クレミアというアイスは600円出してでも食う価値があると思っている中元です。
はい。今日は先に言うが、過去最長レベルの記事になるかもしれない。なんというか、自分が吹き込んだ文字数が、異常に多いのだ。
一体何があったのかというと、少々久しぶりだが、今こうしている間も、自分の中に、抗い辛いほど強い不安が立ち込めている。
そしてこの不安のタネを書くと、「お前はどんだけ猜疑心が強いんだ・・」と呆れられるような内容なのだが、ちょっと時系列を追って書いていく。
ただ、頭でっかちになったら嫌なので、一旦ここから先は、「続きを読む」で隠しておく。では以下、マジで暇なときにでも、ぜひどうぞ。
再会を祝すか、警戒するか。
最近、10年ちょっと会ってない同級生から、連絡が来た。とはいえ、寝耳に水という連絡でも、別にない。
元々SNS上で、僕の投稿に対して「いいね」をくれたり、「コメント」してくれたりという風に、ちょっと薄めの繋がりが1年くらい続いた後で、の話なのだ。
聞けば、「今度飲もうか🍶」とか、そういう話だった。特に断る理由もないし、知らない仲ではないため、二つ返事でOKした次第である。
―今日がまさにその当日なのだが・・。今から、本当にお前、人間不信じゃないかというようなことを言う。
急に、「何かに誘われやしないか」と、すごく不安になってきたのだ。
実はメッセージ内で、副業(サイドビジネス)という形で、新しいことを始めようと考えており、僕がその適任だと思っているという内容も添えられていた。
この時点では何とも思わなかったのに、ふとこの一節が引っ掛かって引っ掛かって、本当に急に不安で仕方がなくなってきた。
だから、ちょっと類似の事例を調べてみようとか、いざ誘われた際に断るための対策を調べてみようって風に、色んなことが手につかなくなってしまった。
すると、出てくる、出てくる。久しぶりに友達に呼ばれて行ってみたら、香水を買うか買わないかを迫られたとか。
或いは、顔を出してみたら知らない人がもう一人いて、滔々と人生訓を説かれたとか、そういうある種怖い話が次々ヒットしてしまったのだ。
すると、僕の中で問答が始まる。「今回のも、そうなんじゃないか?」という不安。そして、「いや、疑っちゃだめだよな」という自戒。
こういった対極の感情と思考が自分の中でせめぎあった結果、これを吹き込んでいる最中は心がブレブレで、ちょっとくたびれてきたところであった。
そんなときふと、気が付いた。「俺は今、猛烈な確証バイアスに陥ってないか?」と。そしてそれを起点に思考をやり直すと、狭まっていた視野がグンと広がる感じがした。
15分くらい考え続けただろうか。今、心はすごく凪いでいる。鷹揚な気持ちで、再会しようという腹も決まっている。なんか、平和だ。
そこでここからはせっかくなので、確証バイアスそのものの説明と、それにプラスして、今回如何にして確証バイアスを打開したか、つらつらとまとめていこう。
【確証バイアス】に陥ると、自分の考えが絶対に正しくなります。
【確証バイアス】を乱暴に言うと、「自分が思ったことを確認するために物事を調べていく内に、それを補強する情報ばかり目に留まり、硬直化するバイアス」だと思う。
「嫌われる勇気」という本の中でも指摘されてたが、例えば「相手が浮気してるんじゃないか?」と思った瞬間から、相手の言動全てがその証拠に見える感じだ。
「LINEの返信がちょっと遅い気がする、これは他の男と連絡を取ってんじゃないか?」といった感じで、少々気持ちが悪いが、こういうバイアスのことを指すのだ。
そしてバイアスとして残っているということは、何かしらの生存のために必要だからこそ、太古から消えずに残ってきた消せない本能っていう見方をした方がいいと思う。
お腹が空いたのを、意志の力だけで我慢して「食べない」という選択をし続けるのが、極めて難しいのと同じだ。
では、そんな最強のバイアスに、僕はどう戦ったか。まずは、「これは確証バイアスではないか?」と自問することが全ての始まりとなる。
すると、思考がきれいにひっくり返るのを感じた。「確証バイアスにハマっているなら、情報を偏って集めてしまっているのでは?」という風に。
冷静になれば、すぐに気付く。例えば、10数年ぶりに出会って、どっかの店に行っても、結局普通に酒を飲んで帰っただけというケースの方が、圧倒的多数のはずだ、と。
ある種「俺は【確証バイアス】に陥っているはずだ」という、確証バイアスの上書きである。すると、自分が立てた論理にガシガシとツッコミが入る。
よくよく考えたら、「10年ぶりに会った友達にマルチに誘われた」っていうことは、それ自体がとても美味しいネタである。
そんな上質なネタだからこそ、それを受けた人はこぞって記事に書いたり、SNSにアップしたりする。だからネット上に、そのケースの体験談が溢れることになる。
一方、「10年ぶりに友達に誘われて飯食ったら、楽しかったです。終わり」という話は、なんにも面白くない。となれば、そんなことはわざわざシェアしないだろう。
となれば、僕が類似のケースだらけだと感じたことも、つまりは思い切り偏った状態なのだから、信頼のおける情報源とは言えないだろう、というオチがつく。
・・正直、ここまで考えを進めた時点で、僕の中の確証バイアスはかなり崩れている。ただ、このバイアスは蛇と同じで、きっちり締めないとまた襲ってくる。
だからもうちょっときちんと潰しておこう。続いては、不安ということは、僕の中にそれに関する知識や経験がないということになるが、それは本当かと疑ってみた。
・・広い目線で考えれば、見ず知らずの人と飯を食いに行くのは流石に無いが、ネット上で知り合った人と魚を釣りに誘われて、平気でついてったことは何度もある。
そのときも、例えば何かしらに勧誘されるといったリスク・可能性もあったはずなのだが、1㎜もそんなセンサーは発動しなかったわけで。
この時点で論破寸前なのだが、それでも僕の中のメタが、まだしぶとく反応してくる。
「あの時は、釣りという目的が定まっていた。ただ今回は、事前にビジネスの話がくるとわかっている。状況が違うじゃないか!」
・・だから不安なのは仕方ない、というのは暴論だと思う。
正直、自分がそうかはさておき、ビジネスを持ちかけることありきで飯を食いに行くとかって、ある程度上のステージに入った人なら、日常的なことじゃないかと思う。
とあるエンターテイナーの方のブログとかを読んでいると、あまり面識がない状態でも会いに行き、とりあえず仲良くなって、一緒に仕事をしませんかと持ち掛ける、と。
そう考えれば考えるほど、やはり今回の会は、別に普通の話じゃね?と思うようになってきた。
もっと言えば、組んだら面白いことができるかもと他人から思ってもらえたということは、自分の成長の証という好意的な見方だってできるわけで。
―・・と言う風に、ここまで悶々と考え事を重ねたところで、本当にパッと、”あまりにもくだらないこと”に気がついてしまった。
それこそ、思わず笑ってしまうほど、くだらない前提。今でも少し、苦笑してしまうくらいに。
それは、こういうことだ。
「ん?自分がそういったことに誘われたとして、なんで断れないこと前提なんだろう?なんで自分が風下に立つことが前提なんだろう?」
・・・・・・・・・・・・・。
チキンすぎるだろ、オレ。頼まれたら断れない、だから頼まれたらどうしようという論理。あまりにもクソで、くだらなくて、呆れてしまった。
もしヘンなビジネスだったら、断ればいい。以上。マジでたった、それだけ。俺は一体何に悩み続けていたんだろう。本当に脱力してしまった。
そもそも、要らないものやしたくないことを断る練習は、キチンと積んでおかないと、いざ自分が独立した後、営業全てに応じる羽目になる。会社、潰れるぞ?
これは成長痛でもなんでもない。大人として、あるいは社会人として、当然のように身に着けておくべき経験だしスキルの一つに過ぎないのだ。
今回も正直、今まで勉強も経験もしてこなかったツケが回ってきただけという見方をした方が自然だと思えてきた。そろそろ自分のケツを叩くとき、ということか。
優しい言い方をすれば、斎藤一人さんの言うところの、「神様からの修行」である。「お前には断る力が足りないから」と、神からほいと渡された宿題と思えばいい。
それだけだ。何が来てもどうとでもなる。考え方次第で、王手飛車取り。彼が何を語るのかは全くわからないが、わからないことの何が問題なのだろうか、俺よ。
冷静になった今、ただ時間になるまでのんびりしておこうと、そう思うだけになっている。
―こんな風に、【確証バイアス】に嵌っていると、猜疑心が全開になり、強い不安に飲まれてしまいがちになる。
こういうときは、意識的に自分の予想と反対になった事例を探し、中和するしかない。今回も、転職などで環境が変われば、人間関係も変わるという理屈で、説明がつく。
例えば魚屋さんに就職してるときは、魚に詳しい友達を想起し易くなり、また転職してプログラマー系の仕事に就いた際は、PCに強かった同級生の顔が浮かぶのと同じだ。
そして気になったから、Facebook等で検索すると、何か面白そうなことをやっていると判明した、と。そしたら、「会ってみたいな」となるのは普通っちゃ普通だ。
もう本当に、本当に、心の底から、アホくさくなってきた。認識できればわかる。【確証バイアス】ってのは、かなりバカバカしい。
しかし思うに、認識できていない間は、結構苦しい。この場合だと、「相手を信じる」という選択肢もあるはずなのに、その情報や根拠が集まってこないのだから。
だが一番のネックは、僕が僕を信じていないことだとわかった今、確証バイアスを打ち破るための際たる条件は、自己肯定感を高めることなのかもしれないと思えている。
確証バイアスに立ち向かうためには、【最悪マネジメント】も有効では?
ここまで考えてふと気付いたが、【最悪マネジメント】という思考法も、確証バイアスに効きそうである。
この言葉そのものを知ったのは、ざっくり10年以上前なのだが、要するに「何かが不安なときは、逆に最悪の方向に振り切ったとこまで想定する」というものだ。
その上で、その状況で致命傷を負わないためには、どういった準備をすれば良いかまで、脳内でシミュレーションすること。それが、最悪マネジメントの意味だ。
これはRPGで考えると、その効果が理解しやすい。各ゲームにおいて、考えられる最悪の状況とは何かというと、ラスボスと相対することだろう。
しかし、一旦ラスボスを討伐する準備さえ完了してしまえば、それは同時に、そいつよりもレベルが低い敵全てに対する準備も完了したことに等しい。
こんな風に、その最悪の状況という架空のラスボスを勝手に自分の中で作っておいて、そいつを倒すにはどうすればいいかを考えると、心が非常に落ち着いてくる。
また、そもそも、現実は最悪なケースになることの方が絶対に少ない。冷静に指折り数えてみてほしい。しっかり備えたうえで最悪のケースになった例を、僕は知らない。
皮肉なものだが、最悪のケースは大体いつ起こるのかと言うと、大なり小なり”油断している”ときだ。問題など起こらないと高を括ったとき、神様に殴られるのだ。
そろそろ【最悪マネジメント】の一例を紹介しておく。ちなみにこの言葉を知ったのは、ひろゆき氏の著書だ。
彼の考える【最悪マネジメント】とは、相手が怒鳴ってきたらこっちも大きい音を立てて反撃するというマッチョなものもあった。
しかし同時に、それでも殴りかかられたら一方的に殴り負けないようにしつつも、被害者としてポイントを稼ぎ、裁判で勝つというものがあった。
他にも、お笑いコンビ・ずんのやすさんは、「いざという時は、ぶん殴って終わらせればいいと思っている」というのを、人付き合いの念頭に置いているという。
こういう最終手段を心の中に持っていると、確かに余裕が出てくるような実感もある。では、今僕が置かれている状況下の【最悪】とはなんだろうか。
例えば、断りきれずに商品を買ってしまったら、クーリングオフしてフェードアウトすればいいと思えてきた。
また、なんか知らないけど同席者がいた場合は、話を聞き流しつつ徹底的に酔っ払って、とっとと帰ろうかな、という具合だ。
なんだ、なんてことないじゃないか。つまり、なんとかなるってことだ。拍子抜けした。
ということで、腹も括れたし、良い感じの時間となった。いっちょ、再会を祝して、杯を交わしてくることとしよう。
―実際、どうだったの?
まァ言ってしまうと、何事も無かった。ただ、ちょっと「おや?」と思う言い回しはあったが、それも確証バイアスによる歪みじゃないかと考えている。
自分の猜疑心の強さに呆れる気持ちもあるが、無邪気に信じまくることの危険さを自分のメタに教わった気もしており、つまり学んだというハナシなので万々歳である。
一応LINEも交換しておいたが、当たり障りのないメッセージのレスを送りあって、今は沈黙している状態だ。まぁ、あった直後はこんなものだろう。
ということで、確証バイアスに嵌ったときの厄介さと、その対処法、そして気付いてしまえばあまりにもバカバカしいということを記事にまとめてみた。
なんかいたずらに時間を奪うだけのような文章になってしまった気もするが、もう疲れたので、この記事はここで終わりにする。
アデュー。