僕はネガティブだけど、それなりに充実した人生を生きたいと思う。

「ネガティブ」で片づけず、自分の観察を続けたい。

【結論】僕はリア充になれないし、別になりたくもない件について。  

 

『お前はリア充になりたくないの?』

 

直接的であれ間接的であれ、今まで何度この質問をされたか分からない。返答はその場その場で適当に返していたが、その時心に浮かんでいたことは、すべて同じ。

 

リア充じゃないとダメなの?』

 

という、反骨と違和感が混ざり合ったような感情だ。

 

世間的にも、リア充』こそが至高のステータスであり、それと対極の性格なら、社会における落伍者という雰囲気さえある

 

リア充を目指すべきかな?だが、自分の気質とまるで違うからしんどいなぁ・・。』という、答えのない自問自答を、何年繰り返してきたことか。

 

そんな風に、この相反する気質の折り合いの付け所に悩み続けてきたが、最近自分の中でほぼ結論が出た。

 

『俺はリア充になれないし、別になりたくもねぇ』

 

いささか乱暴な響きだが、決して何か嫌なことがあり、感情でヤケクソに答えを出したのではない。

 

むしろ逆で、自分が納得する論理を積み重ねていくと、どうしても上のセリフのような結論に辿り着く。ただそれだけなのだ。

 

今日は需要があるかどうかは微妙なのを承知なうえで、どのようにして僕が『世間的な理想像』を捨てようと決めたか、その思考の流れをまとめようと思う。

 

 

  

リア充』の定義から考えてみる。

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 まずそもそも論として、『リア充』とは何かを考えてみる。個人的なイメージは、以下の通り。

 

①恋人がいる。

 

②友達がとても多い。

 

③社交性が高い。

 

④ポジティブ。

  

これらの要素全てを満たす人物。それが僕の思う『リア充』である。『尻軽』や『チャラ男』と違い、蔑称のニュアンスが感じられないのも特徴だ。

 

定義を考えただけでなんか胸焼けがするが、少なくとも大きくずれてはいないだろう。

 

ではこの定義を踏まえ、次に現状の僕と対比してみよう。

 

その定義と僕自身の間にあるギャップ。

「フリー画像 ギャップ」の画像検索結果

 

ぶっちゃけ、上記の要素を全て反転させると、僕と言う人間の説明になる。

 

独身満喫中だし、友達も決して多くは無い。社交性は低いし、性格は生粋のネガティブ。

 

つまり、僕はリア充とは対極に位置する人間なのだ。

 

いくつかの要素が合致していれば、まだ目指そうかなという気にもなるのだが、対極となると、冷静に考えればどうにもならない状況に近い。

 

食べても食べても太らない体質の人が、力士を目指すだろうか?高いところがとにかく苦手な人が、高所作業員を目指すだろうか?

 

もちろん定量化できないモチベーション等が関われば一概にそうとは言えないだろうが、可能性としては極めて少ない、というのが実際の話だろう。

 

理由は簡単だ。叶う望みが限りなく小さいから。努力と言う投資をしても、リターンが全く期待できない状態ともいえる。

 

ポジティブになるための教えが書いてある本を何冊読んだか分からない。異性とフランクに接せるヤツをどれくらい観察したか分からない。

 

だが、自分の気質が変わることは無かった。実践、失敗、自己否定。負の要素しかないサイクルを、僕は何度繰り返したのだろう。

 

20代前半までは、まだまだ自分の努力不足や、覚悟の不備が原因だと考えていた。変われないのは、心の持ちようなのだと。

 

だが次第に、リア充を目指そうとしていること』こそが、僕が苦しんでる根源なのでは?と考えるようになっていった。

 

何が契機かはわからないが、あまりにも努力が報われないので、一歩引いて考えてみた結果出てきた視点だと思う。

 

これに沿って考えると、色々と僕の中で気付きが浮かんできた。以下、そのまとめ。

 

皆が思う幸せは、果たして僕の幸せなのか?

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幸せの定義は人それぞれだ。価値観が多様化し、色んなことが許されるようになってからというもの、そのバリエーションは急激に増えている気がする。

 

そんな今でも、ステレオタイプな幸せというものは存在する。年収〇円稼ぐとか、大企業に就職するとか。

 

或いは、医者と結婚し一姫二太郎とか、閑静な住宅街に一軒家とか。書いていて胃から熱いものがこみあげてくる。

 

これら一般的な幸せという観点から見れば、友達が多くないことも、恋人がいないことも、それは不幸であり、また、魅力が無いことの証となる。

 

そんな思い込みがあったため、僕は報われない努力を飽きもせず繰り返してきたと言える。正直―徒労だったなぁ。

 

友達が大量にいて、いつも賑やかに過ごす。恋人が絶えず、いつも誰かと愛について語る。それはそれで立派だし、幸せかもしれない。

 

しかし・・・。そういう未来を達成した自分を浮かべたとき、どうしても違和感しか覚えない。理由は、『自分の幸せとズレている』ためだ。

 

今でも付き合いがある友達を浮かべると、趣味や価値観など、強い繋がりがあり、かつそれらが深いという共通点がある。

 

多くの人と会いまくるのもある種の友達付き合いかもしれないが、僕は少数の友達を大切にしたいという感覚が強い。

 

数が多くなれば、一人一人に割く時間は必然的に短くなる。この観点から、僕の考えとは相容れない。

 

また、恋人については、僕は『贅沢品』のようなものだと考えている。いないのが普通で、いるのが恵まれている。そんな意味だ。

 

勿論、何が贅沢で、何が必需かという定義は、人によって違う。例えばゲームが好きな人は、金がないなら食費などを切り詰めてでも、そういうのに投資するだろう。

 

ただ、僕にとっての『恋人』だの『嫁』だのという存在は、今自分が持つ資本で考えれば、とてつもない『贅沢品』なのだ。

 

時間もない。金もない。また、そういった存在が欲しいという強い理由もないので、努力する原動力もない。

 

そういうのを追っかけても、幸せになれるかは微妙である。同じ追いかけるなら、僕は巨大な魚の方がワクワクする。

 

―とまぁこんな風に、僕の中で『世間が求める幸せへの反論』は、割と根拠も添えて言葉になっているところだ。

 

しかし、親切心か、はたまた純粋な疑問か、それとも励ましか、こういうのを言うと友人から返ってくる言葉はほぼテンプレ化しているものだ。

 

大体それは酒席なので言葉にしきれないのだが、今日はせっかくなので、それらの質問に丁寧に答えてみようと思う。

 

『独りで生きて辛くない?寂しくない?』

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 まずこの質問の前提として、恋人がいないとは、すなわち孤独という、論理の飛躍がみられる。

 

少し考えれば、この問いに因果関係が無いことはすぐわかると思う。しかし、意識を向けなければ、意外と気付けないものでもある。

 

先に言うと、僕だって独りっきりは嫌である。しかも、生粋の寂しがり屋でもある。だからこそ、今僕と関わってくれる友人たちを大切にしたいと思っているのだ。

 

ここで何回か書いたが、僕が『彼女』なるものに求めるのは、『愛』というアバウトなものじゃなく、『楽しい時間の共有』である。

 

『同性の親しい友人を親友と呼ぶのと同様に、異性の親しい友人を彼女と呼ぶ』以上の意味は、正直未だに感じない。

 

そうすると、『彼女』である必要はあるのかと突っ込まれるのだが・・・。最近、その境目すらどうでもよくなってきている。

 

確かに、『彼女』と呼ぶ必要はあるのだろうか?正直、世間体への言い訳以外の理由が浮かんでこない。

 

逆の視点で考えてみても、その定義で『彼氏』と呼ばれるには違和感が確かにある。『夫』となるとそれはさらに増す。

 

僕が求める関係性は、既存のシステムだとどうにも実現できそうにない気がしそうだ。だがそれも、贅沢に聞こえるが妥協なのだろうか。

 

『この人となら暮らせるな』と思える人がいれば、またそう思ってもらえれば、落ち着くところに落ち着く。

 

僕はそれくらいの適当さで十分だと感じて仕方がない。

 

余談だが、僕自身、僕の血を引く子どもは要らないとずっと思いこんでいた。だが最近、本能はそうではないらしいと悟った。

 

子持ちの人のエピソードや、テレビ番組での家族の話などを、心底うらやましいという感情で聞いている自分に気が付いたためだ。

 

『彼女』は正直要らないが、『奥さん』ならアリかも。最近そういう変な軟化を自分に感じていて、ある種の微笑ましさを覚えている。

 

僕は今のままでも幸せだが、それに上乗せする形で新たな幸せを創るのも、悪くないと思う。

 

『素直になれって!まずは認めることだから!』

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 僕があまりにも達観したかのようなことを言うからか、それを『強がり』と捉えられてしまうことも多い。

 

もしそうだとして、僕は誰に意地を張っているのだろうか。リア充の友達?それとも、世間の目?

 

対象が無いのに、強がりもクソもない。こんなことを言うと、それまた強がりと思われて結局同じことを言われるのだが・・。

 

これまた何度も書いたことだが、素直になって自分に欠けている諸々を認めた結果が、今僕がずっと論じていることなのだ。

 

僕自身、よくわからないテンプレな幸せを諦めることは、とても建設的な考えだと開き直っている。

 

いつか周りの友達が分かってくれる日が来る。それを信じて、申し訳ないがこの親切なセリフはスルーし続ける所存である。

 

終わりに。

 

―という思考があり、僕は現在タイトル通り、リア充という道を捨て去っている状態だ。

 

悪戦苦闘した日々が恋しいし、投資した諸々を捨てるのは少し口惜しい。だがおかげで、自分に合わない世間の幸せを追うことのバカバカしさに気付けた。

 

僕みたく自己肯定感が低い人は、えてしてステレオタイプな理想像を目指し努力することで、その穴埋めを行いがちだ。

 

もしそれが辛かったり、空虚だったりするなら、一度立ち止まって、そもそもそれが『幸せかどうか』を考えてみてほしい。

 

そんな提案をもって、今日はおしまいとする。