最近、シンギングボウルのシンプルだけど奥深い癒しの音色をYouTubeで聴くのが、ある種最高の休憩時間になりつつある中元です。
はい。不定愁訴と言われればそれまでなのだが、ここ1~2か月、将来のことを考えるにつけ、特にキャリアにおいて、現状に違和感を覚えるようになっている。
言い換えれば、例えば1年後も現状と同じであることを許容できるかと問われれば、秒速で「絶対に嫌」と返すことができるマインドが続いている。
ただ、だからといって何をしたいかというビジョンがはっきり見えているわけでもない。この仕事を辞めたいという願望があるわけでも、ない。
こんな風に、胸の内にあるのはあくまで極めてぼんやりとした違和感に過ぎず、その意味することについて、僕自身ほとんど理解することができていなかった。
しかし、確実の僕の胸の内に"それ"はあり、しかも段々と心や頭を占める割合が、着実に大きくなってきている。
正体のわからない、ある意味得体のしれない何かを、ずっとそのままで心の奥底に飼っておくような状態は、やはり心穏やかではない。
そんなわけでこの記事では、あらゆる方法を使い、胸の内に湧いた得体のしれない違和感を、徹底して言葉にしてみようと思う。
もしかしたらそのプロセスのどこかに、同じく言葉にできない違和感に悩む方へのヒントが出てくるかもしれない。そんな希望も込めながら。
では以下、一体どれくらいのボリュームになるのか、そもそも答えに辿り着くのかさえ不安になりながら、書き始めてみたいと思う。
・・・と思って1週間近く向き合ったら、なんと10000字を超える見込みとなってしまった。さすがにこれは多すぎるので、適当なところで分けようと思う。
今回はその第一部ということで、まぁよろしくです。
違和感に違和感。
どうでもいいのだが、僕は【違和感】という言葉について、ずっと【"異"和感】と書くものだと思っていた。実は今でも、その方がしっくりくるという感覚がある。
なぜしっくりくるのだろう?・・・こういうときは、言葉の意味の違いを考えた方がわかりやすいので、今回もそうしてみよう。
まず、【違和感】の"違和"とはどういう意味なのか。辞書で引くと、こんなことが書いてあった。
周囲の雰囲気に合わないこと。
という感じだ。ついでに気になって「和」という語についても調べてみたが、思った以上に意味があって驚いている。ただ今回は、関係ありそうなことだけ抜き出してみる。
① やわらぐこと。おだやかなこと。
② 互いに仲よくすること。また、争っていたものが、仲直りすること。
③ うまくつりあうこと。調和がとれていること。
となれば、【違和感】の意味は、「周囲の雰囲気に対し、気分が和らぐといった感情を抱かない、つまり合っていないと感じるということ」という感じで間違いなさそうだ。
なるほど、そういう意味では確かに、僕は今の状況に対して、”違和感を抱いている”。
・・ではなぜ、僕にとっては【異和感】と書いた方がしっくりくるのだろうか。そこで次に、【異】という漢字の持つ意味を調べてみよう。
1 他と違っている。別の。ことなる。
「異国・異種・異状・異常・異色・異性・異存・異同・異動・異例・異論・異民族/差異・小異・相異・変異」
2 正式・正統でない。「異学・異教・異端」
3 普通でない。あやしい。あやしむ。
「異形 (いぎょう) ・異様/怪異・奇異・驚異・妖異・霊異」
4 変わった出来事。「災異・天変地異」
―こうやって、【異】が持つ意味を改めて眺めてみると、腑に落ちるところがあった。それによって、僕が抱いている感情をより正確に言葉にすることができた気がする。
それは、以下のセンテンスに集約される。
「僕が和と感じる環境がどこかにあると確信しながらも、今の状況がそれとは異なっている感覚」
という風に。そう解釈してみると、僕がなぜ自然に、【異和感】と紙に書いてしまったのか、自分の中では納得ができた。
―すると、新たな問いが生まれる。では一体、僕が「和」とする環境とはなんなのか?これについてのヒントは現状、今の環境ではないこと、しかない。
では、どうすれば、その輪郭を掴めるのだろう。
・・テーマの途方の無さに、軽く絶望に近い気持ちもあるが、徹底して向き合っていくと決めた手前、項を変えてさらに分析してみたい。
僕が身を置きたい世界。
少し話が変わるのだが、最近ずっと気になっていたこの本を、無理矢理だろうが時間を捻出しては、読み耽っている。
―まだ終わりまで読み切っていないのに色々書くのも違うのだが、この本の中に、激しく同意した考え方があったので、紹介したい。
それは、「確固たる唯一無二の本当の自分など存在しない」し、「自分が他者に見せるどの顔も、自分を成す分人である」というものだ。
・・・僕自身、いっちょ前に「本当に自分とは何か」を考えた時期がある。友達といるときの自分?それとも、独りでいるときの?はたまた、家族といるときの、だろうか?
どれを本当の自分と定義しても、よくて△の評価しか付けられなかった。他者に見せている自分は、一体どれが仮面で、一体どれが素顔なのか。
脳内の情報が足りないから見つけられないのかとも思ったが、数百冊と読書を重ねても、一向に本当の自分なる者はカオスの中から浮き上がってはこなかった。
そのうち、いくら考えても答えが出ないので、このテーマについて考えるのを止めてしまったのだが、その理由がもしも、「そんなの無いから」だとしたら、どうか。
どこかに核となる”自分”がいて、誰と関わるか、どこに身を置くかに応じて、様々な仮面を付け替えている。―そのモデルがそもそも違い、核などないのだと想像する。
・・・不思議なもので、どんどんと心が落ち着いてきた。ありもしないものを、これ以上血眼になって探す必要が無いのだとわかって、安心した、という感じだ。
むしろそれを前提にした方が、今よりはるかに主体的に、僕は僕の人生を設計できそうという希望も生まれてきた。
自分が居心地が良いと思う環境を言語化し、それを努力して再現することで、自分が"そうありたい"と思う自分でいられる時間を延ばせる。
・・・直感的ではあるが、今の僕は一直線にこの理念達成を目指すべきだという手応えがある。今のここがしっくりこないなら、やはり、行動を変えるしかない。
では、僕が居心地が良いと思える環境とはなんなのだろう。ここは思い切って、とても具体的なエピソードから考えた方がよさそうだ。
「気が置けない環境」「心の底から楽しかった時間」をキーワードに、過去の自分が残した日記なども見ながら、自分の記憶を振り返ってみる。
そして浮かんできたエピソードを端的に書き並べて、その共通点を考える。この部分は、なるべく抽象的にすることを心がけた。
―さながら中学受験の記述問題を考えるように、最後の仕上げとしてその要素を一文にまとめると、こうなった。
「皆で変化と努力を楽しみながら、その途上で得た学びを共有し、さらに全員が成長していく環境」
・・・こういう場所にいる自分を想像してみたら、もはや昂奮と形容してもいいくらい、胸が高ぶるような感覚があった。
僕は新しいことをずっとやりたいし、そのための努力を厭わないし、そこで得た学びは己の内に溜め込みたいのではなく、誰かと共有したいしされたいのだ。
ただしこれは、「確固たる答え」にはまだまだ遠い。ダイレクトに僕の心に刺さるほどではない。実際少し目を離すと、何が書いてあったか忘れてしまった。
平家物語も、何十・何百・何千と語られ続けることにより、永く後世にまで残る形に洗練されていったのだと思う。
言葉を磨くには、折に触れて喋ったり書いたりする必要がある。それはこれからの宿題だろう。推敲を重ねることを面倒くさがってはいけないのだ。
・・・そういえばこないだ、自分の性格を客観的に知りたくて、【ビッグ5】のミニテストをやってみた。
すると結果は、外向性と誠実性が極めて高く、だが同時に、神経症傾向も強くて、不特定多数の人と触れ合うことには喜びを抱かないという風になった。
特に最後の要素が、僕の居心地の良い環境との矛盾をはらんでいるように思えるが、個人的にはその逆で、少しも矛盾していないどころか、補強材料になると捉えている。
本当に志や価値観を同じくする人たちとだけ、僕は理念を共有し、学びあいたい。そういうことなのだと考えれば、なるほど地の性格から出発した帰結なのだと納得する。
―それを理想とするならば、塾講師という職業は、いわば天職と考えて差し支えない。この選択については、つゆほどの後悔もない。断言する。
だが、勤めている校舎がその理念と合っているかと言われれば、むしろ乖離していると言わざるを得ない。
これは誰が良いとか誰が悪いという話ではなく、階層性の組織である限り、ある種仕方がないところではある。
変化はリスクであり、個人の努力の前に組織の利益が大切だし、そのためにはトップダウンの指示伝達がマッチしているのだ、と。
その観点から見れば、僕の理念など、ただの若造のワガママである。会社に身を置きながら、会社が変われと駄々をこねるなど、都合が良すぎて吐き気がする。
一応、僕が既存の校舎の長として仕事をしている姿も想像したが・・・。傲慢かもしれないが、あまり胸がときめかなかった。
結局立場が変われど、風土が変わらない限り、僕の胸の内の葛藤は消えないだろうと思う。もっとドラスティックな行動と意識の変化が必要なのだろう。
―そういうことか。
・・・ここまで考えてやっと、僕が自分の中で【独立】という答えを出した理由がよくわかった。本当に、腑に落ちた。
というのも実は、【独立】こそが最適解だという実感はありながらも、それが何故かについては、上手く自分の中で咀嚼しきれていなかったのだ。その間、なんと4ヶ月!
特定の個人に対する不満が蓄積された結果などではなく、ここが自分にとっての居場所というわけではないという悟り。これが本当のところだったのだ。
だからここからは、その居場所のヒントになりそうなことを掻き集めて、大量の仮説を作り、それを一つずつ検証していくことが必要になってくると思う。
宝石を掘り出すため、大量のデータを分析し、目星をつけるような作業に似ている。掘り出す前に、まずは地点を絞らなければ、的外れな結果に陥るリスクもある。
「僕にとって、居心地の良い、充実した時間を過ごすために必要なものとはなんなのか?」
”異”和感についてはある程度理解できたが、ではそもそも僕は、何をしている際に幸せを感じるのだろう。
皆様はこの質問に対し、すらっと回答できるだろうか。今の僕には、どうにも無理だ。
下手すれば、「皮膚感覚で嫌なこと」を思い出すより大変かもしれない。人間はポジティブな感情を持続させることが困難な性質を持っているからだ。
―そんなことを考えていたら今日早速、僕自身の幸せについてのヒントになりそうな出来事があった。ただ、これまた非常に抽象的な話になるのだが・・。
それでも、色々な感覚を忘れる前に、レコーダーへ思うことを録音しておいた。結果、冷静になった今でも、やや精度の高い検証ができそうだ。
ということで一旦ここで区切り、次回の記事で、「自分の幸せとは何か」というこれまで考えてきたようであまり考えてこなかった話を、考えてみたいと思う。
ではこの記事はこの辺で。