己の人見知り気質には高校1年の頃に気づいた。そう考えると、発症からもう10年以上が過ぎる計算になる。
今でこそ諦めからか達観からかは分からないが、これを受け入れているものの、当時はそれを包み込めるほどの器量は、正直無かった。
そういった背景があり、僕は僕のネジくれた価値観や思想を糧に、独学でこの気質を捻じ曲げようと努力した時期が結構ある。
ではその努力は活きたのか?結果論だが、凄まじくアヤシイと言わざるを得ない。
ということで、今回は反面教師的なお話。
実は人見知り改善に全然効果がないよ!むしろ悪影響だよ!という誤った努力。今日はそれを書いて葬るとする。
語彙をフィクションの世界から増やすべからず。
自己分析をすると、僕が他者とコミュニケーションを取るのが苦手な理由は、常時適切な語彙を使わなければダメだという強い思い込みにある。
例えば、こういう間柄、こういう場面、こういう空気に則した表現を探すべく、脳内の引きだしを毎度毎度ガサゴソ漁る感じに似ている。
そんなことを会話の度に、もっといえば場面や空気が変わる度にやっていたのでは、一言も話せずに時間が経つことは明白だ。
ではどうするか?英語の学習と同じで、僕は瞬時に出てくる語彙を増やそうと努めた。
ではどうやって?日常会話の模擬を繰り返すに限る。
じゃあ媒体は?そこで出てくるのが、ゲームだのアニメだのといったフィクションの世界である。
我ながら全力で自分から遠ざかりたい結論だ。
だから、僕はこの時期確かにアニメをよく観ていた。ゲームも、オラとかヤフーしか言わないゲームではなく、RPGをするようになった。
知識量とか語彙とかのストックは確かに増えた。そこは否定しない。
でも、フィクションの世界の会話はフィクションだから通じるのだ。覚えても、それが使えるかどうかはまた別物。
経済学部を受験するのに、医学用語をひたすら暗記した感じに似ている。言い方に遠慮しなければ、マジ徒労であった。
その後も僕は、特に会話が上達したという実感がないまま、高校ライフを送ることとなる。当然過ぎて、慰めの言葉も浮かんでこない。
やはり実際の会話においては、場数がモノを言うのだろう。今なら僕は僕に、臆せず行けというアドバイスを送れる。送りたい。
謙虚さに特化しようとするべからず。
謙虚。あまりに素晴らしい耳触りのため、人見知りが他人より突き抜けるにはこれしかない、とさえ思えてしまう。
だから、自己主張は極限までカットし、頼み事は快く承る以外の選択肢を消す。凹もなければ凸もない、真球みたいな人間になろうと呻吟する。
そうしていれば、いつか日に当たるところに出られると信じて・・・。
という淡い望みは、99%以上叶うことなく消えてゆくと確信を持って言える。
理由は、そんな存在感の薄い人畜無害な人間は、印象に残らないからである。つまり、生え抜きの候補として浮上することがない。
大抵名を残す人は、美点も汚点も突き抜けていることが多い。その方が人間としても面白いし、何より魅力があると感じる。
とある本に書いてあったのだが、短所を埋めるのは、長所をある程度伸ばしきった後からが一番時間対効果が良いのだとか。
人見知りであることを潰す前に、例えば勉強してみるとか、スポーツしてみるとか、自信があるというよりもまだマシだと思う分野で突き抜けるのが先である。
勿論、謙虚さという項目はそのリストから消し去った上で。
謙虚さで突き抜けた先に待つのは、大抵誰からも覚えられない便利屋さんという称号だ。
謙虚なだけというのは、危険なのだ。
まとめ。
良かれと思ってやったことは裏目に出がちというが、それは己が己に対して施すことにも言えるのかなと。
大学に入ってから強制的に人と関わる場面が増えたのとか、読書をするようになったのとかで、ようやく自分の気質を見つめて適切な措置を施せるようになった。
凝り固まった気質で培った経験則で、弱点を消そうとするのは確かにナンセンスだ。
まだまだ色々と発展途上の僕なので、これ以上は止めておく。多分3年後の僕がこれを読んだ時には、今の僕を青いヤツだと鼻で笑うのだろう。
むしろそうであってほしい。強く望む今日この頃である。
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