2~3ヶ月に一回程度、『斎藤一人の道は開ける』を再読している。しばらくはみっちり読むことは無く、流し読み程度だったけど、久々にじっくり読んで驚いた。
教えは極めて優しく、かつ抽象的なのだが、その全てが科学的にも効果的というお墨付きを得ているからだ。
例えば、『通りすがる人全員に、この人には良いことが雪崩のごとくおきますと願うのがコツだよ』というくだりが別の本にある。
これは実際、『慈悲の瞑想』というマインドフルネスの手法とそっくりである。リラックスを得ることや、幸福感の向上に効果的なんだとか。
そんな色々とすごい言葉たちの中で、特に僕にとって重い言葉がある。それは『魅力』についてのものだ。
その中でも、この話が凄く心に残っている。
『魅力は、与えれば与えるほど増える。でも、奪えば奪うほど減るんだよ』
というものだ。抽象的だからこそ、『わかる・・!』と思われる方もいるのではなかろうか。
―だからこそ、僕はタイトル通りのことを、強く自分に抱いている。
僕はネガティブだから、ウェイトは奪う側にある。それなのに言動も奪う側とか、救いが無いので絶対にそうならないようにしてくれ俺。
もはやこれは強迫観念だ。以下、詳しく解説していく。
ネガティブを前面に出すと、それだけで奪っているモノがある。
僕はここに滅茶苦茶書いている通り、どうしようもないネガティブだ。しかし、冗談とか、そういう雰囲気とかじゃない限り、それを面と向かって発信することはしない。
理由は、ネガティブなオーラをバリバリに出しちゃうと、その場にいる相手から色々なモノを奪ってしまうからだ。
例えば、イライラしている人がいる空間は、それだけで居心地が悪い。つまり、その場にいる全員から安らぎを奪い、同時にストレスを振りまいているも同然だ。
また、ずっとネガティブなことを連呼して、他人に構ってもらってばかりいる人は、他者の時間を奪い、これまたストレスという負荷を与えている。
ということで、僕が『俺はダメなんだ・・』と一言ぽろりと漏らすとそれだけで、他人に悪い影響というマイナスなものをプレゼントしているということになっちゃうのだ。
中1数学みたいな言い方をすれば、みんなにマイナスなものをあげるとは、みんなからプラスのものを奪うことと意味は同じである。
だからこそ、ネガティブな僕だけど、せいぜい人見知りとか口数少ないヤツで評価が留まるよう、吐く言葉には結構気を付けているというお話なのである。
他者に厳しいことが美談になることとかほぼねぇよ!
突然だが、皆さんは憧れるコメンテーターや批評家、評論家、あるいはTwitter炎上家はいるだろうか。
僕は一人もいない。というか、できれば関わりたくない。なぜなら、こういう人たちが言うコメントで、『勉強になるわ~』ってのはほぼ無いからだ。何なら不幸になる。
大抵は誰かの代弁(という設定)で、当事者そっちのけの舌戦や、よくわからない謝罪要求、そして徒党を組んでの足引っ張り。
幸せを覚えるのは多分この人たちと、鬱屈していて暇な人たちだけだと、どうしても思ってしまう。堀江貴文氏も言っていたが、嫉妬したら負けなのだ。
―が、一歩間違えれば、ネガティブな僕らも簡単にそんな言動を言ってしまうことは知っておいた方が良い。それはかなり自然で、かつ無意識だからだ。
例えば、テストで良い点を取った友達に対し、『〇〇のが上だったぜ』『俺のが上だぞ』『取れて当たり前じゃんw』みたいに鼻っ柱を叩き折るような言動もそうだ。
これがもたらすものは、自分が優位に立ったという勘違いである。それ以外に何かあるだろうか?あるならぜひ教えてくだちい。
では、その代わりに失うものは?―簡単に言えば人脈だろうな、と。こんなことを言って自尊心をへし折るヤツの側に寄り添いたいマゾは、少数派である。
他者に厳しいこととは、言い換えれば他者の功績を認めず叩き折る姿勢を表しているのに等しい。
その毒舌を補って余りある別の魅力や実績があれば話は別だが、ただ口だけ悪いという状態なら、早晩孤立するのは目に見えている。
自信がないことの裏返しは、意外なことに謙虚のフリしたネガティブではなく、虚勢を張ることなのだ。
昔僕もこれに思い切りハマり、友達を全員失いかけたことがあるのでよくわかる。虚勢は本当に心地いいし、簡単で、かつ何もしなくて良いと思わせてくれるのだ。
だからこそ、僕らは『奪う』空気も出さないよう心掛けるべきだし、『奪う』言動も意識してコントロールせねばならないのだ。
身に染みて思う。
『ネガティブなのに他者に厳しいならば、それはマジで救いが無いので何とかしてください。』
常々自分に問いかけたい命題である。
ってことで今日はこの辺で。