好きな人なんかいないと思うが、僕はネットの罵詈雑言に凄く不快感を抱く。繊細ゆえに傷つくという感じではなく、どちらかと言えば、すごく痛々しいと思うためだ。
さっきもついうっかりXにログインした結果、正直小学1年生の男子レベルの悪口の言い合いが繰り広げられているのを見てしまい、胃袋の辺りが酸っぱくなっている。
僕はまだまだ、こういう突発的な嫌悪感に対して、上手く受け身が取れない。不快な気持ちがやや持続し、集中力や体力を削がれるのを感じている。
都度自分の心を観察してその原因を探ろうとしてきたが、ついさっき、その理由がやっと、「これかぁ~・・・」という感覚を伴って理解できたと感じる。
今日はそういう、嫌悪感と上手く付き合うためのお話である。
僕は悪口自体に弱いわけではなく・・・
そもそも論、僕は別に悪口自体に嫌悪感があるわけではない。例えばその辺の子どもから「くそやろ~」とか言われても、笑って受け流すことができる。
仮にヘンな大人から「ざけんな!」とか言われても、「うわぁ、動物!」と思いこそすれ、自動的な嫌悪感に繋がることはあんまりない。
しかしながら、読んでて恥ずかしくなるような論拠で、稚拙な何かを繰り広げている人を見ると、どの媒体であれ、とても嫌な気持ちになる。
「言いたいことがあるならカモンカモン~」なんてこっぱずかしい文を、匿名であることをいいことにキャッキャとしながら投稿している大人が今も日本に居ると思うと・・・
同じ大人(とは思っていないが)として、猛烈な恥だ。正直、そう思う。できれば関わりたくないどころか、視界にも、認知にさえも、入れたくない。
うっかりそういうのを見てしまうと、僕は嫌な気持ちになる。即座にブラウザを閉じても、足の小指をタンスにぶつけた後の痛みのように、それはしばらく続く。
それが持続している間、僕はすごく損をしたと思ってしまう。そこに悔しさも感じ、すぐに気持ちを切り替えられない自分にも情けなさを感じ、更に持続してしまう、と。
他者への恥と嫌悪、そして己への悔しさと情けなさ。僕にとっての不快感とは、この全てがごちゃ混ぜになった結果、生じている何かなのだ。
こんな風に分解していくと、ふと気になることができた。それは、最近没頭していた以下の本に書かれていた、「因果」の構図に当てはめることで、見えてきたものだ。
僕が今感じている【嫌悪感】は、果だ。そして【罵詈雑言】は因である。となれば、罵詈雑言を僕にとっての嫌悪感たらしめている、縁はなんだ?
そこを考えていると、ある仮説が立った。ただその仮説は、拍子抜けするほどみょうちきりんで、それこそ、「な~んだ・・・」という感想を持ってしまう。
ということで続いては、その仮説を言葉にしておく。
嫌いな頃の自分を見せつけられることによる羞恥。
その仮説とは、僕自身が、過去の僕の言動に抱き続けている恥の感情こそが縁というものだ。どういうことか、書いてみる。
他者へのマウント。揚げ足取りでの論破気分。オンラインの匿名性の中で相手を煽る。何かを知っている側だと考えて悦に入る。決めつけで判断し、それを曲げない。
どれもこれも、僕が嫌いな頃の僕の言動と思考そのものである。むしろ今は、それを「恥」と思えるくらい、そこから遠くに行けたことを喜ばしく思っているほどだ。
ネットの罵詈雑言や不毛なやり取りを見る度に、僕が想起しているのは、嫌いだったあの頃の自分なのではないか。すなわち、誰が誰に何を言っているかは、どうでもいい。
僕の好きなインフルエンサーが粘着されているから不快なのではなく、粘着という行為をしていた頃の自分を思い出してすごく気持ち悪いから不快なのではないか?
そういえば、他者から見れば大ダメージを覚えるような事柄であっても、当人たる僕はノーダメージか、そもそも気付いてない、なんて思い出もある。
一方、僕は強い恥を覚えたのに、誰からの賛同を得たことが無い思い出もある。あくまでも僕の中で、僕自身の価値観と照らし合わせることで生じた、個人的な恥のようだ。
ならばむしろ、これこそが因で、罵詈雑言の方が縁ではないか?そうとさえ思えてくる。根深さを覚えるのは、どう考えても過去の自分への羞恥だ。
ここを克服できない限り、僕は永遠に、この苦の雑草を生やし続けることになる。過去の恥に今の僕が振り回されてたまるかい、と。
だから、そことの折り合いをつけるため、一読し終えた本をまた手に取った。それは、【感情は、すぐに脳をジャックする】という一冊だ。
この本の後半で、【恥】についての鼎談があるのだが、今の観点から読み直すと、違った発見がある気がする。
それを読んで「ほう」と思ったのは、人によって何を恥と感じるかは違うのだが、それはざっくりと、他者への恥か、自分への恥か、という風になるそうだ。
そして僕が「恥」と記憶している思い出は、ほぼ例外なく”僕にとって”恥ずかしかったものである。なんなら、自分以外の誰も見ていない際の言動も、その中には含まれる。
姑息な自分。傲慢な自分。勘違いしている自分。井の中の蛙の自分。物に当たる自分。その全てが痛々しくて、本当に”恥ずかしい”。
そしてネット上に存在する有象無象は、僕が嫌いな僕をそのままキャラクターにして具現化・Bot化したかのような不快感を纏っている。
だから僕は、あの言動で猛烈に嫌な気持ちとなってしまうのだ・・・。
あぁ。ようやく、自分の潜在意識の、最たるバグに辿り着けた気分である。僕が僕の中に抱く恥を、”嫌でダメなもの”と反射的に解釈する有り様。これにテコ入れせねば。
僕は僕の「恥」を、ここから更新したい。続いては、ちょっと粗雑ではあるが、そのためのヒントになりそうな教えを集めておく。
恥は僕の一部だ。―そして辿り着いた暫定解。
恥を肯定する方法などあるのか。かなりの難題かと思っていたが、やはりというか既に仏教の中に、そのヒントは用意されていた。
とある問答集を読んでいると、「恥」に関するものがあった。それを読んでいくと、「そう考えると、確かに健全だ!」と思える項に出会った。
では「恥をかく」ということを説明しましょう。人は恥をかきながら成長するのです。恥を怖れると、何もできなくなってしまうのです。
子供を見てください。恥ずかしがると何もしないでしょう。挨拶もしない、名前も言わない、お遊戯会でも何もできないなどの問題が起こるでしょう。我々の今までの人生で辿った道を振り返ってみると、「恥かきの連続」ではないかと思います。それで成長して大人になったのです。わざと恥をかくような行為をするのはとんでもないことですが、生きていく上では「恥」と思うことは日常茶飯事です。
普通は、「恥ずかしい」と思っていることをすべてきれいさっぱり忘れて、「自慢しながら」生きるのです。「恥」は自分の辞書にないように思うのです。恥を嫌う人が何かをすることになると、恥をかきたくない、恥をかきたくない、と妄想ばかりをして、大失敗するのです。結局は大恥をかかされるのです。恥をかきたくなければ、「恥をかいてもかまわない」と思って、やるべきことはやるのです。「恥をかきたくなければ恥をかきなさい」とでも言っておきましょうか。
また、恥の連続である人生をありのままに観察しないで「自分の人生は成功の連続だ」と勘違いする人は、「自分がなんでもできる人間だ」と夢想します。
この実体のない自我が、人を無能な人間にしてしまうのです。我々は必死でこの自我を守ろうとするのです。ですから失敗を怖れるのです。「恥をかきたくない」と懸命になるのです。結果として、何もできない、何もしない人間になるのです。メンツが気になる人のメンツがつぶれます。恥をかきたくない人こそ、大恥をかきます。失敗したくないと思う人のみが、失敗をするのです。
恥とは、本来は社会的・道徳的に見て好ましくない言動を抑制するための感情である。これを胸の内に生じさせるのは、ある意味で精神的な成長を表す。
また、そもそも論、恥の感情が無いのは愚かであるとはっきり言っているものもある。それに関連するのが、【無慚】という心の持ちようだ。
まず「慚」とは「恥」のことです。なので、無慚とは恥のない心の状態のことです。
悪いことをするのに「何の恥も感じない」。これが無慚です。
私たちは、恥(慚)を感じる心があるから、悪いことしないようにコントロールできているのです。
ここで冷静に、僕が「恥」と感じることを見つめ直してみる。
他者へのマウント。揚げ足取りでの論破気分。オンラインの匿名性の中で相手を煽る。何かを知っている側だと考えて悦に入る。決めつけで判断し、それを曲げない。
僕はこれらを「恥」だと考えている。それはつまり、僕はこれらの行為を”しない”ということだ。これらを”する”側の集団に、自分はいないという認識。
恥とは、つまりその実感を与えてくれているのだとすれば?これはある意味、僕という個人のアイデンティティに、強く寄与していると感じられてくる。
恥もまた、僕なのだ。僕という人間は、”なにをするか”だけでは、できていない。”なにをしないか”という成分もまた、とても大切なはずだ。
恥そのものを肯定し切ってしまうと、恥を消すことになる。それは無条件に良いこと・・なんてことはなく、厄介なリスクを孕んでいる。
恥の感情が無くなるということは、それはつまり、嫌いで仕方なかったあの頃の自分に回帰・同化することに他ならないのではないか?
それは・・・・・・・・・・・・マジで願い下げだ。
ここまで考えて、僕はすごく納得した。心の底から納得した。自分自身の中に【恥】と記憶されているものを、肯定し、受け入れて、体現することは絶対にやめよう、と。
そうではなく、恥によって立ち上る嫌悪感を、「俺はそっち側じゃない」という安心なり決意なりに変えて、認知し、受け止めようと思う。
これはそんなに難しいことではない。筋トレ後の筋肉痛という痛みを、「この部位にちゃんと刺激が入った証拠か」と解釈するようなものだからだ。
痛みは、正しいやり方や努力の結果によるものであれば、成長とセットになって現れるものだと僕は感じる。嫌悪感も、そんなものだと、僕は認識を改めたい。
だから、暫定解を書く。
ネットの罵詈雑言で嫌な気持ちになる理由がわかった。僕が過去の自分の言動に抱いている、猛烈な恥の感情を思い出させるからだ。
しかしその恥の感情は、今の僕がその言動を取ることを食い止める、強い自制になっている。僕がなりたくない僕から自然と今の僕を遠ざけてくれている、大切な感情だ。
無条件に恥の感情を消すことは、なりたくない僕に近づくことを意味してしまう可能性もある。嫌悪感は、「そうではない」というメッセージだ。
恥を肯定しない。恥の感情によって生じる嫌悪感を、僕は肯定する。
4500字を費やして、ようやくここまで、たどり着けた。あとは日々、修行するのみだ。今後嫌悪感に触れる度、僕はこの認知を改める訓練を重ねなければならない。
恥ずかしい言動や人間を見る度、僕は今後も嫌な気持ちになるだろう。だがそれは、ある意味、「安心していいよ」というサインなのだ。
むしろ自分から恥の感情が消えてしまえば、僕はどんだけクソでカスな人間になっていることか。想像するだけで極めて恐ろしい。
なりたい自分だけでなく、なりたくない自分。どうなりたいの?とはよく聞かれるが、どうなりたくないの?と問う人は少ない。
そんなとき、自分が恥ずかしいと思う対象を観察してみると、また違った側面から自分自身を観察できるかもしれない。
そんなヒントになっていれば嬉しく思う。では今日はこの辺で。