得意な人などいないだろうが、僕は痛々しい人が凄く苦手だ。嫌悪まで強い感情は抱かないけど、愉快な気持ちにもならない。つまり犬の糞のようなものだと思っている。
一例として紹介するが、全く別件で料理のレシピを調べていた際、とても痛々しいそれを発見して、本当に胃袋の中に酸っぱいものが込み上げてきている。
正直、不快な感情が込み上げているという点では、誰かから悪口を言われた際と似たような状況ではある。しかしこっちは、原因が僕の中ではなく、相手にある。
そして痛々しいという感情は、自分の中で意外と観察が進んでいないことに、今更ながら気が付いた。正体が判らないまま、ただとても嫌なものとだけ認識しているのだ。
せっかくだ。喉に刺さった骨を抜いて、目の前に置いて観察するように、今僕に生じている痛々しさによる不快感を、きちんと言語化してみようと思う。
【痛さ】と【魅力】を分かつもの。
「痛々しさ」とは何かを深める際、↑のnoteは物凄くいいヒントになった。例えば痛々しさの極致とは、大体の男子が患う中二病ではないかと思う。
「俺は周りとは違うんだぜ」とアピールし、自分の言動に泥酔しているあの感じ。これを思い起こすだけで、心臓を物理的に握られているかのように苦しく、痛い。
一方、本当に魅力的な人もまた、中二病罹患者の如く、周りとは全く違うことが多い。唯我独尊を地で行くタイプ。それでいて、何故か畏敬の念を集めていく。
この2タイプは、言葉で表するなら、いずれも同じ”変わり者”というジャンルだ。なぜ片や蔑まれ、片や人から一目置かれるのか。
先のnoteでは、その差異の原因について、「社会性の有無」と、「本来の性質かどうか」という観点から考察していた。確かにそうすると、色々しっくりくる。
中二病は良くも悪くも、とてつもない主観性の賜物だ。人から自分”が”どう見えるかが最も重要なのであり、自分を中心に世界を回そうとする思考が透けて見えるようだ。
例えば世の中の人が「感動した!」「素晴らしい!」と評した講演や動画に、一般論のように見えて、中身のない批判、もとい便乗をする人がいる。
「あれは常識的に考えると微妙だよね」「あれはあの人だから言えることだよね」「俺には響かなかったな」「表現がちょっと稚拙だよね」等々。
正直こんなコメントを聞かされて、「こいつ、すごい観点だな・・」と思うことは無いのではないか。だが当人にはそれが判らない。そもそも他人の評価は必要ない。
批判や便乗、逆張りは、自分に特別感を演出する最も安直な手段だが、これは同時に周りから煙たがられるリスクがとても高くなる。
社会性が無いとは、他人から見える自分の像について、あまりにも視野狭窄に陥っている状況自体を端的に言い表しているフレーズだといえる。
ここで思い出すのが、いわゆるぶりっ子を拗らせた方々だ。こういうキャラはよほどのアイドルやエンタメ作品内でのみ許容される所作だ。それを実生活で実行されると・・。
正直、視界に入るだけで、痛くて仕方がない。だが本人はそれに気付かない。世界の中心は自分であり、自分の思うようにならない世界の方がおかしいと思っているのかと。
強烈な主観のフィルターを透過しているのが自明な、ただドヤ感が透けて見える言動を繰り返す。これこそまさに、痛々しい。そして、本当に勝手にやってろと思わされる。
一方、自分の道を進みながらも魅力的だと評される方々は、その気になれば集団生活を普通に送れるし、やり方にクセがあっても、協調すべき際はそうできることが多い。
同じ漫画・アニメ好きであっても、服装が適当なら「ただのキモオタ」に成り下がり、オシャレに意識を払えれば「趣味の多い人」と評されるのと似ている。
ここで気付いたが、「我」の強さが、この辺を分かつ気がする。個性と我は別物であり、前者が強ければ魅力になり、後者が強くなれば迷惑になるのだろう。
こんな風に、個性の強さと、「我」の強さが良い意味で分離できている人が、魅力的な人物である、と。僕はこの考えに、強く同意したいと思う。
そしてもう一つ、現れている個性が、その人の本来の性質に由来しているかどうかもまた、魅力に寄与するのではと分析されていた。
例えばヤンキーや不良は、ある意味個性の塊だ。だが、雰囲気だけ真似をしている方々は、面白いことに、外野から簡単に見抜くことができる。不思議な話だと思う。
内心は全くそんなキャラじゃないのに、周りの不良や漫画のキャラに憧れて、やれワックスだ、やれボンタンだ(古いか)と取り繕っても、芯の部分は隠せないようだ。
さっきの話とリンクしているが、周りの世界からこう見られたい、だから付け焼刃の魅力を移植する、という作りだと、かえって痛々しさを演出してしまうのだろう。
一方、自分の本心・内面を純粋に突き詰めた結果、周りからの評価がどうでも良くなった人を、僕らは変わり者と同時に、魅力的と評するのではないか。
「別に社会に対して敵意は無いけど、俺は俺ッス」という飄々としたスタンス。すごくカッコいいと思う。
ただ、「見て見て!俺、お前らと違うでしょ!?カッコいいっしょ!?」というスタンスが透けて見えると、とんでもなくダサいと思ってしまう。
前者は、突き詰めたら違っていったのであるのに対し、後者はただ違っている”だけ”である。器が大きいのが前者ならば、後者は単に底が浅いのだろう。
正直、アンチめいた言い回しや、「俺はケンカとか怖くないしww」といった挑発は、誰でも言える。それに喝采を送る人はいない。いてもそれはただの同志ではないか。
他人と違うというより、ただ周囲から鼻つまみ者にされているだけ。そしてそれに気付かぬままはしゃぐ様子に、僕らは強い哀れみを抱く。これが痛々しさの正体だろう。
車の運転中だけ気がデカくなる人と同じで、安全な場所から匿名性を担保された状態で「つよいひと」っぽいことをされても、本当に心が痛い。同情ではない。憐憫だ。
ただ不快なだけよりも性質が悪いことに、彼ら彼女らは、こちらの心まで揺さぶってくる。雨に濡れている子犬から、可愛げを取り去ったような存在。救いは無いんですか。
だから冷静に都度、判断しなければならない。感情が揺れたと思ったとき、それは心が傷ついたのか、それとも強い哀れみで似た感情を抱いているのか。
後者であるなら、直前に痛い言動に触れたかどうかをチェックしたい。もしそうなら、心の中で静かに合掌して、意識の中で葬ってあげるのが救いではないかと思う。
ということで少し尻切れトンボではあるが、今日はこの辺で。
参考資料。
↑坂上忍氏が書いた【偽悪のすすめ】の帯には、「迎合は悪」と書かれていて、すごく心に残っている。大体1年に1回は、最低でも読み返している。
薄っぺらくて痛い人と、個性的で魅力的な人を分かつ差がよくわかる名著だ。読みやすさもかなり高いので、おすすめの一冊である。
↑今回参照したもう1つの記事。実例という観点から「痛い人」が述べられており、その痛さを言葉にしていく際に、すごく参考になった。