僕が青春期を生きたころ、何が流行ったか。例えばジッタリンジンの夏祭りもそうだし、時をかける少女も話題になった記憶がある。
そういうのに触れると、青春イベントに対する淡い期待が自分の中に生じる。浴衣を着た女の子と夏祭りに行くとか、制服でデートをしてみるとか。
だが、それは夢のまま、つまり叶いそうもないと、高校2~3年の頃には自覚し始めた。そして片想いの玉砕を経て大学生になる頃には、それが確信に変わっている。
とはいえ僕は若かった。「彼女は要らん」と強がりながら、心のどこかでは逆の未来を痛切に願っている矛盾。きっと、否定することで自尊心を守っていたのだろう。
―そこからさらに時を重ね、僕は30歳を過ぎた。今はもう、強がりでもなんでもなく、いわば論理的に納得する形で、青春的なイベントを諦めきれている。
心底どうでもいい。職場の前を最近、浴衣を着た少年少女が横切っているが、多分祭りでもあるのだろう。まぁ、夏だし、何も驚くことはない。
嫉妬の気持ちは勿論無い。一方、素直に「おぉ、楽しんでこいよ!」と背中を押す気持ちも無い。ただただ、光景として自然だなとしか思わない。
いつ頃から、僕は自然とこうなれたのだろうか。そういえば、青春のイベントについて何か感想を持った記憶が、ここ数年、無い。
ということで今日は、三十路を過ぎた現時点で青春イベントに思うことを、青かった頃の自分の思想と対比させつつ、まとめてみたいと思う。
夏祭りのそもそも論。
子供の頃は夏祭りが好きだった。あの非日常的な空間が楽しかったからだ。友達と食べるイカ焼きもりんご飴も、祭囃子も、雑踏も、その全てが楽しかった。
そして中学・高校の頃は、夏祭りに憧れていた。恋人という存在を勝ち得た人が満喫できるハレの舞台。そんな風に考えていたためだ。目線が既に汚れている。
では今は、祭りについてどう考えているか。実を言うと、誘われても行かないと決めているくらい、そもそも好きじゃなくなっている。
理由は単純で、僕は人混みが嫌いだからだ。ついでに大きな音も、チカチカする照明も、全てが刺激的すぎるので、できれば避けたいものとなっている。
これについて、大学生の頃も似たようなことを言っていた。俺が祭りに行かないのは、彼女がいないからじゃねぇ、そもそも嫌いだからだ、という風に。
白状すれば、当時はただの強がりだった。先述の通り、このときは否定こそが自尊心を支える術だったので、本音は別に隠していたのである。
もし仮に、10代後半~20代前半で、誰か知人の女子に誘われていれば、手のひらを秒速で返して、ルンルン気分で同伴したことだろう。げに愚昧なり。
では今はどうか。仮に女性から祭りに誘われたら、僕は行くのだろうか。あのとき諦めた浴衣デートを、棚ぼたでエンジョイするのだろうか。
これについては、病気みたいなことを言うが、絶対に行かない。女性が僕を祭りに誘う理由として考えられるのは、勧誘か美人局しかないと思うためだ。
それくらい、自分には青春イベントを共に過ごす相手としての素質が微塵も無いことを、今は強く自覚している。
というわけで、そもそも僕は誘われる理由が無いのだから、その時点で何かきな臭いというマインドセットと、HSP的な刺激の弱さが相まって、祭りに無縁なのだ。
率先してネガティブキャンペーンを展開するほど嫌いではないのだが、だからと言って行きたいとも思わない。つまりどうでもいいイベントの1つに過ぎない。
いつの間にかコロコロコミックを読まなくなるように、自然と僕は祭りに心を躍らせなくなった。深い意味なんて別になくて、単に年を取った。
ただそれだけの話なのかもしれない。
目で追ってしまう異性に抱く感情は、アレと同じ。
僕はアセクシャルだと思っているのだが、それだと1つ説明がつかない現象がある。それは、時たま目で追ってしまう異性がいることである。
それは服装のせいだったり、雰囲気だったりするのだが、思春期の男子なら普通にやるアレが、今の自分に残っているのが不思議で仕方がないのである。
―と思っていたが、少し引っ掛かるものも、同時に感じていた。それは、目で追ってしまうものの、意識から秒で消えてしまうという点だ。
男性ホルモンを持て余している男子であれば、エロい人をみたとか、かわいい人をみつけたとか、そういうことを思い出してべらべらと喋れることだろう。
しかし文字通り、僕の場合は「おっ」とこそ思えど、それだけでマジで終わりなのである。この辺をどう解釈すればいいのか、なかなかに悩んでいた。
その答えに辿り着いたのは、最近の話だ。別に異性じゃなくても、僕は「おっ」と思って目で追ってしまう何かがいることに気が付いたのだ。しかもその意識はすぐ消える。
・・・怒られそうだし、頭がおかしいと思われそうだが、その何かとは、ちょっと珍しい生き物である。特に、昆虫と水生生物に多い。
例えばこの間は、オニヤンマを見かけて「おっ」と思い、しばらく立ち止まって目で追ってしまった。
別の日は、近所の小川にスッポンを見つけて、息と存在感を殺しながら、じっとその姿を観察していた。
こんな風に、目を奪われて、追ってしまう何かという意味では、琴線に触れる異性も珍しい生き物も、僕にとっては同じということになるらしい。
それに気付いてからというもの、僕はやはり恒常的な恋愛感情を持つことができないんだなと、改めて腹落ちした。どう頑張ってもオニヤンマを愛せないのと同じだ。
試しに、先ほど目で追ってしまった異性がすぐそばにいるキモいことを想像してみたが、そうすると性嫌悪の方が勝り、「それは嫌だな」と自然と感じてしまった。
神様ありがとう。あなたがくれたアセクシャリティと性嫌悪のおかげで、僕は一切のストレスなく、彼女いないライフを満喫できている。
気質なので、治癒することは無いだろう。僕の青春は、まさに来世に託されたということなのである。
終わりに、:青春と無縁。だから何?
別に何かが欠落しているとは思わないが、青春イベントってやつは、僕という個体に限定すると、お互いに全く関係ない世界に存在していることがよくわかる。
ベン図でいう共有している部分が全く無いのだから、歩み寄る余地が無いのも頷けるという話。ただそれだけなのだ。
それに気づくまで結構時間が掛かったし、色んな無駄なことも重ねてしまったが、その結果今の平穏なメンタリティを得られていると思うと、悪くない投資だったと思う。
さらば青春。僕はもう、朱夏の段階に入ったようだ。青春イベントを何一つ経験してこなかった僕だけど、その集積である今の暮らしは、驚くほど平和で楽しいぜ。
歳を重ねる度、悶々としていた若い頃に抱えていたジレンマが、自然と答えを得て解決していく。そして、解けた問題は記憶から消える。綺麗にしこりが無くなっていく。
コリが無くなれば身体は軽くなる。それと同様で、僕の心は今、当時よりずっと軽い。そういう意味では、おっさんになっていくこともそこまで悪い話じゃないな。
ということで、今日はこの辺で。