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人見知り的 もののあはれなる人生訓

人見知りの人見知りによる人見知りの為のなんちゃら。

人見知りが抱く淡い希望とそれを打ち砕く現実、からのそれに代わる何か。

僕は自信というものがよく分からない。

自分を信じることというのは、どちらかというと足元掬われるから駄目だよとかいう理由を付けて、否定される側の思想だと長いこと思っていたからだ。

また、どこまで行っても、どんなジャンルでも、世の中には確実に自分より上がいるから、俺強えぇだとかなんとかいう自信を持つだけ、鼻で笑われるだけの恥ずかしいことだと勝手に妄信していたというのもある。

今思えばこの2つの僕自身の考え方は、どちらも超くだらない、みみっちいものだと思うのだが。

 

だから、矛盾するようだが、僕が唯一自分に自信を持っていることは、誰よりも謙虚であるということくらいであった。

自分勝手なことはしない。人の意見は素直に聞く。そうすることがある種成功への道だと信じていた。

人見知り気質があれば、自己主張が極めて苦手故、こういう思想に落ち着く人も多いのではなかろうか。

本棚を見ても、僕のこの考え方を支持する本ばっか並んでいる。それはそういうのを選んで買ったからというだけなんだけどね。

 

そういうわけで僕は、謙虚ささえ貫けば、いつか報われる日がくるだろう、という淡い希望を抱いていた。

割とこないだまで。

 

現実はそうではないというのを知って以来、この希望は消えた。

でも、それに代わるものも同時に見つけた。

 

今日はこの辺をうだうだと述べようと思う。

  

謙虚さを貫いた果て。

 

謙虚という言葉を捻くれて解釈すれば、自己主張をしないということである。

勿論、自分最優先で、筋道も通さず他者をむやみやたらに振り回す人は、蛇蝎の如く嫌われる。

だが、自己主張皆無の人も、それはそれで、嫌われこそせずとも、記憶の片隅に残ることもない。

つまり、自信が極端にあれば悪い意味で記憶に残り、極端になければ悪い意味で残らないという、意外な表裏一体さがここにあるのではなかろうか。

 

そう。

謙虚さを貫いた後に待っているのは、「誰だっけ」程度の印象か、「扱いやすいなあ」という裏を感じる評価くらいである。

性格で言えば、温厚とかその辺に値踏みされる。一見聞こえは良いが、下手すれば下に見られ得る、ある種危ない格付けである。

また、「何がいい?」と訊かれて「何でもいい」と返すのは、面倒な問答の典型例としょっちゅう挙げられるように、意見が無いことはマイナスに作用することもままある。

 

謙虚な”だけ”の人は、魅力的に映ることは稀だ。

男であれば同性から一目置かれることはあるかもしれないし、女性であれば奥ゆかしさから男性の評価を得ることもあるかもしれない。

でも人間関係においては、単品で割とプラスに作用する要素は少ないような気がする。

特に人間的な魅力というヤツに寄与するかどうかで言えば、だが。

自分が無いという要素が積み重なると、最初は一目置かれていても、やがてツマラナイ人間だなと思われるという話は、恐ろしいことによく聞くテーマである。

 

というわけで、謙虚さ”のみ”を貫いても、待っているのは割と淡泊な未来なんだなってのを、ネットやら経験談やらを見聞きしている内に気付いてしまった次第である。

 

世を上手いこと渡っていくために必要なものってなんじゃらほい。

 

ではどうすればいいのだろうか。

改めて僕は、謙虚さが大切と説いた本を読み直してみた。

すると、実は謙虚さにはセットで必要なものがあると付記してあることに気付いた。

 

それが、先に挙げた自信である。

言い換えれば、力という抽象的なものとも言える。

 

ここで言う力とは、コミュニケーション力とか財力とか、腕力とか学力とかその辺を指すものだと思っていただければ良い。

 

さて。

色々な本を乱暴にまとめると、結局は自信があるからこそ、謙虚さが活きるのだとか。

 

例を挙げると、明らかにムキムキマッチョな男が「いや~まだまだ細いよ俺」とか言っているのを見ると、「どこまで高みに昇るつもりなのか」と僕なら一目置く。

また、超有能なのを知っている人が、駆け出しの後輩の話に自分の意見を脇において真摯に耳を傾けている姿を見ると、まるで聖人君子のように感じる。

 

目線を変えて思い起こすと、力がある人が謙虚な素振りをすれば、なるほど極めて魅力的に思われるんだなと腑に落ちた。

勿論自信は持っているからこそ、決断もできるし、意見も出せる。

なんだこの無敵要素は!と拗ねたくなってしまうくらいだ。

 

この辺まで考えて僕も気付いたのだが、結局自信が無いから謙虚さを身に付けたのに、その気質を活かすためには自信がやっぱりいるのだという結論になってしまった。

 

生きていくのが嫌になってもおかしくないくらい、冷厳な事実である。

 

でも希望はあったわけで。

 

しかし、僕はその後もちょろちょろと調べてみた。

今まで自分が否定してきた自信ってものを、別の目線・意味から解釈することはできないものかと思ったからだ。

 

自分に絶対的な自信があれば、墓穴を掘ってしまうのではないか?

そもそもわがままな振る舞いは嫌われるのではないか?

どこまで行っても世界に目を向ければ、自分より上がいるのは当然ではないか?

 

こういったものをグルグル考えながら色々漁ってみると、僕の中で閃く文言を発見した。

 

「自信ってのは、力があること。結局は、すげーと思われればいい

というものであった。

 

これだ。

これだったんだ。

自信があるかどうかを自分で考えるから、先の考え方に着地するんだ。

自信ってのは、他人から見てあると思われれば、そう解釈されるんだ。

実際は自分がそう思ってなくても、だ。

 

見方を変えれば自信っていうのは、自分の思想だけでなく、自己演出の一環にも強く関わっているのだというのは、僕にとっては革命的な発見であった。

そして自信の正体は、「すげー」と思われることなのだ、というのもそうだ。

 

確かに、金持ちはすごいし、誰とでも仲良くなれる人もすごい。筋骨隆々な人は見た目からすごいし、有名大を出た人はもちろんすごい。

 

でも、すごいと思われる方法は上記の方法だけではない。

僕は素直に、ゲームが強い人もすごいと思うし、オタクだろうと知識が深い人は純粋にすごいと思う。

温泉をたくさん知っていたら普通に感心するし、家がキレイであればそれだけでもそう思う。

 

僕の勘違いは、自信っていうのは学力とかそういう分かりやすいテーマで、かつ全国でみても上の方に居ないと持ってはいけないと考えていた点にあった。

そんな域にならないと持てないのなら、日本はもっと暗くて淀んだ国のハズだ。

少し考えれば分かることにも思えるが、気付くのに10年以上かかってしまった。

 

でもわかってしまえばこっちのものだ。

どんなに狭いコミュニティーだろうが、どんなにニッチなテーマだろうが、1番だと思われればいいんだ。すごいと感じさせればいいんだ。

 

そういえば僕もすごいと言われた経験はたくさんあった。

焼き肉焼くのが上手だとか、魚釣りに詳しいだとか、洗剤に詳しいだとか、アウトドアに強いだとか、料理が上手だとか、もう挙げればキリが無かった。

 

こういう事実をないがしろにして、際限も無く架空の天上界を考えては、自分が塵芥のようなものだと考えるのは、極めて無駄だった。

あと何というか、自分を褒めてくれていた人を否定してもいた気分になった。

 

少しずつでもいいから、僕は自分に自信を持とうと思う。

同時に、まだまだすごい人はゴロゴロいるから、国を獲ったかのように思わないようにして。

自信と謙虚は、同居できるんだな。

 

僕にとっては僕の中ノーベル賞並の発見であった。

 

「すごいね」と言われたら、「とんでもねっすよ~」と口では返して謙虚に徹し、同時に「あ、俺ってすごいと思われたんだ」と心の中で思い自信とする。

時折、「これなら俺いけるんじゃね?」という何かは積極的と行かずとも、チャンスがあれば披露する。

 

当然、急激に改めるのは無理だから、そこは様子を見つつではあるが。

 

不思議と元気になってきたな。

でも、最近ドタバタだから、疲労をもう少し取っておくか。

 

温泉にでも行こうかな。

県内の温泉の知識に、僕は自信がある。

 

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