僕はネガティブだけど、それなりに充実した人生を生きたいと思う。

「ネガティブ」で片づけず、自分の観察を続けたい。

コミュニティが広がれば、大抵のスペックはどうでも良くなる。 ―模試で校内1位、だから何?

大学3年の頃、毎日暴君ハバネロとビールを摂取してたら大腸憩室炎になった中元です。その後3週間で4㎏痩せたナァ・・・

 

つくづく思うんだけど、高校生や大学生の頃には喉から手が出るほど欲しかった肩書って、30歳になろうとしている今振り返れば死ぬほどどうでもいいよな、と。

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例えば、高校の頃は模試で学校1位になりたかったし、大学生の頃はTOEICで良い点取ってすごいと言われたかった。

 

だが、今ならそんなことするヤツも、過去の自分も、多分「ばーか」と一蹴してしまう気がする。

 

こういった局所的なブランドは、コミュニティが広がったり変わったりすれば、大抵紙くず同然になるからだ。しがみついている人間は正直哀れだ。

 

今日はそんなことをウダウダと書いていく。

 

 

「テストの順位」を気にすることの無意味さ。

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僕は模試やテストの点については、さほど順位を気にしたことがそんなにない。だが、周りには【ヒエラルキー】をかなり気にする人が多いのは事実だ。

 

誰よりは上で、誰よりは下か。そんなことを数値で表せるか否かを問わず、誰かと自分をいっつも比較して、一喜一憂という感じである。

 

まぁ、この気持ちは結構わかる。少なくとも自分より下がいることで、自分が最下位では無いことを安心できる。こんなクソみたいな論理だが、納得は出来る。

 

実際に、「お金2.0」によれば、ヒエラルキーが可視化されていることは、持続するコミュニティの条件にも挙げられている程だ。

 

ところが、だ。こういう局所的な勝った負けたは、実は大局的に考えるとマジで死ぬほどどうでもいい。

 

例えば学校のテストで1位を取ることと、学校で一番新体力テストの成績が良いこと、そして学校で一番モテることを並べたとき、どれが一番凄いだろうか。

 

そんなもん人によると思わないだろうか。つまり、目線を変えると途端にどうでもいいのである。

 

こういう風に、コミュニティはおろか、観点1つを変えるだけで意味をなさなくなるステータスを得ようと四苦八苦するのって、僕はどうかとしか思わない。

 

もちろん、クラスで1位を取り続けることを目標にすれば、憧れの大学への進学に繋がると言った先のゴールが見えていれば話は別だ。

 

しかしそれそのものが目的であるならば、あまりにも色々ズレているという気がしてならない。きっと末路は、過去の栄光を酒の席で楽しそうに語る、可哀想な人だ。

 

だから、他者比較はほどほどにしておいた方が良いと思う。わかったか、10年前の僕よ。

 

努力しない美形・美人は、結構勝手に落っこちてくる説。

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ひろゆき氏著の「無敵の思考」って本が好きだ。

 

特にその中でも、「ハゲずにいればそれだけで、年々モテのレースで有利になってくる」という持論が非常に面白かった。 というのも、これは割と本当だからだ。

 

例えば、僕は学生の頃から今にかけて、女性から見向きもされない砂利のような人生を歩んできている。(それが正解だとも思うけど)

 

そしてその当時からモテモテだった人間は、努力というより才能によってそれを勝ち得ていた印象である。特に見た目の話ですな。

 

しかし、人間はやはり老いる。努力しなければ、太るし、ハゲるし、運動もできなくなっていくのだ。

 

すると、不思議なことが起こる。身体機能の維持に徹し、何かしらの努力を積み続けた人たちが、時折逆転現象を起こすのだ。

 

そもそも優秀な物件は、とっとと結婚して市場から去っていく。そして残った人間たちが、(勝手に)恋愛・婚活市場で評されることになるのだが・・。

 

ハゲたり太ったりしたいわば元イケメンより、ハゲても太ってもない普通の人が選ばれることは往々にしてある話なのだ。(実例多数)

 

また、主に内面を磨く努力を重ねた人は、話が面白いし、経験値の多さも違うし、何より結果お金を持っていることも多い。

 

そうなれば、まず劣化していく【美】だけを武器にしてきた人は、30歳くらいからじわじわ競争力を失っていくのではないだろうか。

 

もちろん例外はあるが、そういった人たちはもれなく【美+α】の部分も積極的に発信している印象がある。並大抵の努力では無いだろう。

 

ということで、圧倒的有利さを持つ天性のルックスも、年月がチャラにすることがあるのだ。やっかんで、嫉妬して、ヘンな炎をメラメラ燃やすのも不毛である。

 

高校・大学の頃にモテなければ人生終わるとか、誰情報のおとぎ話なのだろう?もしそうなら、過半数以上の人間の人生は序盤で終わることになる。

 

「浴衣デートした」とか「制服デートした」とか言ったカルピスウォーターみたいな青春も、30歳過ぎたら人生経験としての有無すら含めてどうでもいい

 

絶対有利なスペックであろうが、維持と恩恵の享受のためには、やはりある程度の努力を求めてくるらしい。肝に銘じておこう。

 

敵わないと思っても、意外と敵うことはありましてな。

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【絶対勝てない存在】というのは、単にステージをどこにしているかというだけの話であることが多い。

 

例えば最近読んだ「やるか、やるか」という本にも、「1つの勝負で勝てないなら、複数の観点で挑め」といったヒントが書かれていた。

例えば格闘技を極めた人間に【勝つ】ためには、それ以外の土俵で勝負を挑んだらいいということだ。ゲームの上手さでも、学力でも、何でも。

 

こういう風に、勝手に相手と対決する際の基準(土俵)を変えるという考え方は、結構健全なのでオススメである。

 

何故かというと、「こうすりゃ勝てる」という安心か、「張り合いってマジくだらない」というどちらかに着地できるためだ。

 

どちらにせよ、嫉妬の気持ちは和らぐし、ヘンなアンチ活動に興じるエネルギーを盗られることも無くなる。

 

顔のカッコよさで負けていても、自分の得意分野を寄せ集めれば完全敗北はあり得ないはずだ。もし完全敗北するなら、単に努力不足か、相手が血の滲む努力をしている。

 

それに、強さにおいて、「どちらが上か」なんてのも実は非常に曖昧だ。

 

羽生善治氏とボブ・サップはどちらか強いのか、考えてもマジ仕方がないとは思われないだろうか。

 

こういう風に、絶対敵わないと思う相手がいても多分思い込みなので、相手の得意なところに行かなければいいよねくらいの距離感で考えるのがベストだと、僕は思う。

 

終わりに。 ―結果より過程、肩書より面白さ。

 

ということで、要するに【根拠のある自信】についてのくだらなさと危うさを書いてみた。

 

他者比較ってヤツは、勝ったら終わるのではなく、止めたら終わるのである。

 

例えば数検1級を取った人は、そこで満足しないと、9歳で取得した少年や、自分よりスコアの高い人に嫉妬して終わる。

 

しかし、そこで他者の方が優れているという被害妄想を意識して止めれば、話はそこで完結する。資格取得、立派じゃん。やるじゃん、俺。それでいいじゃん。

 

各種検定の1級を取った人間などごまんといるが、そこに至るまでのストーリーは全員バラバラだ。売り物にするならそっちじゃなかろうか。

 

また同様に、肩書に固執するのも考え物だ。僕が感じる限り、肩書を【誇示】するんじゃなくて、【利用】している人の方が人間としての器がデカい。

 

例えば【部長】という肩書がつけば大抵偉い人であり、ふんぞり返ってそうな印象だが、会ってみればその真逆、滅茶苦茶腰が低いとする。

 

これは肩書を【利用】したギャップ法であり、こういうことを地でやる人を僕は尊敬する。

 

ということでやっぱり、コミュニティが広がれば、大抵のスペックはどうでも良くなるなぁと感じずにはいられない。正確には、観点だけれども。

 

実は無駄な他者比較に振り回されることなかれ。

 

では今日はこの辺で。

 

 

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