僕らとネアカの違いは何だろうかとよく考える。
もちろん、『生まれ持った性格!』で割り切ったら思考が停止しているだけなので、なるべくロジカルに考えるように気を付けつつ、だが。
そして今さらなのだが、最近気付いたことがある。
それは、『人見知りか否かで、他者に対する考え方がまるで違う』というものだ。
ざっくり言うと、まず人見知りは、他者に対する評価が厳しい。人見知りと人嫌いは違うものの、結構似ている。
そして、ネアカは、良くも悪くも他者評価があっけらかんとしている。フランクで、何より軽い。
今日はその違いを、主観たっぷりで述べつつ、どういう風に実生活へ活かしていけばいいのかを論じてみたい。
ネアカの他者評価。
まずネアカは、『他者が自分をどう思うか』をあまり気にしていないと感じる。
勿論、不快感を与えないように色々と身なりに気を遣うなどのエチケットはあるが、病的に思いこむことは基本無い。
僕の友達で言えば、居酒屋の女性店員に軽く声を掛けるヤツとか、知らないおじさんと時事ネタで盛り上がるヤツとかがそれに当たる。
『相手がどんな人かを知るために、とりあえず話す』が、とても軽いノリで出来る。それがネアカの一面なのかもしれない。
実際、彼らに聞いてみたことがある。『お前らは何故そうも気さくに他者と話せるのか』と。
案の定返しは『なんでお前は出来ないの?』が大半であったが、理屈を添えて話してくれたヤツも居るわけで。
彼ら曰く、
『感覚として一番近いのは、【旅の恥は掻き捨て】かなぁ。馬が合えばそれからも交友すればいいし、そうじゃなければこの場で終わる程度の関わりじゃん』
『あれこれ考えてから話しかけるのなんて七面倒だから、とりあえず声かけてから考えればいいじゃん』
という考え方らしい。
前提として『嫌われたくない』というのが頭に無いとよく分かる。馬鹿にしているワケでは無く、純粋に凄い。
僕らにとっては無謀としか思えない状況に突っ込み、時には軽いポカをしつつも、結果トータルで人見知りとは天地の差ほど離れた成果を得てくる。
そういった理念の人間の周りには人が集まり、孤独とは無縁だ。陽気な人は太陽のような人とよく例えられるが、決して大げさではないと感じる。
―では一方、僕らタイプの人間は、他者をどう捉えているのか。それを正直に白状しようと思う。
人見知りの他者評価。
一言で言えば、『他者は、めちゃくちゃ気を遣わなければならない存在』である。なんか過激だがそれは置いといて。
例えば、誰かに話しかける(たい)場面があったとしたとき、僕が真っ先に思うのは、『不快にさせたらどうしよう』である。
『興味ない話題振ったら申し訳ないな』『誰かと話すという気分じゃなかったら悪いな』『そもそも僕なんかが話しかけるのも良くないかも』
というクソみたいなブレーキが、僕に猛烈なストップをかける。
結果、誰に話しかけるともなく、集まりの隅で存在感を消していた日々もある。さすがに最近は、そこまでのそれは無い。
また、第一印象がなんか怖いとか、逆に過度に明るいとか、そういう不安要素があれば、そもそもその人に近づくということも僕らは避けがちだ。
表面上の雰囲気で、その人の全てを判断(しかも大抵悪い方に解釈)し、結果『近づかない』を選ぶ。うむ、クソ野郎である。
こういった思考をしてしまうのは、『自己評価がとてつもなく低い』『想像上の他者が敵のような存在になっている』等が原因だろう。
自分の評価がとても低いからこそ、自分が話しかけようものなら迷惑だと被害妄想を膨らませ、コミュニケーションから回避する。
或いは、どんなにニコニコとやり取りしても、その人は後々SNSとか仲間内で、自分のことをメタクソに言っているかもしれない。
そういうこれまた被害妄想が頭を支配して、一歩踏み出すことすらせず終わる。(この思考は恋愛に多い気がする)
普段はポップな闇程度で語られる事柄たちだが、活字に起こすともはや深淵の底のような闇である。
乱暴にまとめれば・・・。
ネアカの他者評価は『こちらからすれば信じられない程浅く軽い』し、逆にこちらのそれは、『ネアカからすれば信じられないくらい深く重い』のである。
うーむ、不健全、不健全。
どうやら人間関係に無用な疲れを溜めこまないためには、こういった思考を把握した上で、ある程度理性で制御する必要がありそうだ。
実のところ、僕は結構前から己の思考のドス黒さを自覚しており、最近は少しずつ理性でいい塩梅のところへ持って行けるようになった。
ということでここからは、ある種の具体論を、つらつらと述べていこうと思う。
他者は自分に興味がないと自覚する。
僕らの一挙手一投足は知らないところで見られ、知らない誰かの笑い種にされる―。
フレーズでこうは思っていなくても、似た思考を持っている人見知りやネガティブは多い。
しかし、やっぱり他者はそこまで暇じゃない。一市民を監視して、一体何が面白いというのだか。
そもそも、自分は他者から見たらピエロなことをしている・・というのも、実際自意識過剰な思い込みである。
ということで、以下簡単な思考実験である。少し思い出してみてほしいことがある。
今まで、突拍子もない服装をしているヤツ、すさまじい髪形をしているヤツ、道端で変なことをしているヤツを見たことはないだろうか?
そしてあなたは、そいつらの背丈・顔立ち・性別・目撃した場所をいくつ思い出せるだろうか。
ちなみに僕の場合、結構頑張ったが、思い出せた要素はほぼ0である。原爆ドーム前で見た、30cmはあろうかという緑のモヒカン、くらいかなぁ。
そう。
そこまで突拍子が無いことをしても、人の記憶にはほっとんど残らないのだ。
とりわけて特徴がない僕たちを一見して覚えられる人間は、よほどの変わり者かある種病気である。
正直、このことを自分の中でハッキリと自覚するだけで、僕は色々な考え方が軽くなった実感がある。
他者は自分に興味がない。だから、コミュニケーションを図る前に色々と気負うだけ無駄だよ、というのを僕はここで伝えたい。
まずは聞き役から始めてみる。
『ウケる話をしなければならない・・』と思い詰める人間は、案外多い。だが、正直、その要素で集まりの人選を決めたことは、人生で一度もない。
僕らは話が面白いことを別に求めていないのだ。本当にそれが狙いなら、家でお笑い番組を観ていたほうが確実である。
そもそも、【面白いこと】を言うのは、とてつもなく難しい。
ドジを踏んだ話がウケる場もあれば、共通した知人の面白いエピソードや、なんなら下ネタで攻めた方が良い場もある。
それは日々刻々と変わり続ける要素なため、読むことが出来れば本当にプロである。
自分から主体的に情報を発信する技術は難しい。だからこそ、これまた本屋に行けば、同様のテーマのそれを大量に見つけられる。
だが逆に、『聞き役』に求められるものは、結構淡泊で、真似するのが楽だったりする。
例えば、心理学用語で、『ミラーリング』『バックトラッキング』といったものがそれに当たる。
ちなみにミラーリングとは、意識して相手の動作を真似ることで、バックトラッキングは、相手の発言を繰り返すことである。
詳しくは、それこそ心理学の本を読んでみてほしい。結構実践的な内容も多く、読み物としても面白い。
―ということで、話し手としての技量に不安があれば(そういう人だらけだとは思うけれど)、聞き役としてのスキルを勉強してみるのもまた一手である。
割り切る。
『八方美人』を止められない人が居る。誰にも嫌われたくないから、誰にでも従順な姿勢を示す、みたいな。
ハッキリ言って、こういうのは無駄な努力だ。八方美人に徹しても、そもそも八方美人と言う気質を嫌う人だっている。
他の誰かのための自分になったらお終いだ。今は強くそう思う。
こういう目線を持つと、『誰にでも好かれる人』を別視点で考えられるようになる。
『全員がその人のことを好き』というより、『その人のことが好きな人しか周りに置かない』というのが、本来の姿に近いのではないだろうか。
個性がハッキリしている程、『ムリ!』『イイ!』がハッキリする。
『ムリ!』なら離れたり寄ってこなかったりで、『イイ!』なら向こうから寄ってくる。
己を殺して他者評価に徹すれば、何事も中途半端になる。結局、八方美人に待っているのは、どう頑張っても不幸なのだと、僕は独りごちている。
そう自覚してから、自分勝手に生きられるようになり始めた。そう信じている。
天性の人見知りに少々の身勝手さを加えたところで、どこまで行っても僕は結局、傍若無人という域までは達しない。
でもそれは、ある種役得だとさえ思っているくらいだ。ネガティブが全力でワガママになっても、一般論としては普通のレベルなのだ。
実際、自分のことをハッキリ嫌いだと感じている人にも出会ったし、どうにも好きになれない人にも出会った。
あるミスを叱責されるも、どう考えても納得できず、喧嘩腰で上司に電話をしてしまったこともある。(結果円満に解決)
しかし、人の目を少しずつ少しずつ気にしないよう心がけることで、心がとても穏やかになってきたし、何より生きていてラクだ。
もっと早く気付ければよかった。10代の僕に何とかして教えてやりたいくらいだ。
―ということで、具体論なのだが、まずは『自分がどうにも許せない(架空の)人間』などを考え、『そういう人には嫌われてもいい』と決意するのが第一歩だと思う。
本質的に怖いのはきっと、『嫌われること』ではなく、『嫌われるとどういうことになるか分からない恐怖』だろう。
実体験としては、『あぁ、こんなもん?』程度であったので、やはりまずは恐れずに身勝手に振る舞ってみよう、という助言しかできない。
まとめ。
要約すると、ネアカが他者評価の念頭に置くのは『信頼』で、僕たちが置くのは『懐疑』であると感じる。
僕たちは裏切られること、厄介ごとに巻き込まれること、そういった要素に焦点を絞り、そのリスクを回避することにあくせくする傾向がある。
結果、『信頼』が前提に無いのだから『人からのそれ』も受け取りづらい。
そして何より、リスク(に見えるだけの当たり前な事柄)に付随する『幸福』も、僕たちは全力で捨てていることになる。
ネアカはそんな漆黒の未来を想像することなく、他者に無条件で『信頼』を置くことが多い。
実際に裏切られたりなんたりと不運にあっても、失ったことではなく、持っているものにしか目を向けない。
全てを受け止める器量があるからこそ、奴らは笑って生きられているのかもしれない。
器とか格といったものの違いを見せつけられている気がする。しかし、気付けたのなら矯正する余地はある。
まず大切なのは、自覚すること。
どうにもコミュニケーションが苦手な方は、このテーマを自分に置き換えて考えてみると、何かのヒントになるのではと思う。