ふと気付いたら、他のブログ全部合わせると1000記事以上とっくに書いていた中元です。昔の自分の文章がヘタクソで、超微笑ましい。
さて。僕自身、中学生の頃は多分ADHDだってくらい集団から浮いていたし、なのに同時に病的なまでに自信が無かったし、アセクシャルだし性嫌悪だし。
つまり、何かの本のタイトルじゃないが、やっぱりどうしても『僕は色々仮免中』なのである。
しかし、僕は20代前半より色々マシだ。さすがにそれくらいの自信は強くある。昔より僕は僕を肯定できているし、知識も心構えも成長している。
では、正直腐り倒していた頃と、今の僕の間に起きた大きな出来事は、一体何だったのか?
実はそれこそ、『表現』なのだ。簡単に言えば、これらのブログを書くようになったということで、僕の脳内を片っ端から言語化していく習慣ができたということ。
つくづく思うが、僕は『表現』によって救われている。「お前から一切の発信を10年間禁じる」という何かが課されたら、自死を選ぶんじゃなかろうか。
今日はそういう『表現』の効用を、この記事にて表現してみようと思います。
正体がわかる。
表現をすることの最たるメリットは、『不安』とか『葛藤』とか『焦燥』といったカオスなネガティブを具体化できることだと思う。
『決断力』と『大局観』のどっちに書いてあったか忘れたのだが、『不安とはただ対象がわからないから不安なだけ』ってのは、本当にその通りだと思う洞察である。
例えば真っ暗闇のトンネルがあったとする。普通、そんなところに入っていこうとは思わない。何が出るかわからないし、安全だって保障されていないからだ。
しかし、光量が多いライトと地図、さらにはそのトンネルに入った経験のある同行者を募っていいのなら、正直怖さはほぼなくなる。勇気よりも情報なのだ。
ポケモンでも、同じもののはずなのに、ゴースよりもゆうれいの方が何か圧倒的に怖いのは、単にその正体が不明だから、ではなかろうか。
では、正体を掴むにはどうすればいいか?これはやってみないとわからないことだが、言葉にして書き出すことが一番手っ取り早い。
無茶苦茶ありそうな仕事、どこまでも晴れることの無い心の中の闇。それを書き出そうとしても、大抵はB5一枚におさまってしまうのではなかろうか。
僕は10年以上、低い自己肯定感と、劣等コンプレックス、インポスター・シンドロームでドロドロしてきたのだが、10年分の経験値を基にしても多分、小説は描けない。
逆に言えば、大抵の悩みはその程度ということである。言葉にするとは圧縮することであり、悩みが具体化すれば、やはり打つ手はよくわかる。
どんな媒体や方法であれ、表現すれば正体がわかる。正体がわかれば不安が消える。そういう話である。
同志が見つかる。
自分が抱える違和感を片っ端から言葉にしていくと、同じことを発信している人に気付くことがある。
マイノリティがそう感じる所以は、周りに似た人がいないことである。しかし、インターネットによってその制約が消えた今、同志を探すハードルはだいぶ下がった。
例えば僕は彼女も要らないし結婚もしたくないのだが、これを保守的なコミュニティで吐こうものなら、『負け惜しみ乙』ってのが関の山だろう。
しかし、ちょいとネットで検索をかければ、全く同じ価値観の人が散見され、居場所とまでは言わないが独りじゃないことを実感できて、結構安心する。
ただしそのためには、そもそも自分はどういうことを考えているのかを、自分が把握しなければならない。これは意外と、脳内だけでは処理しきれない。
僕もこのブログを飽きもせず300以上書いてやっと、自分の闇とかが可視化できたって状態なのだ。
よほど才能ある人でも、10000字くらい書かないときついんじゃなかろうか?しかも就活と違って、自分のダークサイドを掘り起こすわけなので、結構大変である。
ま、それはそれで楽しいんですけどね。
チャレンジができる。
最後はちょっぴり意外なお話。事前に『表現』『発信』を前提に考えると、あらゆる行動が『成功』とか『失敗』を超えて、『ネタ』になってくるのだ。
例えばこないだも、以前トラブって電話をかけづらくて仕方がないところに電話をする用事があった。
とはいえそれもきちんと鎮火しきっていたので別に何事もなく終わったのだが、自分の背中を押したのは以下の思考である。
『つつがなく終わろうと、また怒られようと、どっちにしろネタや!!』
ちなみに前者だったからこそ書いているのが今の記事で、後者だったらどうせメンタルを回復させる術を試した経験談でも書いている。
千原ジュニア氏もトークライブ中に言っていたが、『めちゃくちゃな目に遭っても、ここで喋れるから俺らマジでホンママシやで!!』ということなのである。
どっちに転ぼうがつまりネタ。主席でもブログでもラジオ?でも、発信する場さえ作っておけば行動に失敗は伴わなくなるのである。理論上は、だけど。
終わりに。
いわゆる偉大な音楽家や芸術家などのWikipediaを病んでいると、不思議なもので『マトモ』とされる人の方が少ないことに気付かされる。
となれば、創造性の原動力ってつまり闇じゃねーかと、そんなことを思わずには言われないワケで。それが爆発すれば、表現を超えて芸術になるのだろう。
彼ら、彼女らは自分を救うために『表現』を行っていて、その時々の結晶が『作品』である。
なんかこう、そういう大層なことを考えている。
『表現』は何も天才のためだけのモノじゃないのだ。鬱屈した何かを抱える人こそ、救われるためにやった方が良いと思う。
曲がりなりにも救われた実感のある僕からの提案でした。では今日はこの辺で。