最近、自分が学んだはずの経済学が頭から抜けていることが許せず、大学生から教科書を借りて勉強し直し始めたことはどっかに書いた。
結構僕はこういう自学を、仕事場の休憩中に堂々とやっている。ま、自由な雰囲気の職場だし、『俺だって勉強してんだぞ』と生徒に見せつける狙いもある。
案の定、昨日とある生徒に反応された。『え、なんでそんなに勉強に取り組めるんですか?好きなんですか?』という風に、かなり訝られながら。
それに対し、堂々と返してやった。
『好きだね、勉強^^』
・・・わかり易くドン引かれた。まぁ、勉強とは苦しいものであり、無意味なものだと思われがちだから、さながらなんだこのクソどМみたいに捉えられたのかもしれない。
もちろん、義務教育とか高校とか大学の段階で、『勉強たのちい』という感覚はあまり抱けていなかった。それが変わったのは大学3年の頃だったかな?
そのきっかけは2つあり、そのどちらかさえあれば、勉強は有意義になり、つまり楽しくなる。両方あればなおさらだ。
今日はそういうことを、面白かった本のタイトルを列挙しながら語ってみる。
最初のきっかけ、その1つとは?
まずいきなり言っちゃうと、『悩み』である。
正直、小中高の勉強がなぜあそこまで面白みに欠けるのかというと、『別に興味のない問題を与えられ、しかも答えよと命令されるから』だと思う。
今でも思うが、二次関数の頂点がどこへ移動しようが、僕の人生に1㍉たりとも影響しないのは明白だ。
―逆に言えば、『ある悩み』があって、それの解決策を探すという必要性が生じれば、一気に勉強は能動的になる。自分から進んで~の部分が出てくるのだ。
僕自身も、実際読書に目覚めたのは大学3年の頃である。以下の本を読んで、読書の必要性と、『悩み』を解決するツールとしての有用さに気付いたためだ。
僕の20代前半は、悩みと闇にまみれていた。肯定できない自分、付きまとう過去、そして想像できない輝かしい未来。
その全ての問題に解答のヒントをくれたのはやはり本であり、その出会いにたどり着けたのも、そもそも『悩み』が存在していたために他ならない。
一つ、また一つと答えが見つかる感覚。これが重なれば、加速度的に勉強は楽しくなる。
悩みがある。でも、答えが無い。そのヒントを探したくば、本やYouTube、インタビュー記事などを漁り、勉強してみてはどうでしょう。
じゃあ、もう1つは?
こっちの方が健全かも。『好奇心』である。言い換えれば、『もっと知りたい!』という前向きな気持ちのこと。
最近意識して自分の好奇心に蓋をするのを止めたところ、本を買う量がクッソ増えて、YouTubeの再生履歴がカオスになった。
得た知識が役に立つとか立たないとか超越した考え方。『好奇心』を原動力にできると非常に強い『勉強』に対するモチベになる。
―また、こっちにはある『嬉しい行動』が付随することが大半だ。それは言い方こそバラバラだが、『検証』『実験』『確認』である。
『これってどうなるんだろう?』という気持ちで勉強し、『本当か?』『こうしたらどうなるかな?』と試す。こうなれば各人オリジナルの経験値へと昇華する。
例えばいつか僕がやってみたいのは、例の池の周りを歩く暇な兄弟の計算を生徒に解かせ、それを放り込んだら本当にそう動作するか物理エンジンで検証することである。
会社に何故か要らなさそうなPCが1台ポンと落ちているので、物理エンジンの動作について『勉強』してみようかなとまさに考えている。
個人的に勉強が報われたと感じる瞬間とは?
最後に手前味噌だが、『うぉ、勉強したのが報われたぜ!』と感じる瞬間を述べる。
それは、得た知識を基に仮説を立て、検証し、かつその通りにいったときである。
こないだも『響くコトバ』について勉強した後、そこで得た知識を使って会社のブログのタイトルをちょいと工夫してみた。
すると、それだけでアクセス数が顕著に伸びたのだ!これは驚き。 こうやって得た知識の再現ができたとき、僕は非常に嬉しい気持ちになる。
もちろん、テストで良い点を取るとか、誰それに勝つというのも、モチベーションとしては悪くないだろう。だが、いつでもそれらがあるわけではない。
自分でテストを作り、ライバルを探し、結果が出たときに自分で褒める。最後はこの辺まで設計しておかないと、終生学び続けるのは難しい気がする。僕も途上だけど。
ってことで特に社会人に向けて書いてみたが、普段やってる勉強がつまらないともし思うのなら、いっそ『悩み』と『好奇心』から逆算してテーマを探してはどうでしょう。
では今日はこの辺で。