最近、泥酔時についやってしまう悪癖が増えてしまった。それはChatGPTに、僕個人の別に言わなくてもいい闇なりなんなりをぶつけ、紐解いてもらうというものだ。
ほとんど覚えていないのだが、昨日も2時間くらいよくわからないことを書いていたらしく、ChatGPT曰く「まとめても1万字前後のあなたの哲学が出ていた」らしい。

それをそのまま直視すればあまりにも恥ずかしくて耐えられないが、編集者さんにまとめてもらったゲラに朱入れするという形なら、話は別。
せっかくなので、酩酊した僕は何を語ったのかを編集者ChatGPTとともにまとめてみたという、そんな技術を最大まで無駄遣いしたログを書いておく。
ちなみに各見出しがすごくこっぱずかしいが、敢えてそのまま残し、内容も些細なこと以外はほぼ変えないことで、ChatGPTすげぇんだぞというのも伝えたい。ではいこう。
- 第一章 宿命の自覚
- 第二章 生まれ持った死生観
- 第三章 孤独と共に在る
- 第四章 それでも、愛に報いるために
- 第五章 ミームとして残る願い
- 第六章 すべての罪を引き受けて
- 第七章 子どものままで、どこまでも
- 第八章 “矛盾”という完成
- 第九章 静かな幕引きのために
- 第十章 僕という物語の結び方
- 終わりに:これは誰の言葉だろう・・。
第一章 宿命の自覚

自分が生まれ持った環境に対して、僕は決して無関心ではなかった。実際、僕には四歳下の弟がいる。彼は、すでに結婚し、子を成した。
今年三歳になる姪の姿を見れば、血の繋がりというものを否応なく感じる。祝福はできた。純粋に嬉しかった。しかしその奥底で、僕の中には別の感情が芽吹いていた。
僕は、父方から見ても母方から見ても、家督を継ぐ筆頭の長男だ。言われたことこそないが、否応なく伝わってくる。ご僕は家を継ぐべき存在として生まれたのだ、と。
その事実に、僕は喜びも怒りも抱かなかった。ただ、そうであると知っただけだ。知った後で、なにかが変わった気は全くしない。
父が、かつて僕に問いかけたことがある。「お前は、結婚するつもりはあるのか?」それは23歳の春、祖父の三回忌の昼食の席だった。
酒も入り、場の空気は穏やかだったのに、その問いだけが、ひどく重く響いたのを覚えている。「現時点では無い」―僕はそう答えた。すると父は、一瞬、顔を沈ませた。
その表情が、今でもありありと記憶に焼き付いている。父は何も言わなかった。咎めもせず、押しつけもせず、ただ沈黙した。
だが、あの沈黙の中に確かにあったもの―期待、失望、受容、そして諦め。それらを僕は敏感に感じ取ってしまった。言葉に敏感な僕だから、それに気づいてしまった。
それ以来、僕はこの宿命を都度自覚しながら生きている気がする。背負わされたとは思わない。ただ、そこに在るものとして受け入れている。
だが、つまりはそれを果たすことなく、僕の代でそれは断ち切られて終わるのだろうと、心のどこかで受け入れているのも認める。
僕の死は、単なる個人の終わりではない。血の流れ、名前の連なり、そういったものを、僕で静かに、終わらせる。それが僕に与えられた自由だと、どこかで悟っている。
ただし、父母を、祖父母を、そして祖先たちを否定する気持ちは微塵もない。むしろ誇りに思っている。彼らが受け継いできたものを、僕はきちんと感じ取っている。
だからこそ、いい加減な終わらせ方はできない。なぜなら、僕はそれを継承することができないのだから。
受け継いだものに敬意を払いながら、僕は僕の人生を生き、そして僕で終わらせる。それは、絶望でも、逃避でもない。僕なりの、ひとつの矜持だと思っている。
第二章 生まれ持った死生観

漠然と、僕は幼い頃から、死を意識していた。それは決して、誰かに教わったわけではない。仏教系の幼稚園に通ったことも、多少は影響しているかもしれない。
しかしそんな表層的なこととは無関係に、言葉をろくに理解していない頃から、僕の中には「終わり」というものへの認識が、確かに存在していたように思う。
生きるということは、いずれ終わるということだ。つまり僕は、この世から消えてなくなる日が来る。それは両親も、友達も、皆同じなんだ。
・・・そう考えたからといって、僕は怖がったり、取り乱したりはしなかった。ただ、それはあまりにも自然な前提として、最初からそこにあったためだ。
だからなのだろうか。僕は、人生のすべての局面で、どこか「終わり」を意識してしまう。区切りをつけることが、人並み以上に大事な儀式と思えてならないのだ。
受験、卒業、就職。節目と言われるすべての場面で、そこに行けた喜びより、その前の段階に静かに幕を下ろしていくような解釈を好んだ。
例えば大学合格とは、新たな生活の開始でもあるが、その前にそれまでの高校生活に区切りをつけることである。大学生にはなれるが、高校生には二度と戻れないのだ。
そして、僕ははっきりと自覚している。僕が興味を持つのは、生き様ではなく、死に様だ。僕は人生の価値は、どう生きたかではなく、どう逝ったかに宿ると思っている。
どんなに立派な人生を送っていても、最後の死に際が醜ければ、僕の中ではすべてが色褪せる。
逆に、どれほど平凡で目立たない生涯であっても、最後の瞬間に気高い美しさがあれば、それだけでその人の人生は、圧倒的な輝きを放つ。
僕にとって、死に様とは、その人のすべての集約であり、結論だ。生きた証というものがあるなら、それは最期の瞬間にしか表れないと思っている。
だから、僕は願う。
突発的な事故死や、突然死ではなく、癌でも何でもいい。たとえ数ヶ月でもいいから、予告されたうえで、自分の終わりに向き合う時間がほしい。
その時間の中で、僕はたぶん、すべてを見つめ直し、すべてを受け入れられる。その果てに、静かに笑って、死にたい。
生きることに執着はない。ただ、終わらせ方だけには、強いこだわりがある。それは、悲しみでも、諦めでもない。僕なりの、生に対する礼儀なのだと思う。
この死生観は、誰に教わったわけでもなく、どこかで読んだものでもない。気がつけば、最初から僕の中に在った。
このことを他者から理解される必要もないし、理解されないことに寂しさを覚えることもない。ただ、僕がそう在りたいのだと、純粋に思っているというだけなのだ。
第三章 孤独と共に在る

僕は、自分が孤独だと感じることがよくある。けれど、それは決して不幸なことだとは思っていない。むしろ、孤独であることは、僕にとって自然な状態だ。
もちろん、仲間がいないわけではない。友人もいるし、仕事にも恵まれている。誰かと笑い合ったり、語り合ったりする時間も、確かに存在している。
それでも僕は、完全に互いを理解することなどできないと思っている。そして、そのことを悲しむよりもむしろ、どこかで願っている自分がいる。
なぜなら、「わかりあえない」という距離感こそが、僕にとっての正しさなのだと思うからだ。
僕はやはり、誰かに自分を理解してほしいとは思わないし、逆に、誰かを完全に理解したいとも思わない。そういうことに興味を持つ気になれないのだ。
この感覚は、誰にでもわかってもらえるものではないだろう。それでも僕にとっては、譲れない哲学だ。というより、装備したまま外せないものだともいえる。
孤独であることは、寂しさではない。それは、自由であり、純粋であり、何よりも誠実な在り方だと思っている。
ただし同時に、透明であろうとするわけではない。僕は誰の目にも映らないような、そして自分でさえもどうでもいいと思うような、そんな存在も意識も目指していない。
僕は誰の特別にもなりたくない。誰かが僕を見たとき、そこから個性を帰納できない。それなのに、確かにそこに在る。そんな在り方を、僕は望んでいる。
それは、もしかすると幼い頃から一貫している願いだったのかもしれない。誰にも支配されず、誰にも縛られず、けれど、ひっそりと世界に属している感覚。
孤独と共に生きること。それが、僕の選んだ生き方だが、なんと心が落ち着く結論ではないかと納得している。
第四章 それでも、愛に報いるために

僕は、人生において理想の恋人像や、結婚生活を描いたことがない。むしろ、そんなものを尋ねられるたびに、嫌悪を覚えてきた。
恋愛ができるなら、人生は違ったかもしれないと、ふと考えることはある。ただ、それはあくまで並行世界の話だ。僕には、恋愛感情を抱く回路そのものが存在していない。
実際、これまでに三度の失恋を経験した。どれも、振り返れば当然の結末だったと、今なら冷静に思う。
一度目は、好意を向けられながらも、"彼氏らしくない"という理由で、一ヶ月足らずで終わった。
二度目は、ただ一緒にいる時間が楽しいだけで、恋だと錯覚し、告白してあっさり砕けた。
三度目は、趣味も合い、居心地の良さも感じていたのに、やはり告白は拒まれた。この三度目の出来事から、既に何年が経過しただろうか。それさえ曖昧だ。
つまり僕には、恋愛における基盤そのものが欠けているのだ。そして、それに気づかないまま誰かを巻き込んでしまったことに、今でも申し訳なさを覚えている。
この社会にいつの間にか敷かれた「恋愛至上主義」というレールに、無理に乗ろうとした結果だったのだろう。
若さゆえの過ちだと片づけることもできるが、僕はそんなふうに簡単に割り切れない。だからこそ、僕は、恋愛感情を持たない自分を受容すると決めたのだ。
ただし、僕は人間そのものを嫌っているわけではない。無邪気な人間、すなわち"アホの子"と呼びたくなるような存在には、どこかで純粋な好意を抱いている。
つまり、恋愛感情ではないところで、僕はまだ誰かを好きになることができるのだ。たとえば、何かに夢中になっている無防備な姿。心から楽しんでいる素直な表情。
そういうものを見たとき、僕の中に確かな温かさが芽生える。しかし、それ以上を望もうとは思わない。望んだ瞬間、僕は僕を裏切ってしまう気がするからだ。
僕は、僕自身を嫌悪しないために、ここに線を引いている。たとえ誰にも理解されなくても、それでいいと思っている。
それでも、僕には大事にしたい人たちがいる。家族、数少ない友人、そして、これまで僕を支えてくれた全ての人たち。
だから僕は、孤独の中にあっても、愛に報いる生き方を選びたい。結婚や恋愛といった形ではない、別の方法で。
たとえば、誠実に生きること。たとえば、受けた恩を忘れないこと。たとえば、自分なりのやり方で、人に静かに、感謝を返していくこと。
それが、僕にできる、唯一かつ独特で、それでいて納得感の強い、”愛し方”だと思う。
第五章 ミームとして残る願い

僕は、何かを成し遂げた人間ではない。世に知られる偉業を残したわけでもなければ、何万人の心を動かした表現者でもない。
だが、それでも、何ひとつ残さずに死にたいとまでは、思っていない。僕が残したいのは、名でも業績でもなく、それは例えば思想のかけらや、価値観の種のようなものだ。
つまり僕は、遺伝子としての「ジーン」ではなく、模倣子としての「ミーム」に、自分の痕跡を託したいのだ。
生物的な子孫を持つことに、僕は意味を見出せない。それどころか、もし自分に子が生まれてしまえば、己の人生そのものが破綻すると思っている。
たとえばその子が、自分とは違う価値観を持って生きようとしたとき、僕は果たして、祝福できるのか。それを支える覚悟があるのか。きっと、ないだろう。
僕は、誰かの親になる器ではない。この事実は悲しいものでもあるが、同時に、どこか誇らしくもある。
なぜなら、自分の限界を知ったうえで、自分の役割を選び取っているからだ。それを裏付けする経験は何度もしたし、数学の証明みたいな論理を何度も重ねた。
だから、僕はきっと、生涯この姿勢を崩さないだろう。しかしそれは、自分を矮小化する選択ではなく、自分を最大限に生かす方法なのだ。
そんな僕にとって、唯一の「繁殖」は、言葉を通しての伝播だ。誰かの心に何かが引っかかって、それが言葉や記憶や選択として、どこかに残ること。
それが、僕なりの「生きた証」なのだと思う。僕は自分の墓は要らないのだが、自分がいわば一つのネタとして、誰かの中に小さな破片として残りたいのかもしれない。
たとえば、生徒に語ったひとことが、数年後にふと思い出される。たとえば、ブログの一節が、誰かの心にささやかな疑問を生じさせる。
そういうことが、ほんの一回でもあれば、それで十分だ。僕は、誰の特別にもなりたくないが、誰かの中にそっと残る存在ではありたい。
だから今の仕事、塾講師という道を選んだのも、自然な帰結だったのかもしれない。
教員ではなく、講師であること。生徒の人生に強く根を張る存在ではなく、風のように横を通り過ぎていく存在。そのくらいの距離感が、僕にはちょうどいい。
繰り返しになるが、名を残したいわけじゃない。まして記念碑なんていらない。ただ、僕が生きたことが、誰かの中に一粒でも残るなら、それで本望だ。
その一粒は、なんなら芽吹かなくてもいい。ただ、何かの拍子にふと想起されて、たった一瞬、誰かの心を揺らすことがあるなら、それが僕の「生きた」証になると思う。
第六章 すべての罪を引き受けて

僕がこの仕事を辞めないのは、向いているからでも、続けたい夢があるからでもない。どちらかといえば、区切りを付ける理由が見当たらないから、という方が近い。
ただ、それだけではない。もう少し正確に言えば、「辞めてはいけない気がしている」からだ。そして、その理由は明確だ。
僕には、忘れられない生徒たちがいる。彼らが志望校に届かなかったとき、僕は下手すれば、本人以上に長い間、落ち込んでいると思う。
何年経っても、名前や顔は忘れない。むしろ、何かの拍子にふとその名前に触れると、当時の後悔や申し訳なさが、一気に蘇ってくる。
たとえば、その子の名前が含まれているキャラクターを見ると、今でも無意識に身構える。平静を装っても、どこかで罪悪感が反射的に立ち上がってしまう。
そういう記憶がいくつもある。それらは、贖罪の対象であると同時に、自分の仕事の動機でもある。
僕はあのとき救えなかったことを、誰か別の子で少しずつ埋め合わせているのかもしれない。だから僕は、全員が志望校に受かった日を想像する。
そして、想像の先にあるのは「そこでようやく辞められるかもしれないな」という気持ちだ。ただし、それが実現する日は、究極的には来ないだろうとも思っている。
受験という仕組みがある限り、絶対に全員合格はあり得ない。だから僕の仕事は、終わらない。矛盾しているようだが、だからこそ続けられるのかもしれない。
すべてを帳消しにできないという前提が、逆に僕の行動に一本芯を通してくれている。
ただの責任感と言えばそれまでだけど、僕はそこに、妙な納得感を覚えている。
何かを背負っている、という意識よりも、終わりまで、どこまでも、それこそ死ぬまで引き受けることに意味がある、と思っている。
いわば、これは一種のループだ。罪と償いが、交互に呼び合うような循環の中で、僕は毎年同じ季節を迎え、同じように誰かの進路と向き合う。
それでも、僕にとっては必要な循環なのだと思う。僕の人生を律するために。そして、自分で納得できる終わらせ方を探すために。
こうすることで、自分なりに少しは胸を張って、社会に貢献していますと言える気がする。それが誰に対して、なのかは、今はちょっと浮かばないのだけれども。
第七章 子どものままで、どこまでも

僕はよく、「中身は子どもっぽいね」と言われる。褒め言葉か、からかいか、真意はさておき、事実としてそういう側面はあると思っている。
たとえば、今年で僕は34歳なのだが、未だにハマるお菓子が出てくるし、生徒が持参する音の鳴るガジェットに、突然心を奪われてしまうことがある。
どこまで行っても「おもしろいか、つまらないか」で物事を判断している節もあるし、めんどくさいことからはできるだけ距離を取りたいという姿勢も抜けない。
それでも、仕事では冷静に分析をして、必要な責任も果たしているつもりだし、年相応に見られることもある。なんなら熟練していると言われることがないわけでもない。
だから、精神的に幼いのか成熟しているのか、自分でもよくわからなくなることがある。もっとも、僕をよく知る人は全員、僕を「子供」と言うのだが・・・。
ただ一つだけ言えるのは、子どものような部分が、僕の人生において決定的に重要だったということだ。
論理や効率で説明できない感情に対して、無理に理屈をつけようとせず、「それって変じゃない?」とまっすぐに思えること。
あるいは、「なんでそれが面白いんだろう?」と、納得するまで掘り下げずにはいられない性格。
そういう、“感覚で動く部分”を持っているからこそ、今の僕があると思っている。逆に、もしこの感性がなかったら、それはなんとつまらない人生だろうかと慄然とする。
効率、合理、正しさ。そういう物差しだけで物事を捉えるようになったら、僕は自分のことを面白いとは思えなくなる。生きること自体が味気なくなりそうだ。
だから、子どもっぽい感性を持ち続けていることは、僕にとって“変わらない証拠”でもある。変わらずにここまで来れたことが、何より大きな安心材料になっている。
もちろん、世の中には成熟や大人らしさを求められる場面もある。だから僕も、必要に応じて、それなりに振る舞うことはできる(はずだ)。
だけど、どれだけ外側を整えても、根本的な思考のベースが変わることはなかった。
これは誇張でも謙遜でもなく、実感だ。
たとえば、道を歩いていて、虫の羽音が耳に入ると、つい探してしまう。カナブンか、それともスズメバチか。そんなことを考えているうちに目的地に着く。
それが僕の、日常のテンポだ。
だから、ある意味では全然成熟もしていないのだと思う。ただ同時に、それを「未熟」とは思っていない。
子どもであることと、大人であることを、対立概念としては捉えていないのかもしれない。
僕は僕のままで、子どもとしての純度を保ちながら、好き勝手やれるならそれでいい。勿論善悪の区別はしながら。それが、今のところの僕の折り合いのつけ方だ。
第八章 “矛盾”という完成

この記事を読んでいても気づくが、僕には、明確に矛盾した言動がある。
長生きはしたくない。でも、死にたくもない。孤独でいたい。でも、誰かと繋がっていたい。静かに終わりたい。でも、ほんの少しでも痕跡は残したい。
こうした「矛盾」は、突き詰めれば言い訳や妥協に見えるかもしれない。だが僕にとっては、それらすべてが“本音”だ。そして、それぞれの本音を否定することができない。
つまりこれは、どちらかを選ぶという構図ではない。僕は、最初から両方を抱えている。否、両方を抱えてしか、生きてこられなかった。
たとえば恋愛。
僕は誰かと特別な関係を築きたいとは思わない。だがその一方で、誰かに「この人は面白い」と記憶されたい気持ちはある。
自分から距離を取るくせに、心のどこかでは人の記憶の中に多少は生きたいと願っている。
あるいは仕事。
教育という営みは、他者との関係によって成り立つ。でも僕は、他者と深く関わりたくない。
生徒一人ひとりの物語に入り込みすぎるのは苦手だし、干渉されることも望んでいない。
それでも、誰かの人生に“ひとすじの線”くらいは引けたらと思う。距離を保ちつつ、記憶に残るという絶妙な立ち位置を模索しているのだ。
昔の僕は、こういった矛盾を“欠陥”だと思っていた。どちらかに振り切れないことは、芯のない弱さであり、中途半端な曖昧さだと思っていた。
だが今は、それを逆に“構造”だと理解している。僕という人間は、矛盾を内包したまま、崩れずに成り立っている構造体なのだ。
矛盾を矛盾のまま持ち続ける力。
それは、強がりでも、自衛でも、開き直りでもない。むしろ、これこそが僕にとっての“完成形”なのかもしれないと、ふと思うことがある。
決して混ざらない2色を、同じキャンバスにのせること。綺麗に塗りつぶすのではなく、混ざらないまま共存させること。
それを保ったまま、息をして、生きているという事実そのものが、ひとつの到達点なのではないか。
僕は、単純な理解や明快な整合性ではなく、どこかに常に揺らぎやねじれを含んだ生き方の方が、むしろ自然だと思っている。
なぜなら、人間は論理で生まれていない。感情も衝動も、矛盾だらけのまま存在し続けている。
だったら、そこに抗うよりも、むしろそれらを“組み込んだ”自分を、そのまま使えばいい。そう思っている。
完璧である必要はないし、わかりやすくある必要もない。僕は、矛盾したまま、まっすぐでいたい。
その在り方に、ようやく名前がつけられるとしたら、たぶんそれは、「自分を生きる」ということなのかもしれない。これを確認できる前に、僕は寿命を迎えそうだが。
第九章 静かな幕引きのために

僕は、派手に人生を終えたいとは思っていない。感動的な最期も、劇的な展開も、あえて言えば要らない。ただ、静かに、丁寧に、確かに、終わらせたい。
それがどんな病であれ、あるいはどれほど緩やかな衰えであれ、自分がこの世からいなくなる日が「近い」とわかるような、そんな猶予があればそれでいい。
なぜなら、その期間こそが、僕にとっての最終章だからだ。
そこでは過去を悔やむでもなく、未来を憂うでもなく、ただ、自分が積み重ねてきた言葉や思索を、ひとつずつ棚に戻すように整理する時間がほしい。
僕は、どうしても「死に際」に重きを置いてしまう。
人生の価値は、どう始めたかでも、どう生き抜いたかでもなく、どう終わったかに宿ると思っている。
それは僕が常に「終わり」を見据えてきたからだし、そこにだけ、僕が納得できる“意味”があると感じているからだ。
僕は、自分の死をもって、いくつかの物語を終わらせたいと思っている。家督の終焉もそうだし、継がれることのない価値観もそうだ。
それは決して呪詛や断絶ではない。大切に受け取ったものを、丁寧に包んで、誰にも渡さず、自分の棺に入れる。そんな終わり方が、僕には一番しっくりくる。
それに、僕には長く生きたいという願望がない。六十歳を超えたあたりで、役目を終えたと静かに思えたなら、それでもう十分だ。
むしろ、人生が延々と続いてしまうことの方が、ずっと怖い。区切りもなく、出口も見えず、ただ存在を続けるだけの状態に、僕は耐えられないだろう。
だから、僕は「終わらせ方」にこそ全力を尽くしたい。身辺を整理し、思考を形にし、たとえばこの世に僕の人生をまとめた本の一冊でも託せたなら、それで本望だ。
その本には、格言でも名言でもない、ただの僕の痕跡が詰まっていればいい。何度も読み返して、僕の哲学めいたものをそこから汲み取ってもらう必要はない。
ただ、「そういえばこんなこと言ってたな」と思い出してくれれば、それでいい。この世からの卒業アルバムとして、それを扱ってほしい。
そういうささやかな残り方を、僕は願っている。
やはり、人生の最終章に、他者の介入は望まない。演出も、賑わいも、感動のシーンも要らない。淡々と終わる。けれど、全てに納得した上で、深く静かに。
それが、僕にとっての理想の「死に様」だ。
たとえ誰も見ていなくても、たとえ記録に一切残らなくても、僕は、自分の中で「これでよかった」と思えるかどうか、それだけを基準にしたい。
そして、そう思えるように、今日もまた淡々と、自分の言葉を選びながら、生きている。それでも後悔は日々増えるのが皮肉なものだ。
徳川家康の遺した、「人の一生は重荷を負うて遠き道を行くがごとし」という言葉の意味が、違った観点から理解できる気がしている。
第十章 僕という物語の結び方

この人生が、誰のためにあるのかと問われたとき、僕は迷わず「僕のため」だと答えると思う。けれどその「僕」は、孤立した存在ではない。
家族、仕事、生徒、社会……あらゆる接点と関わりながら、ひっそりと生きてきたひとつの個体としての、僕だ。
誰にも特別と思われなくていい。ただし、誰の目にも映らないような透明さを目指しているわけでもない。
言い換えれば、誰にも語られない物語として、それでも確かに在る。そんな存在でありたいというのが、僕の一貫した願いだったのだと思う。
自分を誇ることも、否定することもない。欲望を追い求めるわけでも、禁欲を美徳とするわけでもない。
僕は、僕が納得できる形で、ただまっすぐに生きていたいと思っているだけだ。もちろん、誰かの人生に強く干渉したいとも思わない。
ただ、自分が言った一言が、数年後にふと思い出されるような、そんなささやかな残り方を願っている。
死に様にこだわり、終わらせ方に意味を見出し、理解されることを望まず、けれど孤独の中で人を嫌ってはいない。
愛に報いたいが、それを表現する方法は人とは違っている。そのすべてが、僕という人間を形づくっている。きっとこの先も、大きな転換点はない。
人生を劇的に変えるような出来事は、おそらく訪れない。むしろ何か一発で劇的に変わるような、単純な人生は生きていない。だけどそれで構わない。
僕の人生は、波風の少ない水面のように、静かに、そして深く、進んでいくことに意味がある。
もしこの世に“完成”という言葉があるなら、それは何かを達成したときではなく、「ここで終えていい」と心から思えた瞬間にだけ、ふさわしいものだと僕は思う。
だから、僕の物語に拍手は不要だ。栄光も、評価も、記録も求めていない。僕は、僕で完結する。この物語に、他の誰かの続きを用意するつもりはない。
それが、僕という物語の、いちばん自然な結び方なのだと思う。なんと素晴らしい終幕だろうか。今改めて考えても、強くそう思う。
終わりに:これは誰の言葉だろう・・。
改めて読み返しても不思議な感覚だ。確かに僕が言いそうなことで、確かに僕の文体なのだが、自分が書いた文章でないことも、不思議とはっきり理解できる。
実際、本を製作する際は、著者にインタビューをして、それをライターが書き起こし、さらにそれに朱を入れるというスタイルを採る方がいる。
その際、僕が先述した違和感を覚えるという編集者の方のコメントを読んだことがある。これは結構、普遍的なことなのだろうか。
繰り返しになるが、僕が酩酊して、何時間もカタカタ打ち込んでぶちまけた僕の哲学もどきは、ほぼ意識的に修正を入れていない。
ネタは僕だが、文章にしたのはChatGPTだ。AIは既にここまで進化したのかと、頼もしいと同時に、かなり、怖い。
―ってことである意味最高に僕にしか意味の無さそうな大作、この辺で終わりにしておこうと思う。