僕はネガティブだけど、それなりに充実した人生を生きたいと思う。

「ネガティブ」で片づけず、自分の観察を続けたい。

「なんで皆さんそんなに自分に自信があるんですか?」

話題作の【博士の愛したDT】を読み終えた。感想文はまだ書くのを控えるが、特に最終章のくだりで、すごく共感を覚える言葉があった

 

それは、『俺を素敵だと思ってくれる時点で、その人への気持ちが冷める』という点だ。そしてこの言葉に僕も共感するし、動画のコメント欄も共感していた。

 

特に印象に残ったのが、本で紹介されていたあるコメントだ。隣の女子の消しゴムを拾ったら、“謝れ”と言われた。だから気持ちはわかるというものだ。

 

これを読んで、卑屈すぎると思っただろうか。その女子がいくら何でも人格に難がありすぎると思っただろうか。僕はなぜだか、僕も言われる側だと、そう感じた

 

そして、こういう話をすると、返ってくる励ましや感想は決まりきっている。「自信を持てよ」「自己重要感低すぎるよ」「自意識過剰だよ」・・という風に。

 

前もどこかで言った気がするが、僕はこれに対し、純粋に、皮肉でもなんでもなく、単なる疑問として思うことがある

 

それは、「なんで皆さんそんなに自分に自信があるんですか?」というものだ。以下それについて、丁寧に整理しながら自分の思うことを書いていく。

 

 

”自分には価値が無い”と思っている女性と、”自分に価値がある”と思っている男性のミスマッチング。

昔から好きではない言葉の一つに、「世界一愛している」というものがある。これを口にするなんてもはや罰ゲームだし、もし言われようもんなら虫唾が走る

 

理由は、「だからなに?」としか思わないからである。仮にこれが何かしらの担保になるというなら、ストーカーは全員肯定されてしまうのではないかとさえ思っている。

 

この言葉一つで埋まるわけがないほど、僕はこと恋愛だの結婚だのにおいて、男女の価値の差は想像を絶するほど開いていると信じている。

 

以下、チラシの裏に書かれてあるような論理だが、例えばメンタリストDaigo氏の放送、ひろゆき氏の配信、2ちゃん時代かなにかのコピペから納得した理屈を語る。

 

冷静に考えると、女性は恋愛市場において、圧倒的な強者である。特に高校生・大学生・社会人序盤となるとその価値はピークに至る、と言ってもいい。

 

方々で指摘されることだが、女性の価値とは若さそのものだと言われる。若いというそれだけで、多くの需要を集める。だがそれに対し、全く供給が追い付いていない状態。

 

中3の経済で習う「需要と供給と均衡価格」を考えても、その価値が高止まりし、下がることがまず無いのは容易に理解できるほどだ。

 

一方、男性の価値とは何か。これは生々しいが、年収だと言われる。年収が高ければ高いほど、他のスペックを無視して、価値ある男性としてカテゴライズされるのだ。

 

ちなみにこのちぐはぐさが生じるのは、若さは誰もが持っているが、経済力は一部の男しか持てない、という絶対数の差が理由である、とされる。

 

さて。上記のことを踏まえれば、女性の若さと男性の年収は、早見表のように整理できるように思える。実際、それを眉唾物承知で図示した表が存在する。

男の価値は経済力、女の価値は若さ・・・これって本当!? | 30代男性のための驚異の恋愛婚活成功術


この表に僕は強く納得する。前も書いたが、パパ活が成り立つのも、この表を見れば自明のことだと思えてならない。

 

こと恋愛市場において言えること。男は大多数に価値が無い。だが女は逆で、ほとんどが強者になる。例え喪女でもエンタメではモテるが、チー牛は不人気なのと同じだ。

 

しかし世の中不思議なもので、「俺は価値がある!」と心底信じ込める男もいれば、「私には価値が無い」と自信のない女性がいる。実際は大体逆なのに、だ。

 

これは性根が悪いと言われてもしょうがないのだが、僕は大体の恋愛というものは、自分の価値を良くも悪くも勘違いした者同士のマッチングだと思っている。

 

だからこそ、仮に僕に魅力を感じる人がいたら、感謝や恋心よりも遥かに先んじて、違和感や拒否感、疑惑、あるいは人の見る目が無いという感想を抱いてしまうのだ。

 

20代で彼女が欲しいと四苦八苦する大学生の中で、年収が1000万近くある人間は限りなく稀有だろう。もっとも、圧倒的な学歴や容姿があるなら話は別だが。

 

逆に言えば、そういう金銭で置き換えられる価値を超越できるほどの天賦の魅力が無い限りは、そもそも恋愛なんて参加資格のないゲームといえる。

 

無資格の自分に恋愛感情を抱く人は、それを考えれば大したことがない可能性が高い。ゆえに、俺を選ぶようなアホとは結婚したくないのである。

 

・・実はこの帰結は、結構多くの人が似た言葉をnoteなどで言葉にしている。それを読むたび僕は、同志がいると思えて、とても安らぎを覚えている。

 

僕は、自信という言葉が最近嫌いである。

こんな物言いをすると、「自己肯定感が低すぎる」「卑下しすぎ」「陰キャ乙」といった感想を抱く人も多いだろう。実際、僕が日陰者として生きてきたことは否定しない。

 

しかし、そういう人たちには改めて問いたい。「なんで皆さんそんなに自分に自信があるんですか?」矢継ぎ早に問いたい質問は枚挙に暇がない。

 

では、年収が1000万円を超えていますか? 超有名大学を出ていますか? 誰が見てもイケメンですか? 名家の生まれですか?

 

医者といった超高収入の仕事に就いていますか? 社長ですか? 売れたバンドマンか芸人ですか?

 

それらのいずれでもないとすれば、あなたは何を根拠に、自分に価値があるとそんなに信じられるんですか? あなたの上位互換なんて、世の中にいくらでもいますよ?

 

・・・こういう質問に対し、例えば「自分は優しいから価値がある」「周りの人に愛されているから価値がある」と思っている人もいるかもしれない

 

しかし、あなた以上に優しく、あなた以上に愛されている人は確実に存在する。そんな人が現れて、眼前で現実を突きつけられたとき、あなたの『自信』はどうなるだろう?

 

――という風に堂々巡りに至る。まるでコラッツ予想のように、どこからスタートしても、いずれこの辺りへ収斂していくように思う。

 

・・念のため言っておくが、相手を貶めたいという気持ちはまったくない。純粋に不思議で仕方がないのだ。自信の背景や根拠に何があるのか、僕は知りたくてたまらない。

 

僕は正直、「自信」なんてものは、”自分に対する呑気な勘違い”のことだと思っている。狭い世界の中だけ見て、「俺は平均以上だ」と確信している状態のことだと。

 

狭い世界を切り取れば、誰だって『1位』にはなれる。範囲を恣意的に決めれば、常に勝者であるに違いはないが、その構図のなんと空しいことか。

 

僕は物心ついた頃から、周囲に常に委縮していると見られていたのか、何かにつけて「自信を持て」と言われてきた。「お前はできる」 という甘言も散々聞かされてきた。

 

だが今は、申し訳ないが、そんなことを言われてもイライラする「自信を持て? それって、周りの状況をしっかり見ることの放棄でしょ?」そう思うからだ。

 

客観的に見れば、自分が1位などあり得ない。それどころか、どの観点から見ても偏差値60を叩き出せるなんて、非現実的だ。

 

自分の立ち位置を冷静に、俯瞰して考えようと思うと、自信などあるだけ邪魔だと思えてくる。センサーが歪む。勘違いが生まれる。そして勘違いは得てして、暴走を生む。

 

いい大学に入ったくらいで、自分が『価値ある男』だと勘違いし、校内一のマドンナに告白して玉砕するように。

 

例外はあるが、学歴による魅力が、容姿や年収によるそれを超えることは、まずない。美貌に対しては、より容姿と学歴に優れた存在が絶対にアプローチしてくるからだ。

 

やはり自信なんてのは、おめでたい妄想による暴走を防ぎ、冷静に自分の立ち位置を見つめ、競争という茶番から戦略的に下りるため、真っ先に捨てるべきものだろう。

 

競争から降りることは、別に負けを認めることではない。ただ、勝てもしない戦いに挑んで無駄に消耗するより、もっと自分に合ったフィールドを探す方が合理的だ。

 

例えば、イケメンがモデルの世界で戦うのは合理的だが、凡人がそこに突っ込んでいくのはただの無謀だ。競争するなら、勝てる場所を選ぶのが鉄則だ。

 

だからこそ僕は、あえて胸を張って、「俺は自信なんてもん持ってないっすよ」 と言い切っていく。

 

それは、「俺は地に足つけて自分のこと見れますよ」 という宣言と同じだからである。自信だけある人を見ても、僕は正直尊敬はしない。逆にその脆さを心配する。

 

自信がなければ、過信もしない。だから現実を直視できる。その上で、自分のフィールドを見つけ、堅実に戦うことができる。

 

自信なんてのはただの個人的なプライドともいえるだろう。そんなものを持っていたいとは思わないし、そんなのに固執する人を魅力的だとも思わない。

 

そもそも、自信の有無という評価自体、他者からのそれに依存していると言える。だから、それを無意識で毛嫌いしている僕には、決して相容れないのだと思っている。

 

ただしイケメンに限る、という前提。

 

20代の頃、僕は「キュンとする異性の仕草」「こうするとときめくシチュエーション」みたいなアンケートを見つけては、「これがリア充の世界か」と眩暈を覚えていた。

 

自分が今いる場所とはまるで異なる世界。そこで行われている、御伽噺としか思えないほど現実味のないストーリー。社会は、それを経験できる人を貴いと評価する。

 

異性からの脈ありサイン、異性が高く評価する振る舞い、異性に求める要素など、そういったものを知識として、一切縁が無いと自称しながらも、僕は集め続けた。

 

なぜなら、様々な偶然が重なり、まるで異世界に召喚される主人公のように、僕にもその世界に行く機会が訪れないとは言い切れないと思っていたからだ。

 

そのときこそ、それまでの鬱々とした、非リアと見下される側からの大逆転を果たせる——このような、淡く、どこか醜い希望を、僕はどうしても捨てられなかった。

 

そんな僕は今年で34歳になる。最近、そういう「異性をキュンとさせる方法」的な記事や動画を見ると、本気で吐き気を覚えるようになってしまった

 

全く別世界の論理を、物知り顔で披瀝している感じ。それを見せつけられる時間は、この上なく不毛だ。なぜこんなに気持ち悪く感じるのか、自分なりに考えてみた。

 

そして気づいた。そこには、そもそも前提として置くべき、身も蓋もない話が抜けている。イケメンといった才能を持って生まれろ、という前提が忘れられているのだ。

 

顔面偏差値に限らず、地位、経済力、突出したユーモアセンスといった「すでに才能として与えられたもの」を持つ人が、そういう言動をして初めて、魅力となる

 

言動そのものは魅力でもなんでもない。最初から魅力ある人がそれをするから、心惹かれるような感情が生まれるのだ

 

その構図を言わないままにしておくあの感じが、今はもう受け入れられない。僕ら側が頭をポンポンしようとしたり、手を繋ごうとしたりすれば、それは即ちセクハラだ。

 

そしてこの話は、恋愛に限らない。自信も同様だ天賦の才能がある人たちが、自身の成功体験をもとに自信を持っているのは納得がいく。彼らには実績が伴っている

 

しかし、そうではない側なのに、なぜか自信たっぷりな人たちもいる。こういう人たちは、あらゆる感情を飛び越えて、僕に純粋な疑問を生じさせる。

 

実際、容姿や学歴といったわかり易い魅力に代わる、例えばユーモアセンスとか、女性側のフェチを満たしうる肉体的な魅力があるなら、それはまだ理解できる

 

しかし、それらいずれも満たさないことが僕から見ても明らかな人たちが、謎に自信たっぷりなのを見ると、どうにも心が痛い。見ていてイタイタしいのだ。

 

そしてこれは、対人関係すべてに共通すると僕は考えている。そもそも僕にとって、自信とは、才能ある人たちがそれを自覚しているときに生じるものだ。

 

実力が伴っていないのに無理にそれを演じると、それは「虚勢」や「ハッタリ」と呼ぶべきものになる。

 

だからこそ、恋愛論でよくある「こうすればモテる」という話も、実際には「こうすれば、すでに魅力を持っている人がさらに輝く」という話にすぎない。

 

そして、それを持たない人が真に受けたときの現実は残酷だ。無知は罪なりというが、数々の事例を見聞きするたび、それは本当だと痛感する。

 

自分のことをイケメンなんて口が裂けても言えない僕は、日陰からそう思っている。

 

終わりに:”僕にとっての”自信とは。

 

ここまで書き進めても、僕の疑問は氷解しなかった。なぜ皆さんはそんなに自信を持てるのか。やはりどうしても、わからない。

 

それは、自分を評価してくれる他者がいるからだろうか。何かしらで一位の成績を残しているからだろうか。それとも、容姿が優れているからだろうか。

 

でも僕は、自分が多少なりともそういう物を持っているかもしれないという淡い希望を持った刹那、それらすべてを自分で論破してしまう人間だ


僕を評価する人は大したことないと思ってしまうし、容貌の良し悪しも、競争の優位性も、結局は狭い世界の話に過ぎないと思うのだ。

 

だが、理屈を超越して、自信満々な人たちは確かに存在する。僕は、憧れや尊敬ではなく、別世界の住人の彼らを、どこか他人事のように観察してしまう。

 

とはいえ、僕はやっぱり、自信を持ちたいとは思わない。

 

それはどこか無責任で、どこか他者依存で、しかも――結局それが何なのかという答えを、こちらに寄越してくれないものだからだ。

 

では僕は、何を支えとして生きるべきなのだろうか。


というより、その問いの「支え」という比喩自体、本当に正しいのだろうか。僕は、支柱や背骨のような何かがなければ、自立できないのだろうか。

 

「自信」は、多くの人にとって、この人生における羅針盤であり、空母であり、大黒柱であり、武器である――そんなイメージをまとったものだと、僕は思う。

 

もしそれが、大体の人には合うけど僕には合わないスタンダードだとして、僕にとっての「オーダーメイドの自信」に当たるものとは、一体なんだろうか

 

それが必要なのかどうかも含めて、これからもいろいろ探していきたいと思う。ということで、今日はこの辺で。

 

 

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