最近、通勤中にゲームのイベントシーンのセリフを暗唱するのが好きです。幼稚。中元です。
はい。こないだアップした記事の補稿という感じなのだが、せっかくなので、人生で諦めきれない二大巨頭について、もう少し深堀しようかなと。
僕の身近でもそうなのだが、【恋愛・結婚】とか、【他者比較】といったことを、諦めたいのに諦めきれないという人は結構多い。
この辺は、いくら自分の中で帰納法を繰り返しても、大抵は決着がつかない。データが不足しているからだ。
ってことでここからは、僕の中にあったそれらの思いにトドメを刺したデータを、せっかくなので並び立てて紹介しよう。
尚、トドメを刺し得るくらい強い帰結になっているので、閲覧注意でお願いしモス。
【恋愛・結婚】という"ゲーム"のダークサイド。 ―見えざる参加資格の存在―
高校生の頃、大学生の頃、それぞれ僕もいっちょ前に失恋を経験した。後者には若干勝算がありながら爆死。自分の至らなさを、まざまざと暴かれた感じである。
その理由を考えていくと、ある仮説にぶち当たった。
「俺ってそもそも、このゲームに参加資格、無くね?」
というものだ。どういうことか?そのヒントになるものとして、2ちゃんの有名なコピペに、「女性の年齢=男性の年収」というものがある。
要は、恋愛・結婚市場における【魅力】を数値化する際の指標のことであり、もちろん統計データなど全く存在しない経験則だろうが、不思議と納得させられる。
そしてその表はこんな具合だ。例えば18歳の年齢の女性の魅力は、年収1100万円の男性の魅力に等しい、という感じである。(需要と供給を考えると、やはり納得)
ー個人的には25,6歳くらいまでは1000万レベルの価値が必要に思うのだが、この辺は住んでいるエリアとかそういうので変わるのだろう。
さて。まずこれを考えると、現実がハッキリとわかる。例えば、詳しくは省くが、僕は【恋愛・結婚】というゲームのルール上、価値は砂利と同じということ、とか。
そして、【結婚】となると、もっとグロい話になる。年収300万円以下は、ハッキリと無価値認定されるらしいのだ。(ただし、データ元を探したが見つからず。眉唾だ)
となれば、あの表から先は、男性の場合「一生独身確定」と考えた方が正解という帰結が得られそうである。世知辛い、世知辛い。
・・・とはいえ、諦めたくない諸氏からは、よくこんなことを言われる。
「他の魅力で補えば戦える!!!」
てな感じ。ほんとかなぁ?例えばいっぱい勉強すればいいとか、見た目を頑張って小ぎれいにしたらいいとか、そういう努力のことらしい。
これってダウトだなと。だって、そういう努力、女性もするじゃないすか。つまり、チャラになってしまうのだ。なんなら、女性だって、働いてお金は稼ぎます。
しかも、年齢や年収以外で魅力に寄与する要素は、完全に階層に分かれており、そのそれぞれが超えられない壁で仕切られている印象がある。思いつくまま書いてみよう。
超魅力的
イケメン・美人、家柄が良い、高学歴、一流企業勤務、公務員
ー超えられない壁-
それなりに魅力的
スタイルがいい、有名な資格保持、料理が得意、話が面白い、清潔感があるetc
ー超えられない壁-
たぶんどうでもいい
真面目、読書家、多趣味、家庭的etc
という風に。基本、生まれ持ったもので勝負は付いている印象だ。要するに、
(年収or年齢が持つ価値)
+上記の付加価値
ーマイナスポイント(※詳しくは書かなくてもいいよね?)
の数値がマッチングする相手とおつきあいするゲーム。それが恋愛であり、家族になるのが結婚。それ以上でもそれ以下でもないのだと、僕はここまで調べて納得した。
しかし、年収の数値がどれほど高いのか、ピンと来ない人も多いだろう。僕もそうだった。
そこで、自分に求められる年収で買える車に置き換えて、この表を考えてみた。すると、もはや絶望ものだった。
(途中で飽きたのは秘密ではない)
こうやってドライに数値化し過ぎた結果、最近通りすがる女性の頭上に、【〇〇万円】という数値が表示されるようになってしまった。
ゲームで言うところの、レベルが頭上に出ているのと同じだ。その数値と、自分の現状を踏まえると、夢見るだけ愚かというのがよくわかる。
だから今や、「いいなと思う人が仮に現れても」→「頭上に数値が表示され」→「即その気持ちが消える」という流れが自動化されて組み込まれた状態だ。
そこまでたどり着けると、完全に諦めることができる。少なくとも、僕はそうだった。
ちなみに、時たまそんなん無視して交際しているタイプの人もいるが、だからといって無邪気に自分もそうだと思うのは危険である。
宝くじが当たったうえに、近所の店に高級車がたまたま入るのを期待するくらい偶発的なものなのだ。これも計算してみたらいい。絶望するから。
ドラマの中や恋愛小説において、成就しているのはそもそも優れた人ばかりというのを忘れない方がいい。少なくとも、20代後半に差し掛かったら、それに気付こう。
【比較】という"ゲーム"の隠された前提。 ―誰だって敗者だし勝者っす―
昔病的に自己重要感が無かった頃、僕は自分より秀でた部分を持つ人間が好きになり切れなかった。僕より背が高い、筋肉が多い、顔面偏差値が高い、勉強ができる・・・。
そういうのを見るにつけ、僕は自分が劣等種だと思い、周りが常に上位互換種という世の中を恨んだものだ。
今も時折、僕より圧倒的な才能と努力を兼ね備えた怪物に出会うことがあるのだが、少なくとも僕は、意識の上では対等に接することができるようになった。
これは相手を見下すという意味ではなく、必要以上に自分を卑下しなくなったという意味である。なぜこれができるようになったか?
少し哲学的な物言いなのだが、結局、みんな勝者だし敗者ということに気づいたからだ。
どういうことか?一例として、クラスで一番足が速い男子を想像しよう。大体こいつはモテるし、何においても自信を持つことができることだと思う。それは否定しない。
だが、こういう存在と自分を比較して、卑下する必要はない。なぜか?例えば、そいつが走る速度より、原チャに乗ったあなたの速度の方が上だからだ。
要は、同じルール、フィールドで競うからそいつが一番になれるだけであり、そこをいじれば、ぶっちゃけ誰だって負けるし、誰だって勝てるのだ。
先の足が速い男子も、現在のボルトには完敗する。そして現在のボルトだって、全盛期の自分自身に完敗しているのだ。
また、クラスで一番足が遅い男の子も、飛行機に乗れば全人類最速をはるかにぶっちぎることができる。ツールの存在は偉大である。
つまり、同じことだ。東大生の英知はハーバードの英知に多分勝てないし、過去の人類全てを探せば、圧倒的な頭脳はごろごろ存在しているはずだ。
そして何より、今の世の中や人生の中で勝てていても、未来に必ず、自分より秀でた存在が登場する。誇示するだけ、僕は何か空しいと思う。
―また、希少性が欲しいというのなら、実はそれを生むことはな~んにも難しくなかったりする。試しに、手にギプスをはめて登校すればいい。そういうことだ。
あるいは、自分の部屋の壁の、目の高さから25㎝右斜め上に触れてみたらいい。おめでとう、あなたはそこをタッチした、地球上でただ一人の人間である。
もう、考えれば考えるほど、馬鹿馬鹿しい。僕は何と競っていたのだろう。それになにより、一番がゆえに残り続けてきたものって、実は少ないじゃないか。
銀閣よりお金をかけて作った建物も、上質な木材を使った建物も、腕のいい大工が携わった建物も、いずれもあったはずだ。だがそれらは、歴史の中で灰燼に帰した。
一番になることは、果たしてどこまで価値があるのか。競争というのは、外界から閉じており、かつ同じルールが適応された世界でしか発生しないし、意味を持たない。
大学生の中で一番モテることを自負していても、金を持った社会人にかかればアリのような存在に下落することもしばしば、だ。
競争に囚われていると思ったら、その定義を限りなく抽象化し、どこまでも広げてみたらいい。過去・未来・ツール。
そうすると、マジで心の底からアホくさくなるのでオススメだ。脳内談議が好きな人にオススメである。
終わりに。
2021年最後の記事が、下手すれば今年一番ダークネスなものになってしまった。しかし、向き合っても向き合っても苦しいなら、何かが違う、以上ということなのだ。
取り組み方を変えることがその突破口になるのは間違いないが、僕の場合は振り切って"諦めること"がそれであった。
おかげで僕の人生にははっきりと余白が生まれている。ここをどう使っていくかが、30代の課題になると考えているほどに。
ということで、この挨拶をもって終わりにしよう。
良いお年を。