僕はネガティブだけど、それなりに充実した人生を生きたいと思う。

「ネガティブ」で片づけず、自分の観察を続けたい。

自分の【モノサシ】の見つけ方。 ―そしてそれの壊し方。

定食屋でうっかり大盛にしたら、わんぱくな野球部がギリ食えそうな量が来て詰んだ中元です。完食しましたけどね。

 

はい。31歳になってちょっと経った僕だが、最近は「自分の価値観」に敏感になってみようと、ちょっと意識を変えてみている。

 

就活生の頃にそれを考えた記憶はあるが、やはり価値観はアップデートされる。核の部分を知っておくのはもちろんだが、現時点のそれも、言葉にしたいと思ったからだ。

 

価値観とは、言い換えれば”モノサシ”だ。様々な判断を自分主体に行うための基準。そして僕は、実際”モノサシ”と表現する方がしっくり来ている

 

さて。自分で自分のモノサシを認識することの強みは何かというと、無駄に悩むことが減りそうだというのが一番大きい。

 

基準に合うなら採用、合わないなら不採用すればいいだけの話だからだ。逆に言えば、基準がない状況というのは、他者に振り回されるリスクがあるため非常に危ない。

 

ひろゆき氏も、「無敵の思考をするためには、自分でルールを設定し、それをきちんと守ることが基本です」という風に書いていた。

 

そしてそのルールを作るためには、自分という人間の思考の癖を知っておく必要がある。果たして、僕が抱える全ての分人に共通する考え方は何なのか。

 

今日は暫定的な施策ではあるが、僕なりの【モノサシ】の見つけ方と、必要に応じてそれをぶっ壊す方法を、ちょっとまとめておこうと思う。

 

 

【怒り】と【違和感】をトリガーに問いを始めよ。

 

突然だが、皆様は自分が好きなことと、自分が嫌いなこと、どちらの方が言葉にすることが容易だろうか

 

似た質問に置き換えるなら、交際相手として、好きなタイプと嫌いなタイプ、どちらの方がパッと言葉にできるか、と問うてもいい。

 

恐らく大体の人は、嫌いなことの方が言葉にしやすいのではないかと思う。僕自身もそうだ。好きなことの回答は抽象的になり、嫌いなことの回答はやたら具体的になる。

 

例えば、好きなことは何かと尋ねても口ごもる子はいるが、そんな彼ら彼女らに嫌いなことは何かと聞くと「勉強!」と即答する画は簡単にイメージできる。

 

僕自身、この思考は単なる人間の特性なのだと考えており、良いも悪いもない「そういうもの」という程度の認識で捉えている。

 

堀江貴文氏も、「好きに理由はない」とどこかで説いていた気がする。好きを言語化するのは、そもそも非常に難しい作業なのだ。

 

しかし不思議なもので、いざ内面を見つめようと言われると、人は”好きなもの”を起点に、自問自答を始めようとする。問いかけとして、起点があべこべなのだ。

 

縄跳びを始める際、なぜか後ろ跳びから練習し始めるのと似た違和感を僕は持つ。もう少しハードルを下げて、具体化し易い方から取り組んだ方が楽だ。

 

だから僕は、自分が何に【怒り】と【違和感】を抱いたかについて、かなりアンテナを張っている。それは取りこぼさず、メモに控えて、後で必ず言葉にする。

 

実際先日も、「成長は個人の責務だし、今の環境が手に負えないなんて窮状の訴えはただの甘え。真に受けるな」という具合の価値観に接し、僕は強い【憤り】を覚えた

 

同時に、この価値観とは、たとえノーガードで殴り合うような衝突になろうと、絶対に屈したくないとも強く感じた。ではなぜ、僕はこうも強い感情に至ったか。

 

こういうところに、自分のモノサシのヒントが隠れている。だから徹底して自問する。自分に向き合う。心理学の知識なんかも使って、その正体を探る。

 

すると、「成長しろ、だが助けは求めるな」とでも言いたげな先の価値観について、僕自身許しがたい原体験があることを思い出した。

 

入社してすぐ、苦しい状況でも「甘えるな頑張れ」とあしらわれ、必死で知識を集め、歯を食いしばりながら打つ手を変えた時期がある。孤軍奮闘とはこのことだ。

 

耐えて耐えて耐え抜いて、結果、ある程度のところまでは辿り着けた。まだまだ無知なところはあるが、それを割り引いても、だ。

 

例えば教室運営において、恐怖・怒声といった幼稚な手段に頼らず、ある程度の統率は安定して取れる。見放されたところから、ここまでたどり着いたのだ。

 

―こういう突き放しによって成長したことを、美談と捉える人もいる。「あなたが厳しくしてくれたおかげで、僕はここまで来れました」という風に。

 

だが僕は、強い反発を抱いた「おめぇがなんも言わねぇから、俺はこんなに苦しむことになったじゃねぇか」という風に。

 

そして僕は、こんな無駄な苦しみを再生産したくないと強く感じるに至った。だから先のような価値観と、そこから出るセリフが無茶苦茶嫌いなのだ。

 

一人一人、正解の形は違う。知識や経験則を提供しても、その人の正解になるかどうかは別問題だ。だがその人が新たな手を考える材料として、これらは重要な材料となる。

 

実際、僕はコミュニティ内では、「学びと仮説はシェアすべき」だと考えている。皆で考えて、皆で答えを出して、一人で到達できない解へ辿り着きたいからだ。

 

だからこそ、「がんばれ甘えるな」とあしらうのは三流の返答だと考えている。「なるほど、じゃあ手を考えましょう」と言える人に僕はなりたい。そう納得している。

 

・・・とこんな風に、意外と【怒り】や【違和感】という、本来好ましくない感情から出発していった方が、自分の根っこに辿り着けるものだと感じている。

 

逆に、「楽しかった!」という強い感情は、その時の環境や周囲の雰囲気によって、ただ昂奮しただけに過ぎないかもしれない。そこには何の思いも乗らない。

 

酒を飲んだら気分が良くなる人が、「なるほど、俺にとっては酒が人生を考えるうえで大事な要素になるのか!」と解釈するのが浅ましいのと同じだ。

 

もちろん、あまり快い時間ではないのだが、自分が何に【怒り】なり【違和感】なりを抱くのか、これからアンテナを張ってみてはどうだろう

 

モノサシとバイアスの衝突。

 

ところで、モノサシにはある大事な前提がある。それは、折に触れて更新するべきだという点だ。更新なき価値観は、偏屈な自我を生んで終わりであり、それは避けたい。

 

例えば10代の僕が作ったモノサシを、30代の今のまま使い続けることは、僕自身の精神が10代から変わっていないことに等しい。これはちょっと辛いではないか。

 

もちろん「無駄にお金を使わない」といった部分を変える必要は無いのだが、年齢を重ね、ステージが変われば、”今まで”の価値観では通用しないことも増えてくる。

 

そういうときには、今までのモノサシを脇に置く、あるいは完全にぶっ壊す必要も出てくる。劇的な更新が必要になるときもあるのだ。

 

「このままでいたい」という想いと、「このままではだめだ」という想いの軋轢。ややサイエンスな言い方をすれば、モノサシとバイアスの衝突だと言える。

 

このジレンマにどう立ち向かうかだが、僕はその最善の手段は「ロジック」だと考えている。感情を排して理屈で考えて、まずは答えを出すことから始めるのだ。

 

数学の文章題を解くように、問題文のヒントを使って数値を出し、そのデータでさらに情報を集め、式を組み立てて、解を出す。

 

そこには一切の感情が入らない。大好きだからsinθをぶち込むといったアホはいないのと同じである。まずはそうやって、一旦問題を解くと良い。

 

仮にそうした結果、今までの考え方や価値基準では自分が辿り着きたい場所に到達できないことがわかった場合は、躊躇なくモノサシをへし折ればいいということである。

 

例えば、僕は大学受験を志すとき、成績上昇のペースが思ったより遅く、このままでは志望校合格に届きそうもない、という段階に至ったことがある。

 

その際、自分の時間を圧迫していたのは、モンスターハンターというゲームだ。それはある種僕の生き甲斐であり、だからこそ削る努力の一切をしないままであった。

 

しかし大学合格か、モンハンの技術向上かを天秤にかけた際、ついにモノサシを折る瞬間が訪れた。僕は時間を減らすどころかゼロにして、勉強に全振りすると決めたのだ。

 

結果は何とか自分の望むものであったため、圧し折ったことがわかりやすく正解だったケースだと言える。

 

―これは単なる一例で、僕は人生で、これ以外に何度もモノサシを圧し折る場面があった。恋愛、人生設計、嫉妬、努力。それこそ、何度も、何度も。

 

もちろん折った結果、逆によろしくない状況になることはあったが、正直それを経験則として新たなモノサシを作って更新すればそれで終わりだ。

 

むやみやたらに折る必要もないのだが、ロジックで判断した結果そうだと思うなら、躊躇なくぽっきりといってやろう。

 

終わりに。

 

最近、出典は忘れたが、面白い指摘を読んだ。それは、いわゆる「心が弱い人」の特徴についてである。

 

心が弱い人、周りに流される人は、価値観や信念がほとんど全く言葉にされていないという共通点がある。

 

という話だ。そしてこれは、本当にその通りではないかと、すごく合点がいった。自分の中で判断の基準が無いから、結果として周りに流されまくるというワケである。

 

他者比較は悪いことだという風潮があるが、比較材料が全く無いのも、同じくらい不健全な話だと言える。

 

例えばテストで80点を取るのはいいことなのか、悪いことなのか。平均点や前回の数値という尺度が無ければ、何のジャッジもできないのと似ている。

 

正直、人から頑固から言われるレベルにまでモノサシを作り込むのは、常人にはまず不可能である。安心してたくさん作ってみるのがオススメだ。

 

僕も人から言われないから言ってないだけで、自分の中で使っているモノサシは何十本とあるわけで。そしてそれらは、折に触れてぶっ壊す。

 

今度怒りや違和感に触れた際は、ぜひ自問を重ねてみてほしい。そこに価値観が眠っている可能性が高いから。では今日はこの辺で。

 

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