僕はネガティブだけど、それなりに充実した人生を生きたいと思う。

「ネガティブ」で片づけず、自分の観察を続けたい。

【支えあうことが真のチームプレーだ】という言葉に、違和感と不快感を抱くあなたへ伝えたい。 ―僕もそうです、と。

最近意識的に仕事の量を減らしているのですが、めちゃくちゃ精神にええっすね。ビバ適当、中元です。

 

はい。最近、酔った上司から言われたあるセリフが、僕の中でずっと引っ掛かっている。その内容は、チームプレーの話っちゃ話なのだが・・。

 

「できない人やしない人がいても、しないといけないことは、部下だろうがやらなければいけないよ」みたいな感じだった。

 

・・・この言葉に同意するかどうかは、正直あなたがどんな組織に身を置いている次第なのだと思うが、とりあえず僕自身の感想を言う。

 

シラフだったので堪えられたが、はらわたが煮えくり返りそうであった。ここまで上にキレそうになったのは、初めての経験かもしれない。

 

ある種、僕の逆鱗に触れたワードだったということだ。しかし、何がどうして、そうなったのだろうか。これを言葉にするには、まだ分析が足りない。

 

幸い、ちょっと思い返すと、また少しずつ苛立ちが立ち上ってくる。だからこそ、この"感情"を取っ掛かりとして、きちんと己の内面と向き合うことにしよう。

 

【支えあうことが真のチームプレーだ】という言葉に、僕は違和感と不快感を抱く。今日はそんなことを書いてみる。

 

 

【支えあい】なのか、【体のいい搾取】なのか。


ところで、僕に強い違和感と不快感を抱かせた、上記のセリフ。

 

「できない人やしない人がいても、しないといけないことは、部下だろうがやらなければいけないよ」

 

まずは、これを詳しく説明するところから始めたい。

 

そもそものきっかけは、会社で決めたサービスにおける徹底度が、支店ごとにその差が激しいという話になったことである。

 

いわば、基本サービスが徹底できている場所と、そうでない場所があるどころか、できてないところは本当に何もしてないのはどうなのか、という話になったのだ。

 

例えば、あのコンビニではいらっしゃいませと全員が言うのに、あっちのコンビニでは誰も言わない。そんなのを想像していただければわかるのでは、と。

 

そしてその徹底されている度合いは、その支店の長の価値観や管理力に比例するため、不徹底とはつまり、長のさじ加減ということになる。

 

―そして僕は主に、不徹底側の支店に入る。だから必然的に、サポートに回ろうとする。しかし、どうにもそれが快くないようで、よく要らんことスンナと怒られる

 

だから僕は酒の席で、かくかくしかじかとばかりに、そういう実情を伝えた。すると返ってきたのが、先のセリフなのだ。

 

「できない人やしない人がいても、しないといけないことは、部下だろうがやらなければいけないよ」

 

「できない人やしない人がいても、しないといけないことは、部下だろうがやらなければいけないよ」

 

・・・。

 

やはり、今思い返してもイライラする。眉間に皺が寄ってくる。なぜだろう。・・ここは感情に呑まれず、丁寧に解きほぐそう。

 

まず僕が強く違和感と不快感を抱くのは、この言葉を通じて、何なら仕事をされない方々を容認・肯定するような意味合いを感じるというのがひとつ浮かぶ。

 

「できない人」や「しない人」はさておき、それをわかっていて、補助しない君が悪いというメタがそこから立ち上ってくる。これが原因か?

 

では仮に、それを「わかりました!!」と承諾して、僕が仕事をしない人の代わりに必死で仕事をして、成果を出したらどうなるか。

 

まずは、露骨に嫌な顔をされるのは容易に想像がつく。思春期の男子が母親に部屋を掃除されるのと似ているかもしれない。そのストレスが、職場全体に増えるだろう。

 

さらに、無駄な負担を増やしてさらに頑張って、職場の基本事項徹底率が激増したとしても、それは僕ではなくチームの成果として吸収される未来がみえる。

 

器が小さい物言いになるが、個人の努力がチームの成果に帰す感覚、僕は容認できる自信が無い。

 

ここまで行けばもう、支え合いなどではなく、体のいい搾取に他ならない。最終的に誰がトクをして誰が損をするかを考えれば一目瞭然だ。

 

頑張れば頑張るほど、僕の評価が目減りし、仕事をしない人のそれが高まっていく。それは果たして、チームプレーなのか?

 

そもそも、責任者としての仕事に対し不熱心なら、リーダーを交代するのが一番合理的な話ではなかろうか。なぜそこはそのままに、部下が骨を折る必要があるのだろう。

 

情。恩義。年功序列。しがらみ。そういったウェットな部分が複雑に絡んだ結果、現状維持がベターになっているのかもしれない。

 

もしそうなら、この歪んだシステムは、恐らく改善されることは無いだろう。その未来が改めて見えた今、僕の行く先が闇に沈むような感じを抱く

 

将来という大事なものが脅かされる。だからこその強い怒りを、僕は感じたのではなかろうか。今のところの暫定的な結論は、そんなところである。

 

部下がよく働く組織に、潜んでいるかもしれない闇。

 

リーダーよりも部下の方が熱心に仕事をする。これはある種、理想のマネジメントが行われている状況と言ってもいい。

 

リーダーはリーダーとしての仕事を行い、実働の部分は部下が全力で取り組む。そこで得たフィードバックを活かし、新たな指示を伝え、また動く。理想的だ。

 

―しかし、これがこの通りに動いているように見えていても、マネジメントとして赤点というケースはそれなりに多い。

 

ひろゆき氏も指摘していたが、「専門知識などを有しない上司は、やたらと感情的に怒鳴ることで部下をコントロールしないと結果が出ない」というミスマッチもある。

 

あるいは、部下が熱心に働いているのではなく、上司が指示の一切を出さないので、自発的に動かないと組織が潰れるという悲愴な理由だってあるだろう。

 

こういうケースでも、部下が熱心に働く最中に折を見て「リーダーは俺だ!」とばかりにカミナリを落とすことで、感情面から支配するタイプの被害報告は時々読む。

 

この状況で、死に物狂いで部下として働く人たちに、チームプレーの大切さを説こうものなら、八つ裂きにされてしまうのではなかろうか

 

得てして、そこで働く人が生き生きと仕事をしていることを、リーダーの功績という風に考える人は多い。僕もそこには同意する。

 

しかしそういった表面上の雰囲気だけでは、読み取れない部分が存在するのもまた事実だろう。もしかしたら、とんでもない闇と爆弾がそこにあるかもしれないのだ。

 

仕事をしない人のせいで必死にならざるを得ないとき、もしかしたらあなたの職場は「生き生きとしている」と評されているかもしれない

 

そうだったら、なんと救いが無い話ではなかろうか。心当たりがあるなら、一旦手を止めて、冷静に俯瞰されることをオススメする。

 

終わりに:確かに、”前提さえ間違っていなければ”、【支えあうことが真のチームプレー】だと考えてもいいかもね。

 

ここまで考えれば、ある前提が間違ってさえいなければ、別に【支えあうことが真のチームプレー】と捉えてもよさそうだと思える。

 

その前提とは、もう遠慮なく言うが、リーダーに適した性格や能力を有する人が、リーダーとしての仕事をきちんと果たしていることだ。

 

そうでないと、これまで書いてきた通り、単に部下が一生懸命なだけで、体のいい搾取になってしまっている可能性も高いだろう。

 

僕はもう、自分の時間と労力が搾取されることは容認しきれないので、色々とキャリアに区切りをつけるつもり、というのは何度も書いたので割愛する。

 

だが、こういうリーダーが感染しがちな病というものは、確実に存在すると思われる。僕の課題は、自分がそうならないよう気を付けるシステムの構築だと考えている。

 

一生懸命働く皆様も、特に新入社員であるならば、社内の状況には俯瞰的になりやしょう。

 

では今日はこの辺で。

 

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