは『孤児』という呼称で、絶対にそうしてはならない不幸な存在というコンテクストで語られるのだが・・・。

 

もしその数が圧倒的になるような未来になれば、その価値観すら覆る可能性は否定できない。もしかしたら、養子という文化が、中世みたく自然になるかもしれない。

 

多様な生き方の広がりが行きつく最終地点は、犯罪を除くあらゆる生き方の肯定だと思うのだが、どうだろう。めっちゃ深いテーマになっちった。

 

逆に『今の結婚制度』に向いてるタイプとは?

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とはいえ、僕らの周りにも、結婚して幸せそうな人もいる。

 

まず大前提は、『皆結婚する前からそもそも幸せだった』が大きい。つまり、『相手に幸せにしてもらおっと』という他力本願が弱いのだ。

 

相手をあるがままに見て、受け止めて、過度に期待せず、しかし失望もせず。非常に良い温度で関係性が維持されているのだ。

 

では、何がそれを可能にしているのか?抽象的に言えば『おおらかさ』なのだが、具体的に言えば『あらゆることをポジティブに転換する力』だと僕は考えている。

 

子どもができたら喜び、喧嘩を成長と捉える。奥さんとうまくいかない時期も、『そんなもんか』とスルーできる。そして、全てを最後には笑い話に変えてしまう。

 

つまり、誰かと一緒に幸せを創ることができ、かつ自分の『幸福』を完全にそれとシンクロできる人

 

もっと狭めれば、お節介が好き。こういった才能があるのなら、『この人は!!』という人と、『結婚』しても良いのかもしれない。

 

終わりに。:【個】が【価値観】さえ選ぶ時代へ。

 

『お金2.0』とか『LIFE SHIFT』とかを読んでいても思うのだが、今は『資本主義』と『価値主義』の二つの経済モデルが存在していると言われている。

 

お金持ちも、フォロワー持ちも、同じ『豊かさ』という意味では同じということだ。

 

つまり、これからは『どういう経済モデルで生きるか』さえ、個人の自由になっていくと言われている。ここまで行けば、想像すらできない。

 

そして僕は、さらにそれが浸透すれば、『価値観さえ』選べるようになると感じている。というか、既にそうなっている

 

マイノリティとされるLGBTQも、婚外子も、外国籍も、障がいも、それぞれにもうコミュニティが存在している。つまり、属するところを選べば、独りではないのだ。

 

当然言われない差別とか、不寛容な社会についてはこれからも声が上がり続けるだろうし、そうあるのが自然だと思うが・・・

 

同時に、あらゆるマイノリティにおいて、『それが価値を持つコミュニティ』が一層作られていく流れが想像できる。つまり、『複数の社会』の登場だ。

 

自分の存在を認めない価値観の社会なら、いっそそこに属することさえ止めることができる

 

そして新しく出来た社会の中では、独自の価値観や、さらには貨幣さえ流通する・・なんてこともあり得るかもしれない。ま、ここまでいけばSFだけど・・・。

 

これがもっと加速するんじゃないかなぁと思っているし、それはそれで面白そうだとも思っている。

 

当初はここまで話を膨らませる気はなかったが、書いていく内にあれよあれよと色々繋がってしまった。

 

『バカか!』という感想でも全然かまわない。何か引っかかることが書けていれば、とりあえず1時間以上カタカタした甲斐があるという話である。

 

では今日はこの辺で。

 

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