僕はネガティブだけど、それなりに充実した人生を生きたいと思う。

「ネガティブ」で片づけず、自分の観察を続けたい。

『知識』と『諦め』こそが、人見知りを直す最良の”劇薬”かもしれない。

情けない話だが、30手前になる今の今まで人と、とりわけ異性と話をするのが大の苦手であった。

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今も別に得意ではないのだが、末期レベルだった10代後半に比べれば、相当マシになった。とりあえず事務連絡は平気でできるようになったし。

 

―ではなぜ、そのラインまで、自分は至ることができたのか?そこに至るために重ねた数年以上の無駄な努力を懐かしみつつ、最近分析をしてみたのだが・・・。

 

多分それは、『知識』と『諦め』のおかげだ。色んな事を知って、そしてあることを諦めると、人見知りは自ずと直るのではなかろうか。

 

今日はそんなお話である。

 

 

『知識』が可能にする『幽体離脱』。

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対人関係が苦手な最たる理由は、嫌われるのが怖いからである。だからこそ、自分が話しかけたことによるレスポンスを全て最悪な方に考えて、最初の一歩が出せないのだ。

 

だからほとほと人見知りが過ぎる自分が嫌いだったころは、とにかく『深層心理』を知るための本を読み漁った

 

事前にその人が何をどう考えているかを察知し、あらかじめシミュレートしたうえで、一歩を踏み出す。そうすれば、話しかける際の不安が減ると考えたためだ。

 

今思えば・・・努力がズレすぎである。

 

僕が学ぶべきだったのは、ハッキリ言って、『話しかけた後の手札』である。つまり、コミュニケーションをどう成立させるかに意識を向けるべきだった、と。

 

対人関係の入口でモジモジと考えに考えたあの時間と、それに投下したカネ。非常に勿体なかったぜ。

 

はてさて。それに薄々気付いてからというもの、僕は『コミュニケーション術』を謳った本を読み漁る方にシフトした。まずは『知識』という武器を増やす。

 

こうきたら、こう返す。さながら将棋の定跡を延々となぞるかのように、自分事と置き換えて脳内シミュレーションを繰り返したものである。

 

―それがある程度の期間続いたのち、自分の中に変化が起きたのに気付いた。

 

誰かと話しているときに、『次はどんな手を打とうかな』と、非常に冷静に手を選ぶ自分がいるのを、実感したのだ。

 

RPGで、現れた魔物にどんなコマンドを選ぼうか考える、あの感覚に近い。物理攻撃か、魔法か、アイテムか。

 

自分が蓄積しまくってきた『知識』という手札を選ぶ自分。そしてそれを使って相手とやりとりをする自分。

 

これはいわば幽体離脱』に近いモードだと考えており、今まで見たく目の前の人に嫌われたらどうしようとアップアップしていた頃は、一切抱かなかった感覚である。

 

そして選んだカードで相手がどう反応したか、会話がどう展開したかという経験は、また新たな『知識』を生み、手数がさらに増える。

 

こうして生まれた『余裕』こそが、僕の人見知りを大きく緩和した要素の1つとみて、間違いないと思う。

 

『他者に期待する』のを止めてみた。

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次に自分の人見知りを大きく矯正するきっかけとなったのは、間違いなくアセクシャルと性嫌悪の自覚』である。

 

僕がなぜ、とりわけて異性とのやり取りが苦手だったのか。今なら思うのだが、『あわよくば関係が発展しないか』と期待していたからなのだろう。

 

例えば、今は何とも思っていない状態でも、やり取り次第では自分に魅力を感じてくれるのではないか。となれば、いい加減なやり取りは絶対に出来ない・・・。

 

そういう皮算用が要らぬ緊張と躊躇を生み、些細な第一歩さえ封じる。勿論同時に、『嫌われたらどうしよう』という相反する恐怖も感じていたけれども。

 

―だが、自分は多分そもそも『好き』を理解することができない、そして性的な関係が本能的に嫌いだということを悟ってから、この辺の謎過ぎる『期待』は綺麗に消えた。

 

僕は『異性』に対し、期待も恐怖も抱くことがだんだんと薄くなっていったのを覚えている。

 

せいぜい深まっても『友人とか知り合いの距離感』である。友達に対し話しかける勇気がないとか、あり得ないではないか。

 

―そう悟ってから、僕は普通に話しかけることができるようになっていった。『期待』を止めてからそれができるようになるなんて、全く想像しなかった結果だけど・・・。

 

ロクに話してもないのに、一生レベルの付き合いを想像するから勇気が挫かれるのだ。仮にポシャっても、ただの他人と他人の関係に戻るだけである。

 

仮に僕の悪口や陰口を言いふらされたところで、その影響力などたかが知れている。その人が僕の敵になろうとも、地球は回るし、日は昇るのだ。

 

こういう風に、意味不明な『期待』を『諦め』てみると、やっと全ての人が等身大に見られるようになってきた。

 

全員俺より上にいるなんていう、悲しい前提もじわじわと崩れていった。他者と己の比較も、最近はトンと鳴りを潜めている。

 

他者の価値を勝手に爆上げし、自分が下に居ると感じた結果湧いてくる申し訳なさは、コミュニケーションの始まりを確実に阻害する。

 

その原因は、『期待』だ。その人が自分にとってプラスに作用するという前提は、行き過ぎると何も生まなくなってしまう。

 

いっそ諦めよう。下心を消そう。地球上には73億人以上の人間が暮らしている。

 

 終わりに。

 

ということで、結局なんやかんや、僕は段々と『自分を受け入れること』が出来ているという、つまりそういう話なのだろう。

 

或いは、自分に合った術をついに見つけたとか、そうなのかもしれない。10人の人見知りがいれば、10通りの克服法があるというのが本当の所ではあるまいか。

 

とりあえず、30年近くかかったが、僕はようやく色んなことのスタートラインに立てた気がしている。少なくとも、20代頭の頃からは成長できた。

 

『知識』と『諦め』。どちらも結構な劇薬だが、どうやら僕には良い方に作用してくれたらしい。

 

では今日はこの辺で。

 

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