今日生徒から突然、「目のクマがヤバい」と指摘された。クマがヤバいとは、眠れていないことの代表的な証拠である。でも僕は、毎日7時間、意識して寝ている。
だから、「いや、気のせいだよ」と返しておいた。その場は、もうそれで終わり。しかしそこから、お決まりのネガティブ思考が、僕の中で始まってしまった。
「お前が自覚していないだけで、確実に疲労が蓄積し、それが表面化しているだけじゃないのか?」「頑張りすぎてて潰れる寸前なんじゃないのぉ?」
頭の中で、サイコなメタが反響する。今までなら、その声に呑まれ、自分で自分のメンタルをイジメるような思考が始まっていただろう。
だが今回は違った。むしろ、そのとき無意識に抱いた自分の反応に、僕は驚いた。
「おぉ、また俺の中の不安感がなんか言ってるわ」と、今までになくドライに考えることができていたからだ。そして不安な気持ちは、そこから秒で凪いでしまった。
―振り返れば、この2022年は、過去一番、自己内省を深められた年であった。これは言い換えれば、今までで一番深く、自分という人間を理解できたということでもある。
そうすることで、自分自身の感情や、降りかかる出来事を、一層他人事として切り離すことができるようになった気がする。
いつから僕は、こんなに心を意識的に、穏やかに保てるようになったのだろうか?純粋にそれを知りたく思っている。
ということで年の瀬であるが、僕と不安感の付き合いについて、20代の頃を起点として振り返ってみることにしよう。何かヒントになるフレーズが書けるかもしれないし。
まぁ、軽い気持ちで読んでいただければ、幸いである。
不安は消さねばならないと思っていた頃。
20代の頃は、とにかく地の性格をぶっ壊して、意識的にポジティブにならねばならないと、自分を変える方法を探し続けた。
ただその頃は、とにかく知識が無かった。腰を据えて、建設的な考え事をするという器も無かった。だからその愚かさは、一度心を壊して初めて、学ぶことになったのだ。
圧し折れた心が運よく立ち直ってからは、僕は自分の本心をもっとしっかり聞こうと、自己流で内省を深める真似事をするようになった。
序盤の考察の薄っぺらさは、このブログ黎明期の記事を読み返すとよくわかる。それらを読み返すと、恥ずかしく思う。稚拙な表現を、ではなく、的外れだから、である。
ただそれでも、段々と続けていく内に、自分の思いを言葉にすることができるようになっていった実感はある。当初はそれが新鮮で、嬉しかったように思う。
だがそうやって心の声に耳を傾けるようになってしばらくすると、あることに気がついた。自分のメタが、とんでもない呪詛を吐いていたのだ。
それは嫉妬だった。僕は我ながら、高校生の頃から嫉妬に対し鈍感だというおめでたい勘違いをしていたのだが、実は内なる声を拾えていないだけだったのだ。
自分より高い能力を持った存在が、ジャンル問わず気になって仕方がない。そしてそういう存在は、自動的に僕の価値を毀損するのだと思うようにさえなっていた。
不安だから頑張る。すると時には結果も出る。しかし、出ても、更に高いレベルで僕が出した結果の上位互換を果たした人が、気になって仕方がない。
英検準1級に受かったときも、1級があることが気になった。1級に受かったときも、自分より高いスコアで、若い年齢で受かった人が気になった。
なぜ、自分はこうも自分に厳しいのだろうか。僕の心から不安が消えないのは、なぜなのだろうか。思えば、その問いを始めるべき好機はここだった。
しかし本格的にその問いを自分に向けられるようになったのは、そこからさらに1~2年悩み、その後のことだった。
過去何度も紹介している【観察力の鍛え方】をきっかけとして、【観察】という行為を行うようになったこと。これが最大のきっかけだ。
そしてそこで得たことをヒントにすることで、10年以上わからなかった不安の正体が、急激に掴めてきたのだった。
不安の正体。それは・・・。
不安の正体を知りたかった僕は、「科学的」な観点からそれを理解しようと、20代後半は勉強を重ねてきた。
「不安」なとき、どんな化学物質が脳内に噴出しているのか。実験で証明された、不安を鎮める方法は何か。サプリメントも併せて、必死に情報を集めて、どんどん試した。
もちろんそれで効果があるサプリもあったし、例えば筆記開示など、今でも武器にしている施策はたくさんある。瞑想という方法をきちんと知ったのも、このときだ。
しかし、この頃の僕には完全に盲点で、認知することもできていなかったことがある。
それは、これらはいわば、付け焼刃の対症療法であるということだ。
このことは、腰痛の治療を考えるのと、とても似ている。僕自身も腰痛持ちなのだが、
なぜ腰が痛くなるのか、実は原因がわかる方が稀という具合らしい。
ストレスが原因なのか、それとも骨格の歪みが原因なのか、日頃の運動によるケガなのか。必然、わからないまま、痛みを鎮める方法を次々試すこととなる。
ただ、これが根本的な解決には繋がるかどうかで言えば、やはり若干ズレていると思う。痛みを抑えただけなのか、それとも原因を除けたのか、やはり分からないように。
原因がわからないまま対処するとは、こういうことなのだ。今思えば僕は、不安の正体を掴むという建前で、そこから全力で目を反らしていただけなのかもしれない。
・・やはり偶然なのだが、【観察力の鍛え方】を読んで以降、今年はとにかく真正面から、自分の思うこと、感じることと向き合った。
具体的には、喋ったり書いたり、とにかく言葉にしていったのだ。違和感があればさらに考えて、言葉を探したり、逆に辞書で細かく理解していったり。
その過程で、己の心にしっかりと向き合う思想・学問・人達の言葉を基に、さらに沈思黙考するということもやった。仏教や哲学、心理学に興味を持ったのも今年の話だ。
そうやって、自分が胸に秘めていることを観察し、膨大な量の言葉に触れながら、自分の中に言語化して落とし込むうちに、不安の正体が、遂に見えてきた。
これもまだ仮説なのだが、31歳の今、僕にとっての不安の解釈とは、以下の通りだ。
「無知」か「他者と未来への恐れ」。ただし、いずれも、持続はしない。
・・・やはり、一言で伝えようとすると、無理がある。だから引き続き、なぜ僕が、不安の正体をここに見出したのか、その理屈を書いていく。
知らないから不安なのか、考えても仕方ないことを考えるから不安なのか。
さっき書いたことの繰り返しになるが、不安とは「わからないものに注意が向いている状態」である。これを知ったときから、自分の不安について、半分は説明がついた。
例えば僕は、杞憂甚だしいのだが、「難癖付けるタイプの客が突然来たら、一体どうしたらいいのか、武器を持っていない」という不安を抱えていた。
だからそれについての事例を紹介した本を読んで、そこで引っ掛かった事例をさらに弁護士の方のQ&Aを見るなどして知識を得た、というのが最近の話。
そうやってある程度の情報や他者の経験を知るうちに、先ほどの不安はかなり薄らいできている。
さらに図々しいことに、「実際に試してみたい方法があるから、むしろ難癖こないかな」と変に高揚する気持ちさえ湧き出ているほどだ。
こういう風に、【無知】に対する不安は、上手くシグナルとして察知し、勉強へつなげれば、かなり強いモチベーションへと転じることが可能だと、今は捉えている。
不安と好奇心は表裏一体。ここを今以上に意識して、効率的に乗りこなすのが、2023年の課題というより展望だと感じている。
―一方、それだけでカタがつくほど、不安は単純でもなかった。自分の無知が原因ではないパターンの不安もあると、自覚していたからだ。
例えば、「こういう報告をしたら、上司は怒るだろうか、またはしごを外されるだろうか」という不安。これは、いくら知識を吸収したところで、解決はしない。
いわば、他者と未来を対象とした恐れである。【無知】と違って対象は明確だが、自分がコントロールできる埒外にあり、だからこそ不安感を抱くわけで。
ここについてはまだまだ勉強や観察を深める必要があると考えているが、とりあえず現時点での扱い方として、2つの方法を試している。
それは、「それについて考えるタイミングを決めてしまう」ことと、「最悪のケースが発生した際どうするかを考える」ことである。
まず前者については、自衛隊の考え方を参考にした。自衛隊の考え方の原則は、とにかく”一点集中”なのだという。
だから考えるべき、決断するべき対象が現れたら、いつ決めるかだけを決めて、それまでは娯楽などで不安を反らし、時期が来たら一気に決めるのだという。
漠然と毎日だらだら考えると、無駄にエネルギーを食う。このことは非常に合点がいくので、なるほど、と思った。今のところ、この考え方は僕にかなり合っている。
そしてもう1つは、いわゆる「最悪マネジメント」だ。ちなみに考え方自体は、仏教でも説かれているものである。
さっきの例だと、「激怒された上にはしごを外される」という未来を考えて、それの手を考えるという感じだ。
こうなった際の行動は、冷静に考えればかなり簡単である。さらに上を巻き込む、自分の独断で進める、解決したらしっかり見下す。こんな風に。
勉強とはまた違った対処法が必要なだけに、練習も観察も比較にならないくらい必要なのだが、それでも前進している感覚があり、純粋に思索が楽しいと思っている。
―ただ結局、不安というものを最も簡単に制御するコツは、あるがままに任せることかもな、と考えている部分もある。
例えば【不安】という言葉をイメージするとき、不思議と暗闇の空間ではなく、何か黒い霧のようなものを想像しないだろうか。これはかなり、示唆に富んでいる。
雲を例に取ると、僕は普段のメンタルは雲そのもの、そして不安が気になるときは、雲の端っこの変化している部分に意識が向いている状態だと考えている。
言い換えれば、普段のメンタルは大海であり、不安に囚われているときは、浜辺に打ち付ける波が気になっている、と解釈してもいい。
万物は流転する。諸行無常。一瞬荒れたり、流動したりしても、結局は元に戻る。空に浮かぶ雲や、大きく広がる海のように、結局また、戻るのだ。
その教えが腑に落ちて以来、不安に「囚われる」ことはかなり減った。天気や海が荒れているようなものならば、落ち着くまで他のことをしていればいいだけだ。
結局、コントロールできようができまいが、大体の不安は放置しておいて差し支えない。その程度のものなのかもしれない。
終わりに:2023年の【不安】について。
2023年。実はここで、僕に転機が訪れることがほぼ確定している。詳しくは書かないが、上のポストが空き、今度こそ正式に辞令が出たのだ。
ただはっきり言うと、前任者が割と泥舟に変えてしまった後の交代であるため、僕はいきなり、立ち直しに注力することになる。
もちろん不安だが、今はまだ悩むときではない。それは来年の春先から真剣に悩めばいいことであり、現在はそれに必要そうな知識を搔き集めている段階である。
さて。そんな不安との付き合い方について、2023年はどうアップデートしていくかだが、実はもうそれについては目標を決めている。
共有することである。僕が不安に思っていること、皆が不安に思っていること。それを全てさらけだし、チームとして考えたり、あるいは無視したりする。そうありたい。
自分の悩みを自分で抱え込んで心を折るとか煩悶するとか受け流すとか、そういうフェーズはそろそろ終わりだ。僕は安心・安全が担保されたチームを作りたい。
自己顕示と解釈されないよう、自分の胸の内をさらけ出すには、どうすればいいか?
2023年の正月前後で、向き合ってみようと思う。
では、今日はこの辺で。あと多分、良いお年を。