僕はネガティブだけど、それなりに充実した人生を生きたいと思う。

「ネガティブ」で片づけず、自分の観察を続けたい。

「俺を特別視する人は、どうしても人を見る目が無いと思っちゃう」

今日は、3年前にアップした「「結婚はしたいけど、俺を選ぶようなアホとは結婚したくない」←超わかる」という話の続きを書いてみる。

hitomishiriteki-jinseikun.hatenablog.com

 

というのも、昨日、高校の同級生と久しぶりに会い、ちょうどその話題に近い会話になったこともあり、改めて掘り下げてみたら新しい発見に至れるのでは、と思ったのだ。

 

実際、3年経った今も、僕にとってあの言葉は全く揺らいでいない。むしろその確信は更に凝縮し、凝固し、硬度を年々高め続けている。そんな実感さえ抱く。

 

これは「僕が自分に自信がないことによる卑屈なメンタルをただ論理的に書いただけ」という、過度に単純化された話では、”まったく”ない

 

冷静かつ客観的・論理的に考えていくと、もし僕に対して特別な価値や恋愛感情を抱く人が居れば、それはその方に人を見る目が無いだけだと自然に帰結できてしまうのだ。

 

だから、特別扱いされたり好意を示されたりすると、僕はなぜか、その人に対して萎えてしまう…という話も、前回書いた。

 

さて。改めてあの記事から3年が経った今、僕がどういうプロセスを経て、一体今は何を考えるようになったのか、ここで改めて立ち止まって、整理してみたいと思う。

 

 

特別性など、砂上の楼閣に過ぎない。

 

恋愛について真面目に考察した記事を読むと、「この人は特別だ」という思いは、ステータスを超越するという、そんな主張をよく見かける

 

例えば高収入・高学歴の人と、趣味・価値観・思い出が同じ人が並んだ場合、普通ならまず間違いなく、前者が選ばれるだろう。

 

しかし場合によっては、思い出や共通点といった“特別性”が社会的な肩書や秀でた容姿などを打ち負かし、後者が魅力的に見えることもある、というのだ。

 

だから「誰かの特別になれるよう努力しよう、恋愛は万人に可能性がある」と結ぶ記事も多い。なるほど、一理あるような物言いだ。だが僕は、どうしても解せない

 

例えば僕に特別性を見出す人が現れたとしたら、僕は間違いなく、まずは疑問や疑念を抱く。不信に近い感覚だと言ってもいい。

 

なぜなら、この世には僕の完全上位互換が溢れていることを知っているし、それ自体にさして不満も無く、完全に納得しているからだ。

 

僕より見識に富み、話が面白く、背が高く、容姿に優れ、学歴もあって収入が高い人間は、いくらでも存在する。なんならその数も、年月が経てばさらに増えていくだろう。

 

だから「あなたは特別です」と言われても、僕にとっては根拠の薄い幻想に過ぎない。その言葉はむしろ、相手との間に絆ではなく、強固な壁を作り上げるだけだ。

 

もちろん、他人同士が納得して付き合うことに異論はない。だが自分が当事者となると、どうしても「俺で妥協するなよ」と思ってしまう

 

以前も触れたが、バキ童ことぐんぴぃ氏が「自分に興味を持ってくれる異性がいた時、むしろ引いてしまう」と語っていたのを見て、膝を打った。僕も同感だからだ。


その理由が「申し訳ないが、その人は大したことないと思ってしまうから」という点にも、正直めちゃくちゃ同意する。なんというか、一瞬で冷めるのだ。

 

例えば、「美人なのに喫煙者」とか「イケメンなのに不潔」といったエピソードを聞くことがある。卓抜した魅力があっても、欠点一つで全ての好感が失われるという例だ。


僕が抱く感覚も、それに近い。「あなたが素敵です」「あなたが特別です」というメッセージこそ、僕にとっては相手を避ける理由になってしまう。

 

特別性など、所詮砂上の楼閣に過ぎない。そう確信する理由は、僕自身の体験談にも裏付けられている。その話は後半で紹介しようと思う。

 

正直、”遺す”ことに興味がない。

 

先日、友人との飲み会で「お前は結婚する気はないのか?」と尋ねられた。正直に言えば、ここ数年、そんなIFストーリーを一度も考えたことがない

 

誰かの夫や父になる未来を想像することは、「もし自分が力士になったらどうしよう」と妄想するくらい、僕には意味のない物語だ。

 

そもそも結婚とは、血の繋がりのない他人を互いの家族として迎え入れること。そう理解している。そのためには、特別性や安心感によって支えられた絆が必要になる

 

そして、他人であることから家族になるまでを繋ぐ部分について、昔はお見合いや縁談が一気にそこを割愛していたが、今は【恋愛】というプロセスが担っている

 

しかし僕にとって恋愛は、肉欲ありきの駆け引きが前提の、端的に言えば「クソゲー」である。だから僕は、参加する気自体が毛頭ない。

 

もちろん「恋愛に向かない人でも結婚に向くことはある」という理屈も耳にする。だが僕が家庭を顧みないタイプでもあることなど、少し相対せばすぐ分かるはずだ。


それを承知で僕を「夫」や「父」として選ぶ人がいたら、その相手の人を見る目のなさに、一瞬で不信感を抱いてしまうだろう

 

認められたり特別扱いされたりすると、はっきりと萎える。この感覚は、僕自身、まだ完全には言葉で説明できない。だが強くそう思うのは事実だ。

 

そして結婚や恋愛は基本的に「あなたは特別だ」と互いに思うことで成立する関係性だろう。どうでもいい人同士で成り立つ例外もあるが、それは極めて少数派だ。

 

しかし僕は、誰か特定の人を指して、「あなたは特別だ」なんて口が裂けても言えない。なぜなら、それは嘘だからだ。


この人は特別、という感覚は気分や時期によって必ず変わるし、時間が経てば確実に色褪せる。上位互換がこの世に無数に存在する以上、持続するとは到底思えない。

 

だから僕にとって、恋愛という構図自体が根本的に噛み合わない。そしてその延長にある結婚もまた、同様に馴染まない

 

・・・ここまでわがままを書いていながら、僕は東大卒でも起業家でもない。すなわち、社会的なステータスは何一つ持っていない。


だから選ばれないのは至極当然だし、むしろ「俺を選ぶような人はヤバい」という感覚は、そうした前提から帰納されるのだ。

 

もっと素敵な人も、もっと広い世界も絶対にあるのに、なぜ探そうとしないのか。やはりそんな疑問を、僕は強く抱いてしまう。

 

「告白」という儀式はマジで意味が解らない。

 

僕は恋愛そのものを解せないのだが、特に理解できないのが「告白」という手続きである。

 

人は、「あなたのことが好きです」と言われたところで、「だから何?」と思わないのだろうか。そして、そう返されるとは思わないのだろうか。

 

そんな疑問を抱いてしまう。

 

「一度も言われたことがないやつが、なにを斜に構えてるのww」と言われればそれまでだが、実はいっちょ前に、告白を“された”経験はある。その上での物言いなのだ。

 

しかもこの記事を書いていて思い出したが、僕は二度、そういう経験がある。しかしそのどちらも、僕にとっては強烈な黒歴史として、記憶の奥底に刻まれている

 

最初の方は、小学三年生の頃だったと記憶している。細かい経緯や周辺情報は全て忘れてしまったが、とある女子からラブレターらしきものを、突然もらったのだ。

 

そのことを僕から周りに言ってしまったのか、それとも誰かが嗅ぎつけたのか知らないが、すぐ皆の知るところになったことだけはなんとなく記憶にある。

 

その結果、同級生の男子に囲まれ、下校中、散々冷やかされたものだが、当時はただただ戸惑いしかなく、一体何が起きているのか、理解することができなかった。

 

しかし、現実というのは摩訶不思議なものだ。想像だにしなかった出来事が、そのあと起きた。それが原因かどうかは不明だが、その子が段々、学校に来なくなったのだ。

 

気付けば、連絡帳に励ましの言葉を書いて、担当の人がそれを届けに行くということになっていた。僕がそこに何を書いて、どう託したか、それはもう思い出せない。

 

そしてその後についても、記憶からすっぽりと抜け落ちている。その子は小学校を出た後、どこに行ったのだろうか。同じ中学校ではなかったような気はしている。

 

・・・自意識過剰だとは思うが、僕なんかに想いを伝えたせいで、こんなことになったのではないか?僕がその一因なのではないか?そんなことを、思わなくもない。

 

そのせいか、この一連の出来事に、甘酸っぱさは1㎜も感じない。むしろ何か取り返しがつかない悪いことに、知らぬ間に巻き込まれたというきまりの悪さを感じている

 

今振り返れば、恋愛に対するしこりが生まれたのは、この記憶がルーツになっているように感じている。つまりそれは、僕にとっての、最古の嫌な記憶の1つなのだ。

 

・・もう一つは、中学校を卒業した直後の話になる。春休み中のある夜、何気ないメールのやり取りの中で、「あなたのことが好きです」と書かれた一文が送られてきたのだ。

 

その瞬間の僕は、甘酸っぱい高揚感を覚えるどころか、むしろ真逆だった。血の気が引き、寒気に近いものを覚えた。おそらく顔も引き攣っていたと思う

 

驚きではなく、「聞いてはいけないものを聞いてしまった」「言われたくないことを言われてしまった」という種類の拒絶反応に近かった

 

ならば即座に断ったのかと言えば、そうではない。どういう経緯か忘れたが、僕はすぐに電話を掛けた。すると相手は、電話口の向こうですすり泣いていた。


そこで僕は、「まず落ち着かせなければ」という責任感に駆られた。結果として、その責任感に押されてOKを"出してしまった"のである。確かに相手は、喜んでいた。

 

・・・・・しかしながら、今振り返れば、完全な悪手だったと断言できる。僕の未熟さと心の弱さが打たせた最悪手だったとまで言い切ってもいい。

 

断っていれば、確かにそのときはその子の心に傷を負わせただろうが、長期的に考えると絶対に、僕とその子の二人が不幸にならずに済んでいたはずだからだ。

 

もちろん「好き」と言われるだけありがたい、という考え方もあるだろう。だが僕にとっては、真っ先に「なんでだよ?」という疑念が立つ


その言葉は、相手の中で勝手に編集された僕の一側面に向けられているだけで、本質にはまったく関係がない。どうせ後々、その人は僕にがっかりするだけだ

 

実際、僕はその1か月後、その子から見事にフラれてしまった。「思っていたあなたではなかった」という一言を添えられて‥。

 

―やはり、これらの2つの記憶を持っておきながら、【告白】という手続きが求められる物語やゲームに共感や憧れを覚えるなんてのは、とても無理がある話である。

 

こうして紐解いていくと、僕はやはり、徹底的に恋愛に向いていない。何度も自己分析してきたが、必ずここに行き着く。もう、納得するしかないのだ。

 

そうした自覚があるからこそ、僕を「素敵だ」と言う人を前にすると強烈に醒めてしまう。たまに褒められることを言われても、未だに「むっ・・」とする自分がいる

 

「あなたのことが好きです」という一節には、僕にとって「I like you.」以上の意味はない。それ以上を背負わせようとすること自体が、虚構の押し付けに感じられてしまう。

 

終わりに:僕はなぜ、特別扱いされたくないのか。

僕はなぜ、ここまで特別扱いされたくないのか。

 

それは僕が卑下しているからでも、自信がないからでもない。むしろ自分に対する評価は、この上なく妥当だと思っている。

 

世の中には、僕より学歴も収入も容姿も優れた人間が無数にいる。そんな前提で「俺は特別だ」と言えるほど、僕は無邪気ではないからだと納得している。

 

さらに、僕は恋に興味が持てないアセクシャリティと、性的なものに嫌悪感を抱く性嫌悪症を、後天的ではなく先天的に持って生まれている

 

これほど歪でありながら妙に完成された視点と特性を自覚している以上、それに「価値がある」と言う人がいたら、正直理解できない。それが本心だ。

 

僕は自意識過剰なのではなく、誰よりも先に「自分に幻想を抱くこと」をやめただけなのかもしれない。それが今のところの暫定解だ。

 

では今日はこの辺で。

 

 

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