今、前々から気になっていた【仮面の告白】を読んでいる。まだ80ページ目くらいなのだが、内容の激しさと赤裸々さ、そして文体の凄さに、ただただ圧倒されている。
「自分自身を生体解剖する」という試みの下で書かれた小説で、その自己観察の深さと鋭利さは、僕如きでは足元にも及ばないほどの気迫がある。
そしてふと、「恋愛遍歴」「性的嗜好」に関する問いを自分に差し向けてみると、意外でもなんでもないのだが、僕の内省が全く及んでいない部分があることに気付いた。
僕はよくこのブログでも「性嫌悪」の方には触れているのだが、自覚としては同じくらい強い「アセクシャル」の方には、あまり触れてこなかったのだ。
その理由は、「恋愛対象が男性の男性」「恋愛対象が女性の女性」「性別を問わず恋愛対象になる」のいずれとも性質を異にするから、に他ならない。
アセクシャルとは、誰に対しても”等しく”「恋愛感情を抱かない」こと。これはどうも、自分の思想をただ表明しただけのような感じがして、なんか後ろめたいのだ。
だが今、こうして【仮面の告白】に影響を受けている今、これまで見てこなかった観点・切り口から自分を振り返るのも面白そうだという予感がある。
てことで今日は、僕がそのアセクシャリティを自覚するまでの話を、他のアセクシャルの人の言葉を敢えて借りぬまま、書き並べてみる次第である。
- 「お前の好きな人って誰なん?」
- 「好きな人」を永遠に認識できないと悟った夜、そして今。
- 「好き」と「恋」を分かつ壁。
- フェティシズムとオニヤンマ。
- 幻が滅して幻滅と書く。そして幻滅とは、恋心の消滅と同義なり。
- 終わりに。
「お前の好きな人って誰なん?」

中学生の頃、聞かれるたびに苦痛だった質問がある。それは、「好きな人誰なん?」というものだ。これは、自分の秘密を公開したくなかったから、ではない。
その質問自体を上手く理解できなかったからだ。「好きとは何だ?尊敬のことか?それともただ、目鼻立ちが整っている人の名を言えばいいのか?」という風に。
自分にとって要領を得ないことは答えられない。全く興味のない玩具が並んだ一角に連れていかれて、「好きなのどれ?」と尋ねられるのと似ている。
答えられない僕はそいつらからすれば「つまらないやつ」であり、次第にその質問さえされなくなっていったのだが、そのとき覚えた違和感は、あの日のまま残っている。
「好きな人って、なんなのか。」今思えば、自分事なのに、答えがすぐには見つからない命題に遭遇したのは、このときが初めてかもしれない。
例えばテレビに映し出される水着姿のアイドルを、そう思おうとしてみた。ある意味過激な恰好ではあるが、どうしてもその印象に、数秒で飽きる自分が居た。
夢にまで出てきて、思春期特有の持て余したエネルギーを悶々とさせる・・・なんてことは一度もなく、そういうファッションなんだなー、という印象に直ぐ収まるのだ。
時には漫画に出てくるキャラクターを、「好き」と思おうとしてみた。その当時から、二次元のキャラクターに恋をする友人はいたので、可能性はあったのかもしれない。
だが、他の人が覚える胸の苦しさも、何かしらの昂ぶりも、僕は覚えた記憶が無い。ワンピースを読んでもNARUTOを読んでもガッシュを読んでも、それは同じだった。
「好きって、なんなん?」と、何度か別々の友人に尋ねてみたことがある。そのときの返しは決まって、「もっと自分に正直になれよ」であった。
いないなんて、それはただの”嘘”で、僕は心に、蓋をしているだけなんだと、異口同音にそういわれてきたので、世間でいう満額回答は、それなのだろうと諦めた。
では、己を直視すれば見えてくるのが、「好きな人」とやらなのだろうか。当時はここまで堅苦しい内省をしたわけではないが、疑問ばかりが膨らんだものだ。
―ここで、僕が”人と違う”と強く思うに至る、ある事件を思い出す。中学を卒業し、高校に上がろうかという頃、僕に一瞬だけ彼女ができたのだ。
僕のどこかを魅力的に感じたようで、思いを告げられて、そのまま交際ということになった。確かに嬉しかったが、その何倍も、僕は困惑という感情を強く覚えてしまった。
無理もないが、その関係は1ヶ月で終わった。フラれた際は戸惑ったし、理不尽な怒りも少し覚えたが、今思うのは罪の意識だ。そして同時に、自分に恥を感じている。
その子は僕に「好きな人”らしさ”」を求めていた。もっと言えば、「好きな人とやらの偶像」を演じることを求めていた。その当時の僕は、それが察知できなかったのだ。
デートへ誘う。手を繋ぐ。マメに連絡を取る。好きだと伝えてあげる。思い出をたくさん作る。時には喧嘩をして、時には愚痴を言い合う。これが「交際」らしい。
そのどれであっても、それを再現している僕を想像すると、どうしてもただならぬ違和感を覚えてしまう。言葉を選ばずにいうと、”気持ちが悪すぎる”。
他の人が、なぜ血眼になって、モテる偶像を必死に演じてまで、彼女や彼氏という間柄の存在を求めるのか。僕には全く理解ができなかった。
もっとも、これは酒を飲んでも酩酊できない人が、決して酒を求めないのと同じような話に過ぎないんだなと、今なら納得しているけれど。
・・・そんな風に拗れた自分を自覚しつつあった僕だが、そういう悶々とした悩みに強烈な【答え】を突き刺す事件が、実はもう一発訪れている。
事件が起きたのは高校3年生の頃。実はこの時分、頻繁にメールを送り合う(多分向こうは優しさから僕に構ってくれていただけだが)相手がいた。
その返答の面白さ、やり取りの感じ、送るときに感じる緊張、届くまでの時間の長さ、通知を告げるバイブレーションの一つ一つに、僕は楽しさを覚えていた。
「この快さが【好き】なのか?」―この当時の僕は、こんな取り返しのつかない勘違いをし、それを信じてしまった。だから、それに相応しい行動を起こし・・・。
・・・フラれたあの日のことをまだ僕は覚えている。3月末、晴れ渡った河川敷で、涼しい風が通り抜ける爽やかな昼下がりの中、僕は独り、草むらの上に座り、沈んでいた。
まだ開花したばかりの植木やタンポポが眩しい牧歌的な光景を見ながら、僕は何を考えていたか。想像に難くないが、徹底的な自責である。もはやそれしかありえない。
断られたことに対しても勿論だが、今思えばこのときも僕を支配していたのは、相手に対する強い罪の意識と、己の勘違いに対する怒りにも似た恥だ。
このときの自分を思い出すと、同情の言葉なんてくれてやれない。面罵したい気持ちしかないし、あの日の僕も、それの方が下手な同情よりもよほど救いになったと思う。
「お前が勘違いした結果、自分勝手な振る舞いで、相手に心底嫌な気持ちをさせたという罪の意識が、一生ついて回るんだぞコラァ!」・・そう言いたくて仕方がない。
仮に、「好きな人誰なん?」という問いを当時の沈んだ僕に尋ねたら、きっと「そんな風に他者を評することなんて、俺には許されてないよ」と返答するだろう。
厨二らしい捻くれた構え方故ではなく、きっと本心で。なぜなら、今も強くそう思うからだ。
「好きな人」を永遠に認識できないと悟った夜、そして今。

大学入学後も、僕は「好きな人」の理解に苦心していた。相変わらず「好きな人」の具体を尋ねられても、適当な名を返すのが関の山であった。
だから、見方を変えた。人が言う「好きな人」とは、その人のことを思うといつでも胸が高まる、憧れとエロスが混ざった何かなんだろうと仮説立てたのだ。
しかし僕は、そういった「エロ」を嫌悪する特性が備わっている。それゆえ、僕は僕用の「好きな人」の定義をこさえることがまず必要だと確信したのだ。
当時、僕は大学生としての嗜み、あるいは一人前の大人になるための儀式として、誰かを好きになることを一種の通過儀礼のように感じていた。
彼女の存在はさておき、好きな人さえいないというのは、どれだけ寂しい人生を送っているのかと人が驚くほど虚しいことだという解釈は、このときに植え付けられた物だ。
今なら、「へへへ」と頭を掻きながら、内心では「ほっとけよ」と毒づける。しかし当時は、自分”だけ”が恋愛なるものを満喫できていないことに、強い焦りを感じていた。
同じ部活の女子部員や、近くの部室にいる異性、果ては学部ですれ違うだけの女学生を、僕は「誰なら好きになれるだろう」という失礼な目線で観察していた。
その時点で既におかしいと、今なら気付ける。僕は「惚れる」を、理性の力で狙って起こせる、とでも思っていたのだろうか?
ちなみに、いわゆる一目惚れとは、究極のエロス的魅力を体現する人に対して抱く、強い感情であるという。確かに中学生男子は、しょっちゅう一目ぼれしている気がする。
ヘンに高尚なことを説かれるより、単に性的にドストライクというそれだけのこととして、この現象を説明してのけるこの理論の方が、僕にとってはとても腹落ち感が強い。
そしてこの大学生という時期、周りとの交流を通じて、僕はどうやら人(主に同年代の男)とは性に対する価値観が異なるということを自覚するようになった。
今でもそうなのだが、例えば僕は胸が大きい人が苦手である。要は「エロス」な魅力をどぎついくらいに放出している人が、どうも相容れないのだ。
フェミニンを通り越した、性的に露骨な仕草も格好も、どれもこれも好きではない。だから風俗はおろか、キャバクラに行ったことも全く無い。
・・・これを盛んな人に話すと「とんでもない!」と言われることもあった。だが、嫌なものはどうしても嫌なので、コントロールは不可能。だから何もできなかった。
その後、大学生活の最中、不慣れな合コンに行くなどの荒療治にも取り組んだが、「この人が好き」という感情は抱きも抱かれもせず、僕は卒業し、社会人となった。
仕事さえ始まれば、そんなことに思いを巡らせる暇も体力も無かった。気が付けば20代も折り返す年齢にありながらも、彼女も好きな人もいないまま、僕は過ごしていた。
「大袈裟だけど、これが自分の定めのようなものなんだろう。」―ゆっくりと、そう受け入れようという気持ちが、段々と強くなっていた。
24歳、25歳、26歳・・。年を重ねるごとに、時針の如くゆっくりと、僕の心の中のメーターは動いていく。
時には諦めたくないという気持ちがふっと湧いてそれを巻き戻したが、抵抗は一瞬で、そして些細なものだった。
「こんな風にして歳を重ねながら、僕はゆっくりと心を決めるんだろうな」と、当時の僕はどこか鷹揚に構えていた。時間切れになる前に自分が変容することも望みつつ。
しかし、運命はやはり面白い。僕を振り切れさせたのは、ゆるやかな時間の経過ではなく、人生にぬたりと隠れていた、とどめの一発だったのだ。
26歳の頃だったと記憶している。僕には当時、”話が合う”女の子が一人いた。どういう経緯かは忘れたが、デートもどきの外出を二人で楽しむこともあった。
そのコースは月並みであり、例えば動物園、或いは博物館といった、静かで時間の流れが遅い場所だった。異性と居て平和を覚えたのは、初めてのことだったかもしれない。
その子は特に歴史に造詣が深かった。僕も知らないほどの面白い知識を持っていて、僕も相手が知らない逸話を知っていて、それを相互に交換し合う。
そんな他愛のやり取りを―いや、他愛のないやり取りだからこそー心の底から純粋に楽しいと、僕は素直に思えていた。
―だから勘違いした。僕は「これが、好きということか」と思い、「じゃあ、告白しないとなぁ」と思ったのだ。いや、思ってしまったのだ。これは明白な”過ち”だ。
僕にとっての告白はやはり、自分が持つ恋心を打ち明けて、友人から恋人へ関係を進歩させようという意思表示をし、相手に判断を委ねる・・などというものではない。
単に、新学期に初めて出会った人に対し、勇気を出して話しかけるようなものだ。「友達になろうぜ」という意図を伝えるだけ。儀式的な意味合いは皆無だ。
そう思い、なるべくポップなトーンと、カジュアルな場所でその旨を伝えたつもりだったが、やはりうまく・・いかなかった。関係性には罅が入り、修復しないまま終わった。
―その夜の光景は、今でも鮮明に覚えている。星一つない闇空の下、明かりもまばらなアパート群を一人歩きながら、18歳の時にも感じた罪と恥の意識を反芻していた。
結論として、何を得たか。「俺は人を好きになれない」ということ。これに尽きる。同時に、好きなんて評価を与える資格がそもそも無いことも、完全に納得するに至った。
その悟りを得てから、今現在で8年が経過している。あれからもいくつかの出会いや好機、紹介や環境の変化を経験してきたが、その結論に揺るぎはない。
結晶が長い年月で硬度を増し、同時にその形状が洗練されていくかのように、僕の中に生じた確信は、その強度と存在感を増すばかりである。
では、確信を得た結果として、そこからの人生に何か悲しい出来事が追加されたのだろうか。実を言うと、特にない。
むしろ、色々と捨てたことで、結婚における離婚、出産における死産、成長における離別、交流と衝突、合格と不合格、そういった陰陽ごと人生から消えたと思っている。
子供が欲しいのに性嫌悪症だとか。愛する人が欲しいのにアセクシャルだとか。そういう相反する感情があると、僕はもっと納得までに時間と労力を要しただろう。
だが、これは神様に感謝なのだが、僕の性嫌悪症とアセクシャルは、綺麗に同じ一直線上に並び、お互いが補い合って、ある種の完璧さをそこに湛えているのだ。
あたかも、僕をどこかへ一本道で導こうとさえしているようだ。そして僕の人生は、そうやって枝葉末節を徹底的に切り落としたものでありたいと、すごく思う。
例えば愛する人と出会い、子を残せば、その人の人生は扇のように展開し、発散していく。こういうモデルの人生の方が、一般論として適当だろう。
だが僕は、それまで受け継いできたバトンを全て落し、或いは他の人に託し、それまで発散してきたものを収束させるような人生を送りたくて仕方がない。
こう考えると、僕の人生の一大テーマは、【一話完結】みたいなものになるのではないか。不思議とそんなことを予感している。そして、そうありたいとも思っている。
「好き」と「恋」を分かつ壁。

【仮面の告白】を読み進めるうちに気付いたことがある。それは、「好きであること」と「恋をしていること」の間には、何か決定的な違いがありそうだということだ。
このセリフは、女性の言動を都合よく誤解し、好意があると勘違いした男性を嗜める際かなんかに、よく言われるものだ。好きと愛を同一に考えるのはキモい、とも言う。
さて。やや過激な下ネタになってくるのだが、先の小説で「私」は、時折自分の恋心を自覚するシーンが登場する。
そしてその場面と大体セットになっているのが、ērectiōなのだ。(詳しくは割愛)真意は判らないが、僕はその反応の有無に、好きと恋の違いがあるように思えてならない。
恋とはどうしても、性愛の関係がそこに伴う。それが不要というのなら、端から友人という間柄で良いためだ。友人を恋人に昇格させる鍵が、僕は性愛だとさえ思っている。
それを踏まえても、「私」が宗教画や同級生、そして悲惨かつ美しい妄想に対し、都度恋心のような激しさとērectiōを起こしているのは、至極納得のいく話である。
―さて。ここから先は親しい友人にも話したことがない、というより今日の今日まで全く自覚が無かったことなのだが、せっかくなのでこのまま言葉にしておく。
僕は人生において、生身の人間に対しērectiōしたことが、一度も無い。もっと言えば、目の前に存在し、同じ世界に居る人にそうなったことが、本当に一度も無いのだ。
そうなってもおかしくない場面なら、多々あったはずだ。例えば水泳の授業、浴衣姿、ラッキースケベ的な展開。しかしそれらに何かの刺激を覚えたことは、一度も無い。
僕が「エロい」という感想を持つものは全て、画面やページの向こうにいる。僕とは時間軸も舞台も次元も何一つ共有していない対象にしか、僕は反応を得られないのだ。
そして非常に稀有な出来事として、僕がエロスを感じた人に瓜二つな存在が目の前に現れることがあったとしても、僕は”それ”にエロスを覚えたことは、やっぱり無いのだ。
これはなぜなのか。いや、それ以前に、これは一体、なんなのか。目の前に見ることができて、話すこともできる、いわば干渉ができる相手に、僕は恋をしない。
あらゆるフェティシズム的な魅力を持っていようとも、僕の眼前に存在するというその一点だけで、その全てが無になり、途端に冷めてしまうのだ。
【金閣寺】には、柏木という人物が堂々と「愛していない」と美人に吐き捨てる場面があるのだが、僕は哲学のある彼とは異なり、僕固有の本能として、そう言う気がする。
生物の反応として「恋」に必要なものを、僕は僕が干渉可能な存在に決して抱かない。これは恐らく、同じ次元・時間軸に在る存在全てに対して、そうだ。
逆に言えば、それらを異にする存在に対してなら、僕は「恋」を”する”ことはできなくもない。だがそれが僕のいる次元に来た瞬間、せいぜい「好き」が限界となる。
しかしさっき僕は、二次元のキャラクターに恋をしたことは無いとも述べた。自分で論を並べながらも、同時に強い矛盾も感じている。
この矛盾とどう折り合いをつけるのか。それともこれらは矛盾しているように見えて、実は同居が可能なのか。はたまた、同じことを違う側面から見ているだけなのか。
或いは、それを逆手にとって、生身の人間を別次元にいる者と捉え直し、それに対して「恋」をするということは、可能なのか。だがこれは、かなり疑わしくも思う。
これには原体験がある。昔、思春期の男子なら誰しもがやるような妄想を、僕もやってみようと好奇心で試してみたことがある。確か14歳の時分だと記憶している。
それは、クラスのかわいいとされる子を頭の中に召喚し、自分が念じた通りに動き、話し、着替えるというイメージを愉しむという、つまり結構悪趣味なあれだ。
早熟なスケベ同級生は、それを毎晩の楽しみにしていた。そこまで楽しいならと、僕は特に深く考えず、就寝時の暇な時間をつかって、実際にやってみた。
だが、そもそも誰をイメージするかが一向に定まらない。無理矢理適当に選んだ人を頭に浮かべてみたが、それをどうしようという気が全く起きない。
全く面白くないので、ベッドの中で数分考えただけで、すぐに止めてしまった。一番性に対し貪欲な年頃でこれなのだから、どこか絶望的な想いさえある。
これを書いている今も、試しにやろうとしてみたが、やはり数秒で気持ちが萎えるのを感じる。それどころか、そんなことをしようとした自分に恥を感じる始末だ。
このエピソードを通じて、何を伝えたいか。それは、生身の人間を、想像の力では、次元を異にする存在に変えることは不可能だということだ。
それはつまり、どう頑張っても、僕は生身の人間に恋心を抱かないという結論を引っ張ってくる。肉を持つ存在は、僕の琴線からかけ離れた位置に座するのかもしれない。
画面やページの向こうに存在するものは、僕に見られていることを知らない。だが、現実の世界においては、僕も等しく相手から見える存在となる。
その構図に気付いた刹那から、僕は肉欲的な興味の一切をその相手から失うのを、はっきりと感じる。夢が現実になった瞬間、僕の想いは自動的に醒めるようだ。
ここで思考実験を入れてみる。欲しくて仕方がないが、手が出ないアイテムを頭に浮かべる。僕はキャンプが好きなので、テントがお誂え向きだろう。
なんとかして手元に置きたい。だがお金が足りない。そのお金をどう工面するか考えて、様々なことを我慢し、それに届かせようと四苦八苦する。
と同時に、そのアイテム自体のことをもっと深く知ろうと勉強を重ねる。素材、大きさ、製作者が込めた哲学、価格、細かいスペック・・
これはまさに、構図だけなら「恋心」に他ならない。届かないという諦めと、届かせたいという願いが入り混じり、対象を日々増々魅力的なものに変容し続ける。
そして願いが叶い、それが”手に入ったら”僕はどうするのだろうか。ちなみにこれは実際に”叶えた”ことがある。その際、その恋心は以降、不思議と満足感に変化している。
「手に入ったら・・」と夢に見た景色がそのまま現出している感じであり、激しい恋心は流石にもう抱かないが、信頼や満足と形容すべき安らぎを、僕は覚えている。
僕の「恋」は、等身大の人に対して抱くことは決して無く、それは時機が来れば「信頼」や「満足」に、自動的にすり替わるものなのかもしれない。
そういえば僕は、異性に肉欲を抱いたことは無いが、例えば旅行に行きたいときとりあえず声を掛ける相手といった、無難な信頼感を抱くのを期待したことはある。
素敵な異性が画面の向こうに居れば僕は恋をし、こちら側に居れば僕は信頼するのかもしれない。この仮説はなかなかに面白いと思うが、確かめようは今のところ無い。
フェティシズムとオニヤンマ。

フェティシズムという言葉がある。辞書で引いてみると、それはこんな風に説明されていた。
フェティシズム(fetishism)は、元々は「呪物崇拝」を意味する語であり、通俗的には「異性の体の一部などに性的な魅力を感じる嗜好(=フェチ)」の意味で用いられる語である。
これを読むたびに、自分の中に矛盾めいたものを感じることがある。半ば反射的に目を惹かれる嗜好は、僕にも実は存在するためだ。
ちなみにこれに対する反応も、画面の向こうに在るものを見たか、それとも現実世界でそれを見たかで、まるで異なる。
前者であれば僕は素直に昂ぶりを覚えるが、後者であれば僕はどうしてもērectiōに至らない。これ自体は、先に述べたことと全く同じである。
今であれば、お祭りシーズンであるため、時に浴衣姿の人が歩いているのが見える。そこにパッと意識が向くことは否定しない。だがその集中は、2秒程度で消えてしまう。
持続はしない。だが、確かに心は惹かれる。これをフェティシズムの文脈で理解することで、自分の中に隠れている恋心に辿り着けるのではないか。
実はその仮説には去年くらいに辿り着いていたのだが、結果判ったことは、そもそもこの反応自体が僕にとっては恋心でもなんでもないということだった。
―それに気付いたのは、本当に些細な日常の一幕がきっかけだった。自然が豊かな家の近所を散歩をしていた僕は、視界の端を高速で飛ぶ何かに、ふと意識が向いた。
それはオニヤンマだった。日本最大のトンボであり、そのカッコいいフォルムから醸し出される、捕食者ゆえの強者のオーラも相まって、飛行する姿がとにかく魅力的だ。
気付けば僕は足を止めて、高速で辺りを旋回するオニヤンマを目で追い続けた。ふと木の枝などに止まって羽を休めているときなんかは、観察の絶好機だ。
息を殺して、その姿を網膜に焼き付けんばかりに睨みつける。しかしその時間は、オニヤンマの気まぐれで、いとも容易く終了する。
僕の存在など歯牙にもかけず、その個体は急に飛び立つと、遥か彼方の空を目指して飛び去って行った。その後も、余韻にしばらく浸ったものである。
・・・そしてふと気付いた。この反応、何かに似ている、と。そしてすぐに気が付いた。僕のフェティッシュの琴線に触れる人に対する反応と、全く同じなのだと。
ここで一旦、フェティシズムの例を紹介してみよう。ただしあまりにも露骨な下ネタは、除外したうえで載せることにする。
身体の一部分に対する執着
(「腋フェチ」「足フェチ」「ベロフェチ」「胸フェチ」「へそフェチ」
「胸毛フェチ」など)
身体の表面に見られる先天的または後天的特徴への執着(「ほくろフェチ」「刺青フェチ」「盲腸の傷跡フェチ」など)
服装や服装の一部分、あるいは人間が身に付けるものに対する執着(「パンストフェチ」「眼鏡フェチ」「ブーツフェチ」「長靴フェチ」「ドレスフェチ」「手袋フェチ」「ナースフェチ」「メイドフェチ」「学生服フェチ」「香水フェチ」「濡れフェチ」など)
特定の属性、ロールプレイングに対する執着(「女子高生フェチ」「人妻フェチ」「女装フェチ」「ヤンキーフェチ」など)
特定の音源に対して強い執着や愛好、心地の良い刺激ある音源が愛好の対象(「音フェチ」(ASMR))
などがある。
これらが僕の琴線に触れるカラクリも、それによって生じる悦びのような感情も、僕がオニヤンマを観察した際に抱いたそれと似ている。というか、多分同じだ。
ところで僕は、どれだけ認知を歪めても、流石にオニヤンマに恋はしていない。それはすなわち、僕はフェティシズムの対象に恋をしていないことに等しい、となる。
多くの人が性的魅力さえ湧き起こせるものに対しても、僕は恋を伴っていなかった!これ自体は驚くべき発見というより、ただ追認しただけという意味合いの方が強い。
ドキッとするパーツ、仕草、衣装を見れたときは、確かに何か嬉しい気持ちになることは認める。だが下手すればそれは、珍しい魚を見れたときの興奮に劣る。
例えば、「お前にぴったりの人が集まる合コンがあるぞ!」と誘われるのと同時に、「シーラカンスを見られるチャンスが来るぞ!」という情報があったとする。
僕は一切考慮することなく、確実に後者を取る。僕にとって、性愛的なものは何のモチベーションにも繋がらないことが、本当に浮き彫りになる思考実験だと感じる。
僕の中では、フェティシズムとオニヤンマの興奮が、「=」で繋がる。このことを自覚してからというもの、僕は僕の葛藤に、やっと折り合いを付けられた。
「魅力的な仕草やパーツ、衣装を目で追っても、それは僕がアセクシャルであることの反例にはならないんだ!!だってオニヤンマの興奮と同じなんだもの!!」
という風に。もう一つ気付いたが、僕は誰かを好きに”なりたくもない”らしい。深層心理に隠れている怖れのようなものを知り、まだまだ内省が足りないなと思わされた。
幻が滅して幻滅と書く。そして幻滅とは、恋心の消滅と同義なり。

僕は内心、「人は幻想に恋をするのではないか」と思っている。言い換えれば、その人自身ではなく、”その人が自分の理想を体現するという期待”に恋をするのだと。
例えば、あまり好きな考え方ではないが、恋愛は基本的に減点方式で進む。少しでも理想の恋人像から離れた言動をすると、その人の点数はどんどん減らされていく。
それがゼロになったとき、恋は終わる。愛へ昇華することは稀にあるが、大抵はそのまま終演となる。なんともドライな話だが、どうにもこれが本質に思えてならない。
その人の良いところを新たに探すのではなく、初めから完璧な人を想定し、その過程で悪いところを見つけては、魅力から差し引いていく。
そして、その上でその人を異性として好きになるか、さらに関係を深めるか、それを決めるのだ。こうした考え方をする人は、むしろ多数派ではないかとさえ感じている。
ただ、この減点方式という考え方自体はどうしても本能的なものであり、意識的にそうしないように努めても、制御はなかなかに難しいと感じている。
なぜなら最近、「どの口がほざくのか」という話だが、僕自身も、ある種の幻滅を覚え、思い切り減点をしてしまう様な考え方をしてしまったためだ。
僕は中学生の頃、浴衣を着た人と歩くことに強い憧れを持っていた。しかし、最近ではその特別感が薄れてきており、ここ1~2週間においては、何ならゼロとなっている。
その理由はただ一つ、実は、浴衣は非常に暑いと聞いたためだ。女子側の本音としては、暑くて動き辛いからマジ着たくない、という衣装なのだそうだ。
―かつては、浴衣は涼しげで機能的だと思っていたが、実際には「クソ暑い」と感じている人が多い。現実からの冷や水は、特別感を掻き消すのに十分だった。
もう一つ、幻滅に近いことを思っている。これは全くデリカシーが無い話なので、絶対に人には言えないのだが・・・。
それは、街でへそ出しルックをしている若い女性を見かけたときのことだ。その格好に目が留まったのは、セクシーだとかそういう色欲によるものではない。
どれだけ差し引いて物申しても、その女性は少しお腹が出ていたためだ。正直、「よくそれでへそ出しできるなぁ」と、どこか冷笑的かつ失礼なことを思ってしまった。
ここでハッとした。「へそ出しするなら腹は凹んでいるべきだ」という幻想を、無意識下で抱えていると気づいたのだ。僕自身は羨望の的から最も遠い存在なのに、だ。
先の浴衣の例も、「浴衣は喜々とした気持ちで身に纏い、夏祭りという非日常を心から盛り上げるべきだ」という幻想を破られたが故の感想と言える。本当にゾッとした。
自分が他者の幻想を1mmも満たさないことを心の底から、骨の髄から確信していながらも、自分が他者に幻想を体現することを期待する矛盾。虫がよすぎて気持ちが悪い。
・・・なるほど、普段広告などで目にするモデルさんは努力してその姿を保っている。ファンタジー的な衣装は、意外と機能性を犠牲にしている。
皆、幻想を”プロとして”演じている。或いは、写真などの切り取った世界のみで、それを完結させている。僕の中で、幻が滅した。その音が、はっきりと聞こえた。
こうして考えると、僕は客観的に見ても、恋愛には向いていない。なぜなら、他者が僕に幻想を抱く余地は、全く存在しないからだ。
仮にそうする人がいたとしたら、僕はこう思う。「なんて人を見る目が無い人なんだ・・」と。そして僕”が”その人に幻滅する。そんな未来が明白に見える。
恋心とやらが植えられて、育つための土壌自体が、僕の中には無い。下手な幻想より、こういうキッパリとした事実の方が、なんと救いになることだろう。
終わりに。
僕は、自分に自信が無い。だから、僕より頭が良くて、それでいて容姿にも家柄にも恵まれている人がごまんといるという事実を、一瞬たりとも忘れたことは無い。
僕は僕より上の存在を自覚することが物凄く得意だ。自分が一番であることが異常だと、心の底から納得している。オンリーワンさえあり得ないことを承知しているのだ。
そんな僕だが、実はたった一つ、絶対的な自信を認めている事柄がある。それは、誰からも恋心を持たれないということだ。異性が僕を特別視することは、絶対に無い。
「芯」のある人がずっと羨ましかったが、自分にもこういう「芯」があると自覚してからは、憧れることが無くなった。疑似体験なら、簡単にできてしまうからだ。
ブレないということ自体は、別にダイナミックでも、カッコいいことでも、なんなら尊敬すべきことでもなんでもない気がする。当事者にとっては、どこまでも”凪”だ。
もっとも、僕のこの悟りが、一生涯ずっとブレないまま続くという保証はどこにもない。もしかしたら、例えば病床の両親が、僕に結婚を促す未来があるかもしれない。
とはいえ、今はこの確信を捨てる未来が、全く見えない。それくらい強く納得している。数学の公式の証明くらい頑強で不変な骨組みが、裏に隠れている気がする。
皆に備わっているものが、無い。これは強みなのか、欠点なのか。答え合わせは僕が死んだとき、僕の与り知らぬところで、行われることを願う。
では今日はこの辺で。