ただひたすらに外から聞こえる虫の声に耳を澄ませながら、「窓を閉めていても聞こえるって結構な爆音だよな」とか考えていた小学生・中元です。
はい。最近また厨二病が悪化したのか、科学をテーマにした本ではなく、逆にすごく抽象的で非科学的な話がマイブームであり、気付けばそういうのばかり読んでいる。
よくわかりもしないのにアートとか哲学とか古典とかに興味が爆発しており、急激に残り人生が短くなったかのような焦りを、今は抱いている。
そんな中、あるフレーズをたまたま目にして、何度もその意味を考えるうちに、「このぐらいのスタンスの方がちょうどいいかもな」と納得する一幕があった。
それは、「天国」は「地獄」の中にある、というものだ。今日はそんなお話を紹介しよう。
天国と地獄は、別々の世界ではない。
どうでもいいのだが、僕は仏教の教えが色濃い幼稚園に通っていた。お堂で読経することもあったし、御仏様に感謝を告げてからご飯を食べていたのを覚えている。
もしかしたらその際にも聞いていたかもしれないのだが、どうやら一般的に類語とされている「天国」と「浄土」は、違う世界らしいのだ。
天国とはキリスト教の用語で、神の住む場所、あるいは漠然とした空の向こうを刺す言葉、という感じらしく、超幸せ的な意味は、本来は無いらしいのだ。
確かに、いい温泉に浸かった際も、無意識に「天国」ではなく「極楽」という言葉を選んでいる。そして「浄土」の類語は、どちらかといえば「極楽」なのだという。
「浄土」とは、阿弥陀様が遥か彼方に作った、仏教修行に最高に快適な環境で専念するための場所であり、ここには不安もストレスも、完全に存在しないらしい。
僕らが「天国」という言葉を選ぶ場面は、どちらかといえば「浄土」と形容した方が正確なことも多いのではなかろうか。そんな気がしてきた。
ただ、そこまで考えて使い分けている気もしないので、この記事では、「天国」≒「何かしらの幸運」と定義することにしよう。
さて。では、それを踏まえたら、「地獄」という言葉はどう考えればいいのだろう。
一般的に対義語である「天国」と「地獄」という言葉は、むしろ類語、さらに言えば背中合わせの意味なのではと、大河の一滴では指摘されていた。
では、「天国」と「地獄」は、どういう風に背中合わせなのか。これについては、もっというと、地獄の中に天国がある、といった方が正確なのだ。
そして今ははっきりと、現代社会は地獄の様相を呈している、と。さらに言えば、これについては抗うのではなく、諦める方が大事ではあるまいか。
そんなメッセージを、僕は「大河の一滴」から読み取った。コロナ禍騒動、SNSの誹謗中傷、凄惨な殺人事件、自殺者数の高止まり。考えれば考えるほど憂鬱だ。
それに対して強い怒りや無力感を抱くのではなく、諦めること。横文字で書けば、この状況をデフォルト設定にすること。それが始まりではないか。
―この考え方を前提にすると、別の本で書かれていた言葉と繋がった。それは、「他者に何も期待しない」というフレーズだ。
「期待」とは、相手に対し一方的にこちらの理想を押し付けることであり、その通りになって当然、そうならない方がおかしいという、不健全なズレを生む。
これが「歪である」と認めたうえで、期待を差っ引いて周りを見る。すると、相対的に「ラッキー」と思うことが増えるのだ、と。
例えば、職場を整理整頓するのが当然と期待するのを止める。すると、少々散らかっていても、それが想定内になる。裏切られたという感覚は抱かない。
一方、そう捉えておけば、時に綺麗に掃除されているのを見ると、純粋に嬉しい。ある種棚ぼたの幸運であるからだ。
この思考を抽象化すると、「天国」は「地獄」の中にある、という話に行きつく。現状の期待値を徹底して下げることで、相対的に、幸運の基準も下げるのだ。
すると、ちょっとした親切や、ふとした得を、「幸せ」と思うことができる。「ツイてる!」と思うことができる。
これこそ、「地獄」の中で「天国」を見つけるという感覚であり、今が地獄だと自覚しなければ辿り着かない、ある種の境地であるともいえる。
そう考えれば、ネガティブの度合いが人より強い僕らこそ、この思考で救われる存在だと思えてこないだろうか。
僕らは基本、悲観的に現状を観察するのが得意なはずだ。それをもう、デフォルト設定にしてしまおう。世界はある意味、地獄なのだと認めちゃおう。
行き過ぎて卑屈になるのも考え物だが、人にも世の中にも期待することを止めるのだ。そうすると、親切や感謝への感度が高まる。幸せだと思える機会が増える。
コロナ禍は終わらないと諦めてみる。すると、たまに誰かと集まった際、その時間が一層輝いて感じられる。心の底から、ありがたいと思えてくる。そんな風に。
歴史を勉強するとよくわかるのだが、この世は基本、一瞬の高揚と、長い憂鬱を一つのサイクルとして繰り返しているらしい。
産業革命が起これば、奴隷という存在が生まれ、バブル経済に沸けば、その後の経済が何十年も沈滞するように。
行く川の水は絶えずして、その大体は汚水なのだ。ときに水がとんでもなく澄むこともあるが、それは一瞬。大抵は濁っていると考える方がちょうどいいのかもしれない。
もしかしたら将来は、今のこの状況を天国と思えるような何かが待っている可能性もある。逆に、本当に今が、地獄の最下層なのかもしれない。
でも、そんなことは考えてもわからないし、結局それは、解釈次第でどうとでもなってしまう。
鴨長明も、「命も富も結局は失せるのなら、どう生きるのが一番幸せなのか。その謎が解ける前に、我らは結局死ぬ運命」みたいなことを「方丈記」に残している。
―どうせわからないなら、少しでも気持ちが楽になる方へ、少しでも自分が楽しいと感じられる方へ、思考をもっていく方がいいんじゃないかと僕は思う。
・・・それが人生全体を通じてよい選択だったのかは、結局わからないまま僕も死んでいくのだろうけれども。
ということで、今まで以上に天国を感じられるように、今生きているこの世の中は、基本地獄だと考えておきましょうという提案でごぜぇした。
では今日はこの辺で。