僕はネガティブだけど、それなりに充実した人生を生きたいと思う。

「ネガティブ」で片づけず、自分の観察を続けたい。

今日もまた、”こんなよい月を一人で見て寝る”。

僕は結婚を考えていない。子供嫌い+性嫌悪+(たぶん)アセクシャルというステータスを兼ね備えた以上、それはむしろ僕の人生にとっての最悪手だとさえ考えている。

 

それ自体に後ろめたさも悔しさも微塵もないのだが、時折、「この人なんか不思議と興味あるな」と思う女の人を見かけることがある。

 

男子中学生みたく、エロいからとかそういう理由ではない。だが、「なんか話が合いそう」という直感を、時折誰かしらに持つことがあるのだ。

 

しかし、「実際に話す機会」なんて来ないことを、僕は潜在意識で理解している。最近はもう、恋だの愛だの、そういうのが少しでも乗ったもの全てに食傷気味だ。

 

今日もまた、”こんなよい月を一人で見て寝る”。そして僕は残りの人生ずっと、多分そうなんだろうなと受け入れている。

 

そんな謎のエッセイ、以下どんどん続けていこう。

 

 

ア・キ・ラ・メ・タ!!

 

僕の住んでいるエリアは、そこそこに田舎だ。僕が元々いた県も「都会な田舎」と揶揄される場所ではあるが、そこと比べても、なるべく良い響きで言えば「牧歌的」だ。

 

それが直接的な原因なのかはわからないが、僕は僕と同年代の女性と、ここ2年くらい全く会話をしていないことに、ふと気が付いた。

 

生徒はさておき、働いている大学生講師も、最年長でも僕よりも9~10個下だ。そしてそこからガポっと飛んで、生徒の保護者となれば、大体40~50歳、という風になる。

 

僕はよく、この不思議なバランスを、「一次不等式を数直線に書いたような状況だなぁ」と感じている。我ながらすごく気に入っている比喩でもある。


さて。その上で、僕が最近「なんかこの人興味あるかも」と直感で思った人を思い返してみると、すごく面白いことに気が付いた。

 

それは、僕と年齢が同じか、±1~2歳しか変わらないという点だ。その人のプロフィールの一切を知らないのに、無意識に僕は、同年代の人に惹かれるものを感じていた。

 

―この傾向は、今の自分において顕著であることに、今気が付いた。例えば20代の頃に30代の人が好きだったかと言われれば、そんなことは無かったわけで。

 

最近毎日観ている「バキ童」氏の動画が凄く心地いいのも、多分世代がかなり近いからである。出てくる思い出の大体を、僕も共有している。

 

それを考えると、僕は今、性別はむしろどうでもよく、単に近い世代の人と繋がりたいという、そんな潜在的な欲があるのではないかと思っている。

 

今の子は「どのプリキュア観てた?」というやり取りで、年代が大体わかる。そんな僕が観ていたのはおジャ魔女どれみだ。ここから既に、噛み合わない。

 

とはいえ、僕は単に思い出話をする相手を欲しているわけじゃない。大体同じような価値観や技術の変遷を経験した人たちは、現代においても、出力するものは大体似る。

 

そして年齢が近ければ、大体同じような段階を踏んで社会で揉まれてきていることから、悩みを共有するのもすごく手間が省ける。共通言語が多いことは、とても楽だ。

 

となれば同級生を軸に、それこそ異性を探せば色々捗るのではないかと、自然と帰結してくるように思う。だがここから、僕のガチで捻くれた思考が鎌首をもたげるのだ。

 

最近これまた実感していることだが、僕は異性間の恋や愛に関すること全てにアレルギー反応が出つつある。様々な意味で、耐えることができないのだ。

 

例えばショート動画で、「こういう仕草が見れたら好意のサイン」というのが流れてきた際、僕は即座に「ただしイケメンに限るを忘れているぞ!」と思ってしまった

 

「俺はその定義に当てはまらない側だもんな~」と、卑下するわけでもなく、事実として受け入れるという感じ。自分が好意を寄せられることなどあり得ないという確信。

 

誰かが誰かに片思いをするストーリーも、見ていて胸焼けをしてしまう。世界と身の丈を知らなかった頃の自分を思い出して、胸を掻きむしりたくなる

 

異性に対し・・・・デートをしている自分。いっちょ前に良いことを言う自分。プレゼントを贈る自分。野原ひろしみたいな生活を送っている自分

 

そのどれも、想像するたびに荒唐無稽だなぁと鼻で笑ってしまう。学校にテロリストが侵入してくる妄想と同じくらい、そんなの起こり得ないと心底考えている。

 

僕のことを素敵だと言ってくれる人がいるかもしれない。だが僕は、その人のことをきっと、こう思う。相当な変わり者?人を見る目が無い?勧誘?どれだ?

 

―そんな僕自身だが、10代・20代の頃はまだ、自分の素質と、努力の持つ可能性を、無条件に信じていたところがあるように思う。いい意味で青かった時期はあるのだ。

 

得意な勉強を頑張って大学に合格した後、僕はフラれた。だから大学生活を恙なく送りながらも、オシャレや振る舞いなど、その辺りにも目を背けず勉強を重ねた。

 

その上でまた、僕はフラれた。社会に出て、稼ぎを得て、その上でナンジャカンジャを諦めずに磨き続けて、またフラれた。それは大体8年前の話に遡る。

 

フラれた夜の帰り道、その光景をまだ覚えている。明かりのほぼ無いアパート群。曇り空だったので、星も見えない。油断すれば溝に落っこちそうな闇が僕を包む。

 

どれくらい時間が経ったか、もうわからない。頭の中に渦巻く後悔や疑念が混ざり合って段々と消えていくまで、僕はひたすら足を止めなかった。

 

無心になってしばらく経ったときふと、僕はこれまでの自分が抱えてきた価値観そのものに、強い疑問を抱いた

 

「自分の人生に多分要らないものを追いかけ続けて、ここまで傷ついて、一体自分は何がしたいんだろう?」と。

 

人生という資本をそこに投じて、今までリターンが得られたことがない。そのことを悟っただけじゃなく、仮に報われたとして、それは過去の清算になるのかも疑問だった

 

高校生の頃、どこかで聞いたのか、それとも自分で考え付いたのか、出所は完全に忘れたが、とにかく心にグサッと刺さり、そのまま残っている言葉がある。

 

素敵な人は確かにいるかもしれないが、いても俺には絶対に振り向かない。だって、その人は、素敵な人なんだから

 

―最後にフラれるという経験をしたあの夜。僕は人生の選択肢の一つに大きな区切りをつけた。僕というポートフォリオから、恋愛を消したあの夜

 

思うに、もっと早く気付くべきだったとも感じる。性嫌悪の症状は中2から出ていたし、恋愛感情が全く理解できないのも、今に始まったことではないじゃないか、と。

 

CLANNADを全話観た影響で、その体験に憧れたこと自体が、一つの大きな過ちだったのかもしれない。あれはエンタメであり、割り引いて楽しむべきだったのだと。

 

後悔先に立たず。僕はこれから誰かに恋をすることはないだろうし、幸いにも誰かから恋をされるような傑物でもない。干渉しない限り、僕のいる世界は安穏だろう。

 

今日もまた、”こんなよい月を一人で見て寝る”。僕の寿命はあとどれくらいで尽きるかはわからないが、毎日こうなんだろうなと、僕は受け入れている。

 

では今日はこの辺で。