僕はネガティブだけど、それなりに充実した人生を生きたいと思う。

「ネガティブ」で片づけず、自分の観察を続けたい。

『批判』されたときは"誰に"目を向けるべきか、目を覚まさせてくれるコトバをまとめます。

最近毎日焼き芋を食っているのですが、やはりこれは睡眠の質を爆上げしてくれるスーパーフードだと思うのです。🍠どうも、芋タロウ中元です。

 

さて。今日は仕事の繋がりで、とある方の話を聴く機会があった。波乱万事な人生を通じて気付いたことが語られて、自分に置き換えると刺さる教えが非常に多かったなと。

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その中で特に『救いになる』と思ったのは、以下のフレーズ。

 

自分が好きに生きられているかどうかを知る方法って簡単です。自分に対するアンチがいるかどうか。そこですね。

 

なるほどな、と。

 

要は自分に対し否定的な言葉を投げる人間が現れたとき、それはその人の価値観に衝突する個性が自分の中にできて、かつそれを外に発信できているということである。

 

ただ迎合するだけの状態を脱した状態。嫌われる勇気で書いてあるところの、『自由』という境地である。

 

ーとはいえ、やはり僕もまだまだ批判ってヤツはコワイ。他の人が批判されているコメントには目が向いちゃうし、それを読んで意味もなくダメージをまだ、負う。

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例えば授業のことをメタクソに言われたり、ブログに否定的なコメントが来たりってのは、何回も食らっている。そのたんびに酒量が増えて、肝臓が痛む。

 

・・・ただしこういった反応は、正当かどうかはさておき、誰かから自分を、自分が生んだものを評価されているということ。もうそっから退けないし、退くべきじゃない。

 

批判を言うより言われる側。かなりの擦過傷を負うのは承知しているが、「みんなといっしょ」が無理な僕は、我が道を行くしか無いことにも気づいている。

 

ーっていうことを独り言ちていると、同時に『批判に対する向き合い方』とか、『批判された自分を肯定する考え方』ってのに、強く意識が向くようになる。

 

そこで今日は、一読すれば誰かから傷付くことを言われた際にスッと立ち直れるような、そんな記事をまとめようと思う。

 

誰かに怒られるってならば改善の糧になるから良いけども、理不尽な怒りをぶつけられたら、どう考えるか、どう身を処すか?

 

それのヒントが書ければなと思います。では行こう。

 

 

向き合わなくていい『批判』とは?。

ameblo.jp

 

実はネガティブな意味一辺倒で考えられがちな『批判』であるが、辞書で引くとその意味は結構ドライで健全だ。

 

  1.  物事に検討を加えて、判定・評価すること。「事の適否を批判する」「批判力を養う」

  1.  人の言動・仕事などの誤りや欠点を指摘し、正すべきであるとして論じること。「周囲の批判を受ける」「政府を批判する」

  1.  哲学で、認識・学説の基盤を原理的に研究し、その成立する条件などを明らかにすること。

 

特に2番目の意味ちゃんと持っていれば、その『批判』は真摯に受け止めるべきだよねという風になる。

 

・・・では、その意味をちゃんと持っているとはどういうことか?今からそれがある例文と無い例文を並べてみるので、少し考えてみてほしい。

 

・ある

 

『こないだの記事の結論は、別の帰結になるという反論もあるので、そこも踏まえた方がいいんじゃないでしょうか?』

 

『おい!こないだ作ってもらったイス、座ったらスイバリが刺さったぞ!ちゃんと紙やすりかけとけや!!』

 

・ない

 

『こないだあなたが書いた記事の結論は、僕の思ってることと違うので、書き直してくれませんか?』

 

『おい!お前んとこのカレー、こってりすぎてダイエット中の俺に合わねぇぞ!もっとヘルシーなの出せ!!』

 

・・・抽象的だがお分かりいただけただろうか?受け止めるべき『批判』にあるモノって、きちんと情報を取り出す読み取り方が身についていれば、非常に簡潔である。

 

『よりよくするためのアイデア』『直すべき根拠』などである。つまり、その人や作品をもっとよくするための思いやりと解釈することもできる。

 

一方、後者は完全に『おまえがおれにあわせるでち!』とでも言いたげな物言いであり、これはハッキリとしたクレーマーである。いちゃもんと言ってもいい。

 

クレーマーの特徴は、先の記事だと【自分しか見ていないこと】だとあった。こういうタイプは我が強くワガママなケースが多いので、従うとマズい。

 

クレーマーに合わせることは、あなたを支援してくれる人にそっぽを向くことであり、失うものがあまりにも多すぎるからだ。

 

「おれのおもってることとちがうからかきなおせ」ってのは無視すればいいし、「かれーのあじをかえて~」というのも、他の店を紹介したらいい。

 

あなたに飛んできた意見は、【批判】なのか【クレーム(という名のいちゃもん)】なのか。現代文の読解問題を解くなどして、受け取る力を養っておこう

 

『嫌なヤツ』に合わせるということは・・・

www.youtube.com

 

この考え方は、非常にシンプルなところにもまとめられる。例えばあなたが何をしても、どう改善しても、とりあえず噛みつく人間がいるとしよう。

 

それを気にしてその人の顔色を伺うことは、つまり「あなたがイヤと思っている人に合わせること」、もっといえば「好かれる努力をすること」である。

 

その状態に対し、思いっきり釘を刺してくれるのは、「さいとうひとり」さんの言葉だ。

 

 【類は友を呼ぶ】って言うでしょ?

 

だからあなたが思う『嫌なヤツ』に好かれたら、それはあなたが『嫌なヤツ』ってことだよ(笑)

 

だから、あなたが『嫌だな~』と思う人には、別に好かれなくてもいいの。

 

それにね、いちゃもんばっかり言う人、悪口ばっかり言う人は、周りから人がいなくなるから勝手に自滅するの。そういうもんなんだよ。

 

みたいな話だった。これを聞いたとき、八方美人であることのあほらしさがよくわかった。本当によくわかった。

 

例えば『お前の授業は気に入らないんだよ!』と一人に噛みつかれ、そいつのゴキゲンを取ろうと四苦八苦している時、僕は他から嫌われる行動を取っているということだ。

 

自分が思う嫌なヤツに嫌われているってことは、自分が思う嫌なヤツに自分はなっていないという証拠。

 

少し禅問答っぽいが、こう考えておくと、確かに心の平穏がすぐに取り戻せるような気がしてならない。頭の片隅に置いておきたい考え方である。

 

『批判』には、感情ではなくデータで向き合う。

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最後はメンタル面からではなく、もっと『事実』からアプローチしてみよう。

 

例えば、ネットの炎上事件に加担したり、息をするように暴言を送り付ける人たちの正体は何なのか?実は面白い研究がある。

daigoblog.jp

 

実は、その割合は全ネットユーザーの0.47%らしいのだ。 その超少数派が何度もリツイートしたり別垢作ったりして、総数をかさまししつつ炎上させてるとのこと。

 

これだけでも、そっちに意見を合わせることの危険さと不毛さが分かるのだが、他にも参考にしたい考え方はある。例えば、『基準とするデータを絞る』、など。

daigoblog.jp

 

僕もこないだ別ブログで作ったYouTube動画に初めて『bad』を食らったのだけれど、その動画の”再生数”は他のと比較しても伸びている。

 

となれば、『bad』がつかないことと『観られる』ことはどっちが自分にとって良いのか考えて、僕の場合は後者だったため、親指が下を向いててもどうでもいい、となる。

 

他にも色々と炎上させたがる人の心理的解説や、参考にするべきデータの話などはネットにも書籍にも転がっているので、色々ブレるならぜひ調べていただければと思う。

 

終わりに。

 

ってことで、よく批判と逆境で我を忘れる僕が、正気に戻るために必要だろうなと思う考え方とかをまとめてみた。

 

 やはり自分に『反対』するコメントは、インパクトが強いため、意識がそこに向いてしまうモノだと思う。ただしこれは、何も知らなければ、である。

 

ちょっとでも他の目線や裏事情を知っていれば、心を戻すのは相当ラクになるワケで。これは実体験としても思います。

 

そんなブレた心を元通りにする一助になればありがたし。では今日はこの辺で。

 

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