かつて僕がハマっていた思考に、『敗北者シンキング』なるものがある。ただし、この名称は僕の造語。
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具体的には、『どんな努力を重ねて、どんな結果を得ても、自分より上の人間を引用し、その成果を自分で潰すような考え方』である。
例えば、英検2級に受かっても、準1級を持つ人や、より早い年齢、より高いスコアでそれを取得した例を出し、自分はダメだという理論に着地する感じだ。
もちろんこれは不健全であり、広義の【インポスター・シンドローム】に当てはまると思うのだが、当人はこれに全然気づけないので難しい。
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―さて。僕自身、これを自覚してはいたのだが、それをどう活用するかというのはずっとずっと考えていた。
10年くらいこれを拗らせていたのでよくわかるのだが、今さらキレイさっぱり直すのは不可能。だから、活かし方を模索せねばならない。
悩んで試してうまくいかずに修正し・・・。そんな日々を数年単位で過ごしたものだ。
―そしてついに最近、それを超健全に活かす方法を発見するに至ったのである。
先にネタバレすれば、人の手柄を素直に褒めて、人類がみな仲間に見えるような考え方に落とし込めたのである。
ただし、そこに帰結するまでの論理はゴミクズ野郎である。でも、結果が健全だから、別にいいよね。
今日はそんなお話。
僕らはみんな、負けている。
ふと気付いたのだが、どう考えても絶対敗者になっちゃうのは、人類すべてに言える話ではなかろうか。
例えば、偏差値70超の学校に受かった神童は、ぶっちゃけその年の合格者全員に言えることであるし、歴代一位かどうかもわからない。
もしかしたらそのまま日本で一番賢い中学生になるかもしれないが、世界規模で見れば、一番であり続けることはまず無いだろう。
仮に現代でそれを成し得ても、過去に目を向ければトンデモナイ才能は別にいたかもしれないし、未来に目を向ければ1兆パーセント存在する。
―つまり、僕らは全員、何かしらの敗者の独りなのだ。今競争相手が居なくても、定義を広げれば必ず、上の人間は現れる。
極端な話、人類最速で走れる人も、新幹線から見れば比較にならない遅さなのだ。こう考え続けると、僕は自然と、ある結論に至った。
それは、
『比較』って、クッソバカバカしいなぁ。
という帰結だ。だって、全員結局、勝てない存在が居るんだもの。そういう意味じゃ、僕らは似た存在なのだ。
そう考えれば、周りの人間の見方が変わる。
そう、僕らはみんな、もうある意味負けている。だから、勝とう勝とうと頑張り続けるのって、実は滑稽なんだ。
人に希望を与えるため、過去の己を超えるためといった努力は確かに尊い。勇気だって与えられるだろう。素晴らしいことだ。
だが、『上に立ちたい!褒められたい!』がための努力って、マジで意味が無い。結局定義次第で絶対に負けることに気付いてからというもの、つくづくそう思う。
僕は地方の大学を出た自分が好きだし、漢検2級に落っこちた自分も好きだ。それを鼻で笑う人はいるかもしれないが、正体を知ってるのでどうでもいい。
負けているから、フェアなんだ。
そう考えるに至ってからというもの、スゴイとされる人たちを、素直にスゴイと感嘆できるようになった。
6歳でそろばん4級?すごいっすね!!え、握力70㎏もあるんすか!ちょっとした武器やないすか!憧れますわ~!
―もちろん、最初の内はいちいち先述の思考プロセス(定義を広げれば結局・・)をなぞっていたが、自然にそれも消えていった。
今僕に残っているのは、素直に他者と功績を認められるという、人間として成長した証の能力である。
多分僕は、僕の自信のある分野の圧倒的強者と出会っても、素直に感嘆し、素直に勉強させてもらう自信がある。劣等感?敗北感?何それ美味しいの?
―つくづく思うが、どんな考え方も使い方次第である。
僕らはみんな、負けている。負けているから、フェアなんだ。
終わりに。~クソ野郎上等宣言~
っていう話の上辺だけなぞると、つまり僕はクソ野郎である。でも、それで上等だとも思ってる。そう思わないとやってられない。
自分がクソだからそう思うだけなのだと思うが、真人間って意外と味や深みが無くてツマラナイものだ。清廉潔白が過ぎて、酒席でもネタが数分で切れるタイプ。
僕は他者から言われて自分の角を削っていくことは、もうやめた。クソな部分はクソのままでいい。
突き抜ければ、意外なところから高尚な能力へ通じることもある。今回、この経験を通じてよーくわかった。
皆さんもぜひ、己のネガティブをこねくり回し、どっぷりと浸かり、突き抜けるつもりで努力を重ねてみてほしい。
それでは今日は、この辺で。