友達と雑談をしているとき、「お前と同じ趣味をしている人を、相手として探してほしい」と言われたことがある。僕が一生独身なのでは、ということを案じての話だろう。
それ自体はありがたいのだが、不思議なことに、その提案に頭では納得をしたのだが、感情が揺さぶられることが無かったのだ。何か引っかかる感じがあった、というか。

例えるなら、「分数の割り算はひっくり返して掛ける」というルールを知り、それ自体は納得したが、なぜそうすればいいかがわからず引っかかるあの感覚に近い。
確かに趣味が同じ人と繋がれば、様々な記憶や日々、体験を共有できて、人生がより充実するだろう。恋愛・結婚に関する話としては、もはや基本過ぎる話だ。
―しかし僕はどうしても、そういう人と出会い、繋がることで、自分の幸福にそのまま繋がるとは思えなかった。何が僕に、それを受け入れることを許さないのか。
それについて、その答えを今日、本当に”ふと”閃いた。そして直感でしかないが、それはかなり、僕にとって正鵠を得たものになっている。
だから今日は、それを手放さないためにも、以下言葉にしてまとめておく次第である。
趣味が合うかどうかは、正直どうでもいい。

世の中では「趣味や好きなものが同じ人とつながれることが良い」という風潮がある。しかし僕は、それを一度も、心の底からは肯定的に感じたことがない。
たとえば僕の趣味は釣りやキャンプだが、これを趣味を同じくする女性と一緒にやったら楽しいだろうかと考えたことは、ほとんどない。(したとしても数秒で飽きる)
むしろ、そうした時間は一人で楽しむ方が性に合っている。もちろん例外はあるが、趣味を誰かと積極的に共有したいとは、そもそも思わないのだ。
したがって「趣味が合えば幸せ」という考え方は、僕にとってどうでもいいものであり、だからこそマッチング条件の必須要素には決してなり得ないと考えている。
本当に大事なのは、「同じものを気持ち悪がれるか」。

では僕にとって、対人関係において何が大事なのか。特に友人と家族の間、関係性として特別性を帯びる人のことを考えたとき、出てきた結論はとてもシンプルだった。
「僕が気持ち悪いと思うものを、同じように気持ち悪がれる人」である。これは、好きなものや趣味を同じくすることの、下手すれば何十倍も大切な要素だ。
実際、僕が強烈に嫌悪するものは、大きく分けて2つある。1つは、ネット上に見られるアンチコメントのような、中身がないのに知的ぶっている痛々しい文章だ。
もう1つは、ワイドショーで垂れ流される不倫や不仲といった、本当にどうでもいい話題だ。これらに触れると、手に汚物がついたかのような不快感を覚える。
仮に僕と趣味が完全に一致していたとしても、その人がもしワイドショー大好きかつXのヘビーユーザーであるというのなら、僕にとってはただの地雷でしかない。
逆に言えば、それらを「マジキモい」といって生理的な嫌悪を覚えたうえで避ける人であれば、趣味が合わなくても強い安心感と信頼を、僕はきっと持てるだろう。
また、趣味や好きなものはある程度、仮に無関心でも予習してごまかすことができる。(そんな小手先テクニックを推奨するモテ指南本もあると聞いたことがある)
しかし「気持ち悪い」と感じる対象は、生物としての原始的な反応に近く、ごまかすのは非常に難しい。だからこそ、「嫌悪の一致」は信頼できる指標になると思うのだ。
実際、YouTube等で芸人のやり取りなどを観ている際、コンビ同士が「それマジで気持ち悪いよね」と共感し合う瞬間に、僕は本当の価値観の一致を感じている。
僕にとってはやはり、理想像を追うことは心底どうでもいい。幸せの青い鳥も、白馬の王子様も、架空の生き物だということを根本から理解しているのだろう。
100点満点の人を探そうとするより、自分にとって「絶対に踏んでほしくない地雷を避けられる人」である方が、やはり長期の関係を考えると、何十倍も重要である。
・・・というところまで書いて、実は筆が止まり、140日も放置してしまったのだが、内容自体は別に悪い話じゃなかったので、このままアップすることにする。
ということでこのブログでは久しぶりの2000字未満のライトな記事、今日はこの辺で終わりとする。