僕はネガティブだけど、それなりに充実した人生を生きたいと思う。

「ネガティブ」で片づけず、自分の観察を続けたい。

人生振り返ると、成長したタイミングは全て、【自分は無力だと知ったとき】だったなぁ、と。

最近毎晩飲んでますが、寝起きが良くなりまくっている中元です。怖いのでそろそろ断酒期間設けます。

 

はい。人生を振り返るにはまだ早すぎるのだが、実は最近悟ったことがある。それは、自分が成長したと感じるタイミングの共通点についてだ。

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特に今年はそれが顕著で、あれだけ手放せなかった嫉妬の気持ちも大激減したし、あれだけ怖かった批判や批難も、「こんなもんか」と呆れる場面さえあった

 

人を頼ることにも抵抗が無くなったし、自分ひとりがあくせく頑張ることのアホ臭さも、今なら身に染みてよくわかる。一体僕に何があったのか?

 

断言するが、それは努力によって能力を得たとか、そういう類ではない。むしろその逆、不可抗力によって、自分の努力や思いをへし折られたことだ。

 

その観点から、自分の人生のターニングポイントを振り返ると、全てそうだった。僕は人生の節目節目で何かをへし折られて、結果それで人生が好転している

 

そう考えると、僕は挫折こそ歓迎すべき事象なのだと思えるようになってきた。不思議な話である。

 

ってことで今日は、そんな不思議な話についてシェアしたいと思う。

 

 

挫折のたびに、学ぶことがある。

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挫折の経験を、時系列で述べていく。まず最初に思い出すのは、何年も続けた野球をケガで止めたことである。

 

・・・だが、その終わりごろには結構情熱も冷めていたので、長年の習慣やある種の夢・可能性を捨てることに対して、この辺は一切執着が無かったのを記憶している。

 

その次となると、最初の告白撃沈を経験するところになる。今思えば、自分とは生きるステージが違い過ぎるほどのヒトであった。僕はアホだったなぁ。

 

―この経験を通じて、自分そのものの価値について、強制的に向き合う機会ができたといってもいい。

 

つまり、思った以上に、少なくとも恋愛市場において、僕は価値のない側なのだと悟ったのだ。

 

それは受験勉強の果て、志望大学に受かった後も同じだ。勉強という強みやアイデンティティが通用しない世界。強制的に均された能力値。

 

そして勉学でも、その他の魅力でも、逆立ちしてもかなわない存在が周りにい続けること。その環境の中で、顔では笑いながら、胸の内で葛藤していた記憶がやはりある。

 

自分には何かが圧倒的に足りない。だからどうにかしてそれを埋め合わせなければならない。でもどうすればいいかわからない。だからみんなが良いと言うものを追う

 

大学4年間もその方針で過ごし、最初に入った会社でもそれを貫いた結果、僕は一度心を壊すことになった

 

ムリをして、頑張って、歯を食いしばっても・・。ダメなことってあるんだなぁ。そういう経験を強く、僕は心に刻むこととなった。

 

転職してからは、自分の適性にあった仕事ができて、心の平穏ができた。そして、自信も芽吹いた。だがそれも、束の間であった。

 

調子に乗って2度目の告白撃沈。時に僕は25歳ほど。ここではっきりと、僕はあることを強く悟った。

 

「俺は恋愛市場において無価値なのだ。となれば、結婚市場でも、そうなのだろう」

 

ひっくり返さなければならない逆境の数々は、目がくらみそうな壁となって眼前に聳え立った。しげしげと壁をしばらく観察して、ふと思った。

 

”厖大な努力を注いだとして、俺はこいつに何ができる?というより、お金を、時間を、労力を、つまり人生を投資してまで、俺はそっち側に行きたいのか?”

 

浴衣を着た彼女とデートしたい?家で酒を一緒に飲みたい?いわゆるお決まりの異性交遊を、僕は本当に楽しみたいの?見栄では?世間体からあぶれたくないだけでは?

 

・・・自問はちょっとの間続いたが、出た結論は明白だった。

 

「うん、どうでもいいや」

 

こうして僕は、うすうす悟っていた自分のアセクシャリティや性嫌悪を根拠に、その世界から完全に決別することを決めたのだった。

 

・・・それでも、挫折はまだ終わらない。英検1級に受かったときも、さらに高い成績で受かったり、若い年齢で受かったりした存在が気になり、素直に喜べない自分がいた。

 

劣等感からくる、他者比較のクセ。それが転じての嫉妬。この辺がかなり消えたのは、つい最近のことである。きつかったなぁ。

 

それをかき消すために死ぬ気で働いた今夏。全てが終わり、一息つける段階になって、自分が生んだ利益を計算し・・・絶望した

 

自分一人で登れるのはここまでなのかと、本当に力が抜けてしまった。だから僕は、実をいうとプレイヤー側からそろそろ引退したいくらいである。

 

自分に可能性を見出しては、それを現実にへし折られ、地に叩きつけられ、あるいは真実が鼻先に突き付けられることもあって。

 

折られて折られて、そして、今。

 

ようやっと僕は、心の底から、今の自分を赦せるようになってきている自覚がある。

 

少なくとも、その境地に片足は入れられたという実感があるのだ。ずっとたどり着きたかった場所なのだが、そのカギは、向上心ではなくむしろ諦めだったのかもしれない。

 

寂しい人生だろうか?でも、悪い人生でもないだろう。少なくとも、僕はこの生き方を、しっかりと肯定している。

 

例えば今この瞬間も、僕より稼げて頭が良くてかっこいい人が、僕とステージの違う素敵な異性を連れて、輝かしい繁華街で高級料理を食べているのだろう。

 

あるいは、僕よりはるかに知能が高い子供が、その才能を評され、努力が報われ、その快感と栄誉を励みに勉学へ努めていることだろう。

 

こんな風に遥か天空で、僕がたどり着けないステージで、お互いにしのぎを削りあう英才たちに、なろうと思うだけ無駄だ。疲れるだけだ。

 

僕はそれを観戦する一観客でありたい。勝負や競争と関係ないところから、エンタメとしてその世界を観られれば、もう満足だ。

 

僕は憧れられる存在にはなれない。というよりそもそも、そうある必要なんて、まるで無い。俺を模範とする人は、どこかおかしい。

 

―そう諦めると、娯楽として、才能ある人間がそれを披露しているのを楽しむ余裕が、心にふっとできるのを感じた。

 

自分が無力と知るたびに、努力しても無駄な何かがわかる。だから好きなことに人生を使える。そして、好きなことへの投資は、割と報われる

 

少なくとも僕にとっての幸福は、【競争】の世界には存在しなかった。それに気づけたことが、30年生きてきた中で、一番の幸福なのかもなと、今思う。

 

終わりに。

 

ということで、挫折のたびに、自分がしなくていい努力がわかったことが、こうして色々人生から捨てられるきっかけになったというわけだ。

 

諦めないことは尊いというけれど、大体は諦めた方がラクなのだ。特に、枝葉末節に当たるところはそうである。どうでもいいって考え方こそ、未来を開く説。

 

頑張ること以外の解決方法を持たない方に、何かが伝わっていたら嬉しい。では今日はこの辺で。

 

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