僕はネガティブだけど、それなりに充実した人生を生きたいと思う。

「ネガティブ」で片づけず、自分の観察を続けたい。

僕は昔から、生き様よりも死に様に、意識が向く。

僕は一般的水準と比べれば、内省や自己分析が大好きな部類なのではと思うのだが、それほどの時間や回数を重ねても、まだ全く理解できていない自分の価値観がある。

 

どうやら僕は、あまり生き様に興味がない。それよりも死に様の方が、すごく関心がある散り際という言葉にすごく心惹かれる。

 

それでいて、その理由が、昔から腹落ちしていないのだ。僕は死にたいのか?いや、そんな破滅願望は無い。この辺は前に別ブログで記事にしたが、実は全く進展がない。

jukukoshinohibi.hatenadiary.com

 

最近公開された映画「君たちはどう生きるか」はまだ観ていないのだが、このタイトルを見ても、僕は僕に、「さて、俺はどう死んでいきたいかな」と自問してしまった。

 

繰り返すが、僕は自殺願望があるわけではない。死生観を体現したいわけでもない。消えてしまいたいと思うことも、今のところ無いのだ。

 

だがなぜか、物心ついたときからずっと、死を覚悟して進む人や、死を覚悟しながらも生きる人たちの言葉や姿勢に、人並み以上に心を打たれてしまう

 

今日はなんか精神的な病を得たのかと自分が心配になるテーマだが、その「死に様」をテーマに、コツコツ書き溜めたことをまとめて記事にしてみる。

 

 

たった一つの、”絶対”。

最近、10年以上プレイしているゲームタイトルの1つに、それまでの主人公が新作で、病に罹り亡くなる雰囲気が漂っている。

 

そこでエンディングノートという言葉が出てきて、死ぬ前に心残りとしてやっておきたいことを書き出してリスト化し、それらに丁寧な区切りを付けるというシーンがある。

 

「人生の終わりを強めに自覚しているからこそ見える」といったセリフがあったが、確かに「終わり」は、世の中を見つめるメガネを、最高の性能に引き上げるだろう。

 

今のところ、僕は体がどこも壊れていないけれど、1年後に死ぬ設定でそのメンタルを疑似再現すると、今見える景色がまた変わるのではないかと感じる。

 

元々僕は、あまり冒険した人生に興味がないことを自覚していた。平穏の中で、自分なりにはやり切って、布団の上で死にたいのかもしれない。

 

この想いは自分の中で本当に言語化が済んでいないけど、いつ己にそう問いかけても、そうという返答が返ってくる。一番得体が知れない、僕の部分だといえる。

 

そういうことを考えると、頭に浮かぶのは経済学者の金子哲雄さんのエピソードだ。リアルタイムで病気の発覚から死までを知ったので、すごく記憶に残っている。

 

彼は不治の病に冒されて衰弱しながらも、できる限り仕事を止めず、しかも信じられないことに、”自分の葬式をプロデュースし切って”、その生涯を終えたのだ。

 

これらを考えると、どんな風に最後の日々を送って死んでいくかが、どう生きてきたかよりも重要なのかもしれない。もちろんこれはただの仮説に過ぎないのだが。

 

少なくとも僕個人の感覚としては、よりよく生きるには、と問うより、よりよく死ぬには、と己に尋ねた方が、しっくりくるヒントが返ってくると感じる。

 

一つのヒントとして、大事にしておきたいところだ。

 

死に際に悔みそうな行動を選ばない。

 

今の仕事に就いて、ワーストクラスに大きいミスに気が付いた。今はまだ解決からは程遠いが、実は過去最速クラスで、僕は真正面からそれに取り組めている

 

器が小さくて恥ずかしいのだが、昔はどうすれば取り繕えるかに強い感情が向き、それにジャックされ、そのまま飲まれ、結果大火事になることが大半だった。

 

結果それによって燻る火が今の職場に残っていることもあり、後悔こそすれ、しかしながらこの正々堂々の難しさが身に染みて感じられる折だった。

 

しかし、今回もあった「ちょろまかしちまえよ」という感情の囁きに対して、僕は初めて理性で打ち克てたと思っている。

 

小細工なしで詫びて、怒られて、平身低頭し、事後策に今は、意識を集中している。僕にできるのはそれだけだ。

 

このとき、僕を突き動かしたのは何なのか。それは、「ここで死んだら死にきれない」という極端なIFだ。

 

死という絶対をよりよくするためには、この汚点は絶対に要らない。俺の物語において、なんのスパイスにもならない。そう思うと、大袈裟だが、勇気が出た。

 

実は最近、肋骨の辺りに痺れる痛みを感じることがある。また、鳩尾の辺りにも、染みるような痛みを感じる。ついにストレスが肉体に影響を与え始めたらしい。

 

痛みを抱えているとなおさら、死を連想する。僕は突然死を想定していなかったのだが、究極、僕の天寿は明日なのかもしれないとさえ、感じる。

 

死という際を想定すると、目先の恥は本当に些細なものとなる。究極のメタ認知とは、死の側から今の自分を眺めることなのかもしれないと、ふと思った。

 

死を疑似体験して思ったこと。

 

今日、死ぬ夢を見た。正確に言うと殺される夢だ。異国の雰囲気が感じられる街を歩いていると、突如銃の乱射に巻き込まれ、体を貫かれるという、そんな内容だ。

 

痛みがあったわけではないが、銃弾で撃ち抜かれたことはなぜか理解できた。キーンという耳鳴りがして、視界が遠くなり、意識がどんどん彼方へ消えて・・

 

無音になった瞬間、目が覚めた。漫画のように、「はっ!」と飛び起きて、心臓に手を当て、生きていることを確認したほど、それは生々しい”体験”だった

 

あたかも水の中に潜った後のような無音。意識すら消えたこの感覚は、ゾーンといえば聞こえがいいのかもしれないが、【死】のイメージそのものだった。

 

恐怖は無かった。感じる間もなかっただけかもしれないが、それよりも安堵・・いや、感情が完全に霧散した世界に沈んでいく感じだ。ここまで記憶に残る夢は珍しい。

 

ただそれ以来、妙に生々しい【死】に纏わる夢を見ることが増えた。ある夢では、畳の部屋でベッドに横たわっている自分が居た。

 

不思議なのだが、「あぁ、もうお迎えが来る頃か・・。ちゃんと両親にありがとうって言わないとな」と、夢の中の僕は極めて冷静に臨終を受け入れていたのだ。

 

その日はそこで目が覚めたが、あまりにもリアルで、フィクションの香りがしない場面と思考だったので、しばらくは茫然とそれを反芻したのを覚えている。

 

・・・そして。生きてこの記事を書けていることが奇跡だと思うのだが、軽症だと思うものの、急性アルコール中毒をやらかしてしまった

 

診断を貰ったわけではないが、あまりにも異常な酩酊状態になってしまい、前後不覚、記憶喪失、そして止まらない嘔吐と頭痛に襲われた。

 

急性アルコール中毒の症状ドンピシャであり、僕は遂に、酒に酔った結果、死の淵に行ってしまったのだ。

 

とりあえず死にはしなかったが、それはただの確率であり、当然あの世に行っていた世界線もあるはずだと思い、本当に慄然とした。

 

逆に言えば、一度死んだけど助かったという経験を積んだということでもある。生きていることに天命のようなものを感じるのはスピリチュアルが過ぎる気もするが・・

 

淵の向こう側に追いやられなかったことに、僕は理由を求めたい。まだ何を成し遂げていないから、追い返されたのだろう。

 

ただ、まずは身体をしっかり正常に戻してから、考えていくべきだろう。この状況にまた不摂生をバフしたら、今度こそしっかり、三途の川に連れていかれそうだ。

 

それだけは、とりあえず現時点では、ごめんこうむりたい。

 

僕の心を激しく揺さぶる詩を紹介する。

触れるといつでも感情が揺さぶられる。そんな言葉に僕は出会ったことが、ずっとなかった。実を言うと、少年の日の思い出もかわいそうなぞうも、あまり響いていない。

 

見城徹氏や佐渡島庸平氏が、猛烈に共感するとか、強く心に残っているという詩を著書等で紹介するたび、ちょっと嫉妬する気持ちさえあったくらいである。

 

―そんな僕にも、激しく感情を揺さぶる詩があることを思い出した。それは崖の上のポニョの挿入歌になる予定だった、「ひまわりの家の輪舞曲」である。

 

メロディや歌も勿論なのだが、何より歌詞のその内容に触れる度、シラフでも半泣きになり、酩酊していればいつも号泣してしまう。(今も少し危ない)

 

ちなみに、「ひまわりの家」とは、作中に登場するデイケアセンターであり、車椅子生活が長いお婆さんたちが、たくさんそこで余生を過ごしている

 

それを踏まえて詩を読むと・・・。本当に、込み上げてくるものがある

 

 

一読しただけで、本当に泣きそうだ。言葉にし尽くせないほどの切なさが、心臓にダイレクトで刺さっていく。油断したらマジで嗚咽が出る。

 

・・・僕らは生きているだけで幸せなはずだと言われる。幸福とはなるものではなく、気付くものだと。そこまでなら、なんとか僕でも意識して再現はできる。

 

しかしその上で、その当たり前ともいえる日常を、最期の願いにするとなれば、このときの心情は、今の僕には全く想像ができない

 

全ての運命を受け入れて、静かに”おむかえ”を待ちながら、最期に「あの日々」を夢見る。僕の祖父や、何なら犬も、そう思いながら息を引き取ったのだろうか。

 

僕はなぜこの詩を読むと、こんなにも切なさで胸がいっぱいになってしまうのか。実は全く答えを出せていない。そこまで死に触れた経験が多い方だとも思わない。

 

だが、涙を堪えながら今の自分に込み上げている感情を紐解くと、僕が死に様に重きを置く理由もまた、違う側面から観察できるかもしれない。

 

余談だが、この歌を僕が知ったのは、10年くらい前に観たスタジオジブリのドキュメンタリーである。宮崎駿がこの歌を聞きながら、涙を流すシーンがあったのだ。

 

「あぁ、おむかえがきちゃった・・・」と言いながら号泣していた記憶があるのだが、作詞にあたり、どんな想いを込めたのだろうか。僕に拾い切れていない感情とは何か。

 

こんな風に平和に、静かに、受け入れて、眠るここまで純粋に切ない気持ちを生じさせてくれる詩。読むたびに泣いてしまうが、折に触れて何度も触れることにしよう。

 

余談だが、こういった感情的な涙が流れるメカニズムを調べていると、少し面白い発見に出会った。

 

涙を流す前には必ず、額のほぼ中央部にあたる「正中前頭前野」と呼ぶ場所の活動が急激に高まったという。

 

この場所は、高度な精神活動をつかさどる前頭前野の中でも特に共感に関係している。

 

www.nikkei.com

 

これに立脚するなら、僕はこの歌詞に込められたメッセージや切なさに強い共感を覚え、それによって滂沱の涙が溢れてくる、ということになる。

 

ネットの意見を見てみたが、この歌には、「”おむかえ”という運命を受け入れながらも、自由に、明るく、日常の幸福に思いを馳せている」みたいな感想が多かった。

 

人生は、スポットスポットの華々しい瞬間を、ただ線で繋いだものではない。僕らが日常として無意識に流している時間こそ、愛すべきものなのだと言える。

 

成功に固執して不幸になる人たち。

 

【歴史思考】を読んで以来、社会的評価や成功と呼ばれるものは、とても曖昧で、かつ無責任だと思うようになっている。

 

オセロのように、一発の出来事で成功が失敗に、非難が賞賛に、一瞬で目まぐるしく変わる。そんな危うさの中で、人はなぜ成功を追うのだろうか。

 

僕は僕自身、運が良い方だとは思う。大学進学、就職、資格取得然り。だが、それらが安定した何か、あるいは将来的にずっと使える確固たる基盤だとは、1mmも思えない。

 

例えば高校に行かなかったからといって人生が終わるわけではない。逆に、東大に受かったからといって、未来永劫幸せなわけでもない。

 

5年後、10年後になれば、「あのとき受験に失敗した”おかげで”」とか、「あのとき合格した”せいで”」といった「もしも」は、大いにあり得る話なのだ。

 

成功した人ことを吹聴する人や、それを妄信して追い求める人の言動をみていると、どこかさっさと自分の評価を確定させて、楽になりたいという欲求を感じる。

 

人生は不確定であり、成功や失敗の判断は難しい。いや、難しいというより、不可能だし不毛な話だ。

 

新選組の面々が、幕末の当時に、自分たちが150年後の未来にキャラクターとして人気を博すことを、当時の人たちがどこまで知りえたか。無理だろう。

 

高学歴や高収入、優れた容姿が社会的な成功に繋がるのは、”現時点”では確かにそうだ。しかし理想の男性・女性像さえ、平安時代と比べればまるで異なる

 

すなわち、人生は曖昧だ。そして僕らの評価も、僕らが死んで冥途に行ってから、勝手にコロコロ変わることさえある。コントロール不可だ。

 

そんな現実を考えても、誰から見ても立派な聖人君主を目指すことは、すごく不毛に思えてならない。

 

時折SNS上で、自分が正しいということを公理の如く据え置いて、他者を断罪するのに忙しい人たちがいる。ある意味、幸せなんだなと、羨ましく思う

 

僕はどうしても、仮に自分が正しいとしてもそれは一時的なものであり、胸を聳やかしたところで後世に嗤われるだけだよな、というところを考えてしまう。

 

しかしその思考に囚われれば、何もできない。だからこそ、そこまで理解したうえで、「正解くん」のコメントはありがたく無視するのが正しいんだなと思っている。

 

曖昧であることは不安定で、不安定な状況は不快で怖い。だから安心したい気持ちは分からなくもないが、そこで固定すると、人生は脆い。

 

少なくとも僕は、僕が”成し遂げてきた”ことは、評価がこれからも絶えず変動する、曖昧で無責任なものだという風に捉え、あまり重く考えないようにしている

 

別に「負け惜しみ」と言われても、それを言ってくる人が住んでいる世界は、僕とは別の次元に在ると考えているので、笑いながら「そーなんすよ!」で終わりだ。

 

繰り返しになるが、不確かで曖昧なものこそ面白いし、他者からの評価を捨てると、待っているのは自由だと感じる。

 

しかしそうやって曼荼羅状に展開する人生も、最後は死に向かって収束していく。振り返ってみれば、どこかに一本のストーリーがある。僕はそう死にたいな、と。

 

途中に何があろうが、最期は死の床で何を感じたか、考えたかが人生の色を決めると思う。死に際に笑えれば、それまでの人生は苦汁を舐めていたとしても輝くのだ。

 

僕はよくて、まだ人生の朱夏に差し掛かった頃だと思うが、その時々で面白いと思うことに取り組みつつ、エンディングを迎えようと決めている。

 

神様に向かって唾を吐くようなことはしないとだけ決めておけば、何をするにも、エンディングに向けた伏線に変わるのではないか。そう思う。

 

ということで一通りの思索は終わったので、ここで区切ることとする。

 

では今日はこの辺で。

 

 

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