僕はネガティブだけど、それなりに充実した人生を生きたいと思う。

「ネガティブ」で片づけず、自分の観察を続けたい。

「明鏡止水」への至り方。 ―他人の期待ではなく、真の自己を探求するために。

30代に入ってから興味を持つようになったことの一つに、「自分の心と向き合う」というものがある。もっと早く向き合うべきだったと、今さら少し後悔している。

 

振り返れば、僕の20代は、劣等感を受け入れられず、自己反発から社会的なステータスを追い求め、不毛な競争や自己否定に囚われて消耗した10年だった。

 

自分にとって大切なものは何か、自分は何をしたいのか、どうすれば幸せを感じられるのか。他人の顔色ばかり気にしている日々では、その答えを見つけられなかった。

 

しかし、そんな日々に疲れ切った僕は、いっそ方向を完全に逆にして、「内省」に振り切ろうと決めてみた。すると、重要な問いのヒントが次々に見つかったのだ。

 

例えば、僕にとっての幸福と、社会が作り上げた幸福は必ずしも一致しないと分かった。ズレている部分もあれば、真っ向から対立する部分もあるのだ。

 

このようにして自分を理解していくうちに、到達したい場所が次第に明らかになってきた。それは「平穏な心」、すなわち「明鏡止水」と呼べる心境だ。

 

心が常に穏やかな状態にあること、多少荒れても静かな心に戻れること。30代のうちにこれを達成するのは難しい目標だが、心の底からそこに届きたいと思っている。

 

だからここ数年、それに特化した勉強や意識付けを重ねてきた。自分なりの経験則も得られ、他の人の思考が腑に落ちることも増えてきた。

 

今回は、僕の個人的な体験や感覚に基づくものであるが、「明鏡止水」に至るためのヒントを、以下つらつらと書けるだけ、この記事にまとめておく。

 

 

人生で最後に「ゾーン」へ入ったのはいつだろうか。

 

究極の集中状態といえば、多くの人が「ゾーン」や「フロー」という言葉を思い浮かべるだろう。「明鏡止水」の到達点として一番イメージしやすい言葉はこれらだと思う。

 

これらは、一切の雑念が消え去り、自分の能力が最大限に発揮される時間を指す。某バスケ漫画では、色や音も含め、没頭の対象以外の情報が全て消えると描写されている。

 

実際、僕もその体験をしたことがある。ただ、その集中状態は上記の通り特異的なものであり、言語化するのは極めて難しいという指摘も当然だと感じる。

 

あらゆる意識から解放され、流れに完全に身を任せている状態。自分が身体を動かしているのか、身体に意識が動かされているのかさえもわからない感覚。

 

その体験を振り返り、ゾーンに至るまでの道のりをできるだけ思い出すこと、そしてその状態の輪郭を描写することが、今の僕にできる限界だ。

 

しかしそれが無駄かと言われれば、それもまた言い過ぎだろう。たとえ途中までの過程しか書けずとも、全くのゼロから暗中模索するという無駄は省けるのだから。

 

個人的な体験になるのは承知だが、最後にゾーンに入ったときを思い返してみる。それは、英検1級の二次試験の面接だったと記憶している。

 

2019年2月のことだ。その前年の10月に受けた面接に落ちた僕は、「絶対無理だ」という自分を封じ込めるため、そこからの4ヶ月間、対策に必死で取り組んだ。

 

やったことは、徹底的な例文の暗記だ。英作文の回答例と併せて、模範解答とされるそれを、自分の言葉に直しながら、頭に刻み込んでいった。

 

毎朝出勤前に音読を行い、出勤中の車内でも想定問答集のCDを流し続け、ひたすら質問に答えるという瞬発力も同時に鍛え続けた。我ながら、集中力はかなりあったと思う。

 

ある意味狂った日々を送り続けた甲斐があって、自分に自信をあまり抱くことが無い僕なのだが、「仕上がった」と胸を張って自称できるほどの水準に辿り着けたのだ。

 

実際、試験前日に2時間車を運転しながら想定問答集のCDをずっとランダム再生していたのだが、全ての質問に即答できていたほどだった。

 

当日は少し寝不足だったが、試験会場まで徒歩で向かうことで心が研ぎ澄まされていった。集中力や、頭の冴え具合に問題はない。

 

ただ、試験会場での記憶はほとんど残っていない。もちろん不安は感じていたはずだが、自分が努力してきたという強い自負が、それを打ち消していたのかもしれない。

 

会場に呼ばれ、簡単な自己紹介の後、お題が書かれたカードを受け取る。幸いにして、自分が得意とするトピックが見つけられた。頭の中で議論を即座に組み立てる。

 

スピーチをした2分の記憶は、もう残っていない。その後はQ&Aに移った。二人いる面接官が、スピーチの内容に関する質問を、次々と僕に浴びせるのだ。

 

そのとき確かに、世界が完全に静かになった。面接官の声以外の音が消えて、頭の中では、不合格への恐れを含めた、雑念の全てが沈黙した。

 

そこからの時間は、ある意味夢のようだった。僕が意識して何かを答えるのではなく、まるで僕ではない誰かが憑依して、理想的な受け答えをしているような感覚だった。

 

質問は即座に理解でき、相応しい返答が考える前に口から出てきた。気づけば、10分という時間があっという間に過ぎ去っていた。

 

終わった後は放心状態になり、強い安堵感を覚えた。その後に、「あれで受かってなかったらもう無理だな」と、不安と充足感が混ざった気持ちが込み上げてきた。

 

蓋を開けてみれば、結果は素点8割で合格。特にQ&Aの部分では、面接官の一人が満点をつけていなければ得られないスコアだった。

 

これが僕にとって最後にゾーンに入った瞬間だった。あまりにも静かで、そしてあまりにも素晴らしい、言葉にすることが叶わないほど全てが充溢した時間。

 

無我夢中で取り組んだことが無意識下に染み込み、一連の流れが完全に身体と精神に刻まれた結果、それが僕の意識を超えて、その心境に至れたように思う。

 

僕が何かをしたという実感は全くなく、むしろ高次的な何かが、僕を望ましいところへ勝手に運んでいたようだった。身体も精神も、完全に”任せていた”。

 

あのときも、話しているのは間違いなく僕のはずなのに、僕という閉じた世界の外から次々と知恵を注がれているかのように、全能感を強く覚えながら受け答えができた。

 

とはいえ、ゾーンは偶然の産物だ言語化しようとすると、まるでブラックホールの周囲の歪んだ空間を説明しようとするように、本質にはたどり着けない気がする。

 

しかし、無意識下に刷り込まれるまで鍛えた技能を通じて主体が消えた感覚は、間違いなく存在すると思う。【熟達論】の「空」の章の内容にも書かれていることだ。

 

集中が極まった先は、何か一点に強く意識が向くのではなく、何かを意識しているという感覚さえ消えた、とても静かな世界なのだ。

 

あれは稀有な例だとしても、そこにまた至る努力と研究は重ね続けたい。たとえその扉が運命の気まぐれでしか開かないとしても、補って余りある魅力がそこにはある。

 

頭痛が教えてくれた「静寂」。

 

ここ数日、頭が痛い。今は少し過剰な量の薬を頓服したおかげで、痛みこそ和らいでいるが、その身体に感じられる気だるさは消えない。

 

母親から遺伝したであろう片頭痛は、僕が長年付き合っている持病の一つだ。だいたい4〜50日に一度、頭が痛み、身体も怠く、頭も身体も何の役にも立たなくなる。

 

正直、本当に厄介で、もし根治できる治療法があるなら、50万円までなら出すと言い切れる。だからこそ、今までこの頭痛に、ポジティブな解釈をする余裕などなかった。

 

しかし、今、頭痛に苛まれながらも、僕の心が驚くほど静かであることに気づいた。普段なら頭の中で絶えず流れている心の独り言が、一切聞こえてこないのだ。

 

過去の黒歴史への後悔、未来への不安、他者への勝手な期待やそれに伴うストレス。それらすべてが、今の僕にはまるで湧いてこない。

 

正確に言うと、体調が悪すぎて、そういった思考を拾い上げ、それに構う余裕が無いのだ。すなわち、僕は今、非常に高いスルースキルを発動できていることになる。

 

同時に、それを極めた先にある世界の素晴らしさを窺い知れているのだと、強く納得もしている。この静けさ、穏やかさ、安らぎは、言葉では表現しきれない。

 

大げさかもしれないが、この心境を端的に描写すれば、「明鏡止水」と呼べるのではないか。先ほどのゾーンとは入り口が異なるが、同じく”静寂”に至っている

 

心が何も言ってこない。すべての物事が、どこか他人事のように受け入れられる。自分の思考のはずなのに、興味がないテキストメッセージのように、即座に手放せている。

 

頭痛は、今まで僕にとって徹底的な敵だったが、この痛みを通して、僕に静けさを与えてくれていたというのは意外な発見だった

 

頭痛によって、脳が痛みの処理にリソースを割き、他の思考が抑制されるという現象は、一種の防御反応なのかもしれない。そう思えば色々と腑に落ちる点はある。

 

パソコンを考えるとわかりやすい。あるプログラムがCPU使用率の80%を占めると、他のプログラムが遅くなったり、最悪の場合フリーズしたりする状況に似ている。

 

そう考えると、頭痛がない時でも、頭痛に匹敵するほど認知リソースを食う「プログラム」を自ら起動させれば良いのではないか。その方法には心当たりがある。

 

とはいえ、それについてこの見出しの中に書くと、記事としてまとまりが弱くなる気がしたので、次の項で詳しく説明することにしよう。

 

一生懸命取り組んでいる新しい瞑想・【観察瞑想】とは?

 

脳のリソースを敢えてフル活用する意識を持つことで、別角度から「瞑想状態」に至る方法がある。これは、集中によって静寂に至る瞑想とは、また異なる手法だ。

 

それは、【観察瞑想】である。その言葉と定義を知って以来、ずっと興味を持って調べては、実践を重ねている。それくらい好きな、瞑想の1つのバリエーションである。

 

【観察瞑想】とは何かという定義については、以下のように、【集中瞑想】と対比する形で紹介されていることが多い。

 

集中瞑想は、特定の対象に注意を向け、それが逸れたらまた戻すという練習を繰り返すことで、注意のコントロール力を鍛えるものです。

 

例えば、呼吸瞑想では呼吸に注意を向け、それが逸れたらまた戻すという練習をします。

 

一方、観察瞑想(マインドフルネス瞑想)では、五感や心の状態をそのまま感じ取ることに焦点を当てます。

 

観察瞑想の主な目的は、物事の性質を感じ取ることです。

 

例えば、呼吸瞑想を観察瞑想として行う場合、鼻の入口に当たる涼しい空気や吐息の温かさといった感覚を詳細に観察します。

 

mbsr.science

 

僕としては、普段脳が無意識にカットする情報を意識的に拾い上げることで、自分自身の内外を注意深くモニタリングすることを意味するのではないかと思っている。

 

では、具体的に【観察瞑想】を行うとは、どういうことなのか。まず前提として、脳は情報を無意識に選り分け、不必要と判断したら意識に上げることなく流している

 

実際に読みながら確認してみてほしいのだが、あなたの周りで聞こえている音は何種類あるだろうか。あなたが触れている床や椅子の感触は、意識できているだろうか

 

或いは、水を一口飲んでみてほしい。その味はさておき、温度、質感、そして液体が食道を通っていく感覚を、情報としてあなたは知覚できるだろうか

 

恐らくいずれも否なのではなかろうか。正直、情報や刺激に溢れたこの社会において、あらゆる情報を全て受信していると、負荷に耐え切れず、脳は簡単に壊れるだろう。

 

だから進化の過程で、脳は【馴化】を覚えたのだ。何度も繰り返した動作は意識をしなくても再現できるのも、僕らが進化を経て、必要だったから獲得した能力なのだ。

 

ただし、【観察瞑想】においては、敢えて馴化を止める。手を止めて、周りにあるもの、聞こえるもの、触れているもの全てに意識を広げ、五感を総動員して観察を行う。

 

脳が自動的に行うフィルタリングを、意識・理性の力で解除する。それによって、あらゆる刺激や情報を、切り捨てることなく、意識下に引き上げる。

 

僕らが見逃している情報を、徹底的に拾い上げる。これこそが、【観察】という言葉が内包するそもそもの意味なのではないかと思っている。実際、辞書にはこうある。

 

1 物事の状態や変化を客観的に注意深く見ること。「動物の生態を—する」「—力」

 

2 《「かんざつ」とも》仏語。智慧によって対象を正しく見極めること。

 

これだけ書くと簡単そうに聞こえるが、実は【集中瞑想】より、【観察瞑想】の方が、心の平穏に辿り着くまでに長い時間を要すると言われる。僕もそう実感している。

 

【集中瞑想】は、自分の呼吸にだけ意識を向けるように、特定の刺激以外の情報を、雑念さえ含めて”カットする”というやり方だ。これ自体は、結構即効性がある。

 

それに対し【観察瞑想】は、さながらスキンダイビングのように、ゆっくりと意識をどこか静謐な世界に沈めていくような時間となる。だからある程度の時間が掛かる。

 

まずは目に見えるもの、耳に聞こえるものに意識を広げる。何が見えるか。どんな音が聞こえてくるか。それを受け流さずに、意識的にキャッチし続ける。

 

それに慣れてきたら、今度は自分自身を注意深く観察する。これは何も表面的なことに限定した話ではなく、目に見ることができない自分の内部の世界にも通じている。

 

例えば、身体の強張り、息の通過、呼吸のテンポなど、意識していないだけで実際には起きている現象は山ほどある。それを拾うのは、視覚・聴覚より少し難度が高い。

 

だが観察瞑想が深まっていくと、内と外の区別が完全に曖昧になっていく。世界に自分が包まれているというより、世界に自分が溶けたような感覚になるのだ。

 

こればかりは、体験しないことには絶対に腹落ちができない。そしてこういう精神活動は、言語化とすこぶる相性が悪い。だから、対自分の思考錯誤がかなり必要なのだ。

 

そういう事情もあり、本当に色々な教えやコツを読んで試してみたが、今のところ一番しっくり来ているのは、スマナサーラ長老による解説だ。

j-theravada.com

 

乱暴に言えば、動作をゆっくり丁寧に行い、自分の行動や目の前の風景をまるで実況するかのように観察し、同時に自分の身体を他人事のように眺める、という感じだ。

 

動作をせかせかと行うのも、あらゆることに目もくれないのも、主観的に物事を捉えるのも、実は全て、不要な情報をカットするための行為である。

 

それらを綺麗にひっくり返すことで、雑念が生じなくなるほどに脳を使うことができる。非常にシンプルだが、それゆえに納得感はすごく強い。

 

理屈を考えても、実体験を振り返っても、「明鏡止水」に至るための強力な儀式として、【観察瞑想】はこの上なくお誂え向きなのではないかと僕は思う。

 

では、具体的にどうやってその技を習得していくのか。仏教においては、坐禅や瞑想を通じて、深淵に至ろうとするが、それと同様な鍛え方は存在しないのか。

 

次の項では、個人的な体験と感想に過ぎないのだが、僕が【観察瞑想】を深めることにおいて有効だと感じた心掛けや頭の使い方を列挙してみようと思う。

 

「明鏡止水」に近づくため、【観察瞑想】のトレーニング方法を紹介する。

 

この項では、「明鏡止水」という心の状態に至るための具体的なトレーニンについてまとめていく。

 

ただ、先に書いておくが、確固たる自信を持って効果があると断言できるような、確立・体系化された方法はまだ見つかっていない。

 

今回はあくまでも、現時点で実感として【観察瞑想】の熟達に繋がっていると”感じる”方法について、私見を述べるものである。ご了承いただければ幸いだ。

 

再確認になるが、「明鏡止水」とは、心が澄み切り、波立たず、静かで安定した状態が継続することを指す。そしてそこに至る方法として、【観察瞑想】を先に述べた。

 

「明鏡止水」を目的とするなら、観察瞑想は"手段"である。そして手段は、それをピックアップし、集中的に鍛えて向上させることが可能だ。

 

野球で言うなら、強い打球を打つことを目的に、スクワットという手段で筋トレを行うようなものだ。スクワットに熟達すれば、それが巡り巡って目的に直結する。

 

今から述べるのは、"手段である観察瞑想自体の習熟度を高める術"だ。前置きが長くなったが、ここから説明に入っていこう。

 

 風景のナレーション

 

1つ目は「風景のナレーション」だ。これは、目に入るものや耳に聞こえるものをなるべく詳細に意識し、頭の中で実況する方法である。

 

例えば、散歩や運転中に意識的に視野を広げ、道端の木々や建物、人々の動きを丁寧に言葉にしてみよう。足元から遠方まで、視界をぐんぐん広げていくイメージだ。

 

すると、非常に多くの動植物や人工物が自分を取り囲んでいることに気付き、脳がいかに世界を編集して、それらをカットしているかを意識できる。観察はここから始まる。

 

実況中は余計な考えが減り、頭がクリアになっていくのが分かる。調子が良いと、ナレーションを通じて自分が世界に溶けていく感覚も得られるだろう。

 

コツは、言葉に詰まっても気にせず、テンポよく無理矢理でも言葉にすること。最悪、「なんかの花がバーっと並んでいる」といったクオリティでも構わない。

 

ちなみに僕自身は、目の前にある風景を小説の情景描写のようにナレーションすることを意識している。参考にしてみてほしい。

 

 

自然音を使った瞑想

 

2つ目は、自然音を使った瞑想だ。これは実際に自然の音を聞くのではなく、アプリを活用する。僕が使っているのは「bettersleep」というアプリだ。

 

このアプリは様々な音楽や自然音を組み合わせ、オリジナルのリラックスメロディを作成できる。基本は無料で利用できるのもありがたい。

 

僕が好む組み合わせは、カエルの鳴き声、焚き火の音、シンギングボウルの音色だ。この3つを同時再生し、目を閉じ、全ての音に同時に意識を向ける

 

どれかに集中するのではなく、どれにも集中しない。ケロケロという声も、火の爆ぜる音も、揺らぎのあるシンギングボウルの音も知覚するが、感想を捨てる。

 

雑念が浮かんでもそれにさしたる感想を持たず、「今、雑念が浮かんだな」とだけ思って執着を手放し、瞑想に戻る。

 

雑念を手放し続けると、段々と言葉が頭に浮かばなくなる。例えるならば、自分が山に転がる名も無き岩になったような気持ちになる。

 

この方法は、無音だと雑念が浮かびやすい人に特に効果的である。自然音は特定の記憶や感情にあまり紐づかないため、余計な雑念が浮かびにくいからだ。

 

注意点としては、瞑想の序盤で寝落ちしてしまう可能性があること。実際、胡坐をかいたまま寝てしまったことが数回ある。

 

ジャーナリング

 

3つ目はジャーナリングだ。頭に浮かんだ雑念をひたすら紙に書き出していく方法である。

 

浮かんだ考えや感情を紙に吐き出すことで、頭の中が整理され、心が軽くなる。認知行動療法としてもよく用いられる効果的な手法の一つだ。

 

僕は文を手書きで並べるのが苦手なので、単語をひたすら書き出し、それらを線で繋いだり、括ったり、補足説明を加えたりしている。

 

特に手が空いた時や悩みが頭から離れない時に効果的で、毎日続けることで徐々に思考が整理されやすくなる

 

書き言葉にした時点で、ネガティブな思考自体からの分離が自動的に起こる。「切り離し」や「客観視」を腑に落としにくい人には特に推奨したい。

 

【観察瞑想】自体を補強するトレーニングを3つ紹介してみたが、いずれも日常生活に取り入れやすいものばかりだ。ぜひ、手が空いたときに試してみてほしい。

 

「明鏡止水」を妨げる思考と、どう折り合いをつけるか。

 

「明鏡止水」という言葉には深い含蓄がある。完全に静止した水面が、まるで鏡のように静かに照り映えている。この四文字に、静寂が完璧に描写されているように思う。

 

しかし、その静けさは実に脆い。もし小石が落ちれば波紋が広がり、即座に静寂が乱される。インクが一滴でも落ちれば、鏡面のような透明度は瞬く間にくすんでしまう。

 

家でじっと瞑想に取り組んでいて、心が落ち着いたのを自覚していたとしても、アプリの通知音や他の人の足音で、それは簡単に中断されてしまう。それほど儚いのだ。

 

「明鏡止水」は、字面から完璧に”止まっている”ような印象を抱かせるが、その実は様々な要因により、絶妙なバランスで成り立っている心境ということなのだ。

 

様々な条件が空前重なった結果、オーロラが現れるのと同じで、現出それ自体が奇跡のようなものであり、それを持続しようと思うこと自体、ある種の歪みを感じてしまう。

 

だからこそ、「こうすればうまくいく」といったプロセスだけでなく、自分にとっての阻害要因を把握しておくことも、その心境に至るためには役立つだろう。

 

そこでこの章では、「明鏡止水」の境地に至るにおいて欠かせないその阻害要因について説明し、その上でその対処法などを考察したいと思う。

 

まず、ここでいう小石やインクとは何か。その定義をしておきたい。僕はこれを、「本来集中したいことから注意を逸らす要因の総称」と捉えている。

 

例えば、生活騒音、人から話しかけられること、突然の電話といった外的な要因が、一般的なものとして頭に浮かぶかもしれないが、それだけではない。

 

多くの人が抱える、自分の内側から突然湧いてくる過去の後悔、将来への不安、現状へのモヤモヤといった内的要因、いわば雑念も同様だ。

 

どちらかといえば、どこにいても発生しうる内的要因をどう御するかのほうが根深い問題だ。これらは環境を変えたところで、自分の中に居続けるからである。

 

こういった内的要因は、厄介だが静かな時間によく現れる。のんびり過ごしているときに限って、やたらと嫌な記憶や仕事の不安が浮かぶことは、皆さんあるあるだと思う。

 

これらを考えると、まずは外的要因・内的要因それぞれについて、自分が何によって気を散らされるのかを丁寧に把握し、分析することがドミノの1枚目と言えるだろう

 

しかしここが少し難儀なのだが、このトリガー自体、実は個人差が凄い。あの人にとっては耐え難い刺激も、自分は何ともないということは、普通にあるのだ。

 

例えば僕はクモが苦手なのだが、世の中には平気でアシダカグモを手掴みで扱う人もいるように、刺激の耐性には個人差がある。

 

或いは、僕はビラ配りの際に猛烈な抵抗を覚えるのだが、世の中には平気で知らない人に話しかけて、かなりの枚数を飄々と配れる人がいる。

 

これを「個性」で片付けず、むしろ徹底的に深掘りすると、自分の心にノイズを生じさせるものがより高い解像度で理解できてくると思う。

 

僕の場合、外的要因であれば「生活騒音」や「甲高い声」に心乱されることが多く、内的要因としては「ゴシップ記事」や「炎上ネタ」に触れると、嫌な気持ちになる

 

それに伴う感情は、僕の場合「強い嫌悪」だ。怒りや悲しみとは異なるが、「とにかくそこから逃げたい」という原始的な”イヤ”な気持ちともいえる。

 

だから、一番手っ取り早いのは、その嫌悪を想起させる対象から距離を置くことだ。耳栓をしたり、そのページを閉じるなどすればいいので、比較的楽に対処できる。

 

しかし、感情は無策だと意外と持続する。嫌悪の対象を視界から外しても、「見た」「聞いた」という事実によって発生した感情はしばらく心に留まる。

 

それゆえ、適切なケアをもって、なるべく早くダメージも少ない内に、心が囚われた状態を解除できるかどうかが、心の乱れに対処することにおける鍵となるのだ。

 

しかしながら、難しいのはそのケアの方法も、人によって何が効くか効かないかが千差万別ということだ。万人に効く特効薬は、現状無いとみて良いのかもしれない。

 

例えば、面倒な人に絡まれた際は、その人の残念な性質を理解して見下したり、生温かい目で観察したりすることで対処できる人がいる。

 

あるいは逆に、その感情へ徹底的に向き合い、言葉にしたり解釈を変えたりするのをひたすら繰り返すうちに、嫌な気持ちが霧散するというタイプの人もいる。

 

しかし僕は、そうしたところで不快感が癒されることがない。どれだけ悪態をついたり言語化したりして誤魔化そうとしても、つまりその感情は僕の中に”あり続ける”のだ。

 

この御し方については苦心惨憺してきたものだが、最近ようやく、僕なりの制御の仕方が見えてきたように思う。

 

それはある意味つまらないオチなのだが、自分が悪感情を抱いていることを認知したら、それを認識したまま時間の経過を待つというものだ。

 

その参考になるのはこの資料だ。ネガティブな感情ほど人は持続させやすい。それは本能に刷り込まれた特性であり、理性でコントロールするのは非常に難しい。

悲しみの感情は他の感情に比べ240倍も長く続くことが判明(ベルギー研究)|カラパイア


これを踏まえれば、自分にとって嫌な感情を起こさせる源から距離を取ると同時に、それによって乱れた感情のケアが必要になることは、自然と理解できると思う。

 

例えば、先のグラフによれば、嫌悪感は30分程度で消えるとされる。それに関しては、確かにそのくらいだと、思う。だからその時間を、如何に健全に過ごすかが鍵なのだ。

 

実はこここそ、【観察瞑想】の使いどころだ。これまでに書いた方法や考え方を用いて、身体感覚も活用し、意識をなるべく分散させながら、心が凪いでいくのを待つ。

 

一度波紋が起きた水に、例えば風を当てたり、別の石を落としたりしてそれを打ち消そうとしても、より心が乱れるだけだ。だから静かな観察こそ、一番効果的だと言える。

 

濁った水を透明にしようと思ったら、何かしらのテコ入れをするのではなく、実は放置するのが一番速くてラクということと似ている。

 

こんな風に、いくら自助努力で心を研ぎ澄まそうとしても、邪魔をする要因はどうしても存在し、隙あらば僕らの心を乱しにかかる

 

しかし、サッカーも野球も対戦相手がいるから上達できるのと同じで、乱されるからこそさらに深いところまで心の中を見つめられるようになるとも解釈できるだろう。

 

酸いも甘いも嚙み分けた人が精髄に至るという話を聞くと、「明鏡止水」を目指すプロセスもまた、そんな境地に通じるのだと得心する次第である。


終わりに。:「明鏡止水」がもたらす心の静けさと人生の変化。

 

「明鏡止水」という言葉を初めて知ったのは、小学生の高学年の頃だと記憶している。そしてそのきっかけは、当時流行していたカードゲームだ。

 

ある1枚のカードにその名が付けられており、僕は何故か、その言葉の響きに惹かれた。明鏡止水。仄かな光が降り注ぐ、透き通った水面が想起された。

 

なんと素晴らしい景色なんだろうか。その意味合いだけでなく、言葉の響きも美しい。何故か素直に、幼い僕の心の奥底に、「明鏡止水」は染み込んできたのだ。

 

それから20年以上経ち、偶然出会ったこの言葉が、今では座右の銘として生きている。心の内なる声を聴くということの大事さに、時を経てようやく辿り着いたからだ。

 

少し僕の過去を語る。物心ついたときから、僕は何故か外からの目や評価に囚われてきた。成功は他者が定めるもので、そこから外れることは「ダメ」だと信じ続けてきた。

 

進学したい高校・大学は、自分が行きたいかどうかではなく、家計に負担を掛けないかどうかを最優先に考えて決めた。

 

恋人が居ないのはダメだと思っていたから、正直嫌な気持ちを抱えながら合コンに行ったり、無理して評判の高い服を買ったりした。

 

就職後も、自分が誰よりも才能が無いと自覚していたから、誰よりも頑張ることで補わなければ”ダメ”だと思いながら、我武者羅に働き続けた。

 

今でも覚えている。当時は出社から退勤まで、15時間働いていた。休憩はあったり、なかったり。心身を追い詰めながらも、頑張らない自分は無価値と思えてならなかった。

 

怒鳴られても皮肉を言われても、実力が無い自分にとってはそういわれても文句は言えないと感情を押し殺し、それどころか自分さえ卑下し、僕は滅私奉公に努めた。

 

その内休日も消えていった。自分は休みを取っても良いくらい働いているのかと思うと、とてもそうとは思えなかったからだ。思うに、この時点から既に壊れている。

 

そして遠からず、時間の感覚も、曜日の感覚も消えた。「辛い」「キツい」という感情さえ失せたあの頃の自分が、何を思い、何をしてきたか、もう全て思い出せない。

 

・・そして無理を重ねた結果、24歳の時に心を壊してしまった。療養中、本当に独りになったとき、僕は自分の心が発していたかすかな声を聞く機会を、初めて得られた。

 

自分が本当に「どうしたいか」。それを理解することが、僕にとっての本当の喜びと充実の発見に繋がるのだと気づいたのは、この時だったように、今は思う。

 

それでも、いざ健康を取り戻してみれば、休んで穴を開けた分、社会から一時期だが脱落した分、再び他者の期待を追い求めてしまう自分がいた。

 

心に問いかける声は再び遠ざかり、頑張りに反比例して、ただ空虚さを感じるようになった。また同じことを繰り返すのだろうかと、自分に辟易し始めたところもある。

 

・・しかし突然、僕は気が付いた。なぜこれが突然頭に浮かんだのか、その理由も時期も、思い出すことはもうできないが、その刹那はよく覚えている。

 

「俺は、ここまで自分を追い詰めてまで、一体何をしたいんだ?」

 

頭の中で響いたこの問いは、意外なもので、かつ自分にとって強いインパクトを残した。なぜなら、その問いに、僕は即答できなかったからだ。

 

皆から認められたいから?皆にすごいと言われたいから?そのいずれも”正解ではない”と、僕のメタは反発した

 

「じゃあ俺は、ここまで自分を追い詰めてまで、一体何をしたいんだ?」―この疑念によって、まるで止まっていた時計の針が動き出すような感覚を抱いた。

 

この問いをきっかけに、僕は心の内なる声に耳を傾け始めた。自分が本当は何をしたいのか。逆に、何がしたくないのか。本当は何を感じているのか。

 

そうした問いを重ねた結果、「他人が求める価値観ではなく、自分の本心を聴く方が、僕の幸福にはずっと大切だ」という確信に辿り着いたのだ。

 

それ以来、僕は手前味噌だが、自分の本心を隠さずに生きている。他者の評価や意見より、自分の心の声を最優先に行動するようにしている。

 

「明鏡止水」。この言葉は、今では僕が心の中に湧き上がる声を静かに受け入れるための境地を象徴している。

 

雑念が去り、澄んだ心の中に至って初めて、自分の本心に耳を傾けられる。それがこの言葉が示す、もう一つの意味だと感じている。

 

「なあ、お前はどうしたいんだい?」

 

折に触れて、僕は僕にこう問う。今では随分、心の声を拾うことにも慣れたように思う。

 

―もしこの話に何か感じるものがあったのなら、ぜひあなたも、あなたの心の声に耳を傾けてみてほしい。無理に答えを探さず、まずは耳を傾けてみるだけでいいから。

 

そしてその声が、あなたにとってとても意外で、かつ心を躍らせるものであることを、僕は願っている。

 

さて。過去最長の文字数になったが、ここで筆を置くことにする。ここまで読んでくださった方へ、心からの感謝を。

 

 

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