斎藤一人氏が提唱する「天国言葉」というものがある。これらを意識的に日頃から用いることで、結果人から応援されるというものだ。それは以下の八つの言葉から成る。
「愛してます」「ついてる」「うれしい」「楽しい」「感謝してます」「しあわせ」「ありがとう」「ゆるします」
・・・僕はこの中の1つ、「ゆるします」だけがどうしても言えないままであった。この言葉は、自他ともに対象とでき、場面を問わず本来は使えるのに、だ。
僕に対し勝手に罪悪感を持っている人に、この言葉を伝えてラクにしてあげる分には、まだいい。
しかし、自分に対して怒っている人間にこの言葉を使えば、自分から相手に無条件で屈服を宣言するような気持になる。
僕のことを、理由はどうあれ嫌っている人間に甘んじるのは、青臭い話だがただの屈辱だ。徹底的に嫌われ続けて抗戦した方が、まだマシである。
また、自分が犯した過去の失敗にこの言葉を使えば、あの頃のミスから逃げようとする弱さを己のうちに認める気持になる。
心の内にある罪悪感は、今後の成長や、人間的な深みに繋がる糧。それを手放すのは、ただの逃避だ。
これらを統合すると、イヤでもこの答えにたどり着く。「ゆるす」ことは、つまり弱さの象徴ではないか、と。
なぜこの言葉が、行為が、幸せな人生に繋がるのか、まるで腑に落ちていなかったのだ。
昔それに関するそこそこゴツい記事を書いたが、実は以来、そこから思考があまり進んでいなかった。一定のところから、屈辱という感情が頭に湧くのが原因である。
hitomishiriteki-jinseikun.hatenablog.com
こういった我を手放すことが、「ゆるす」の正体なのだろうか。それとも、僕がその言葉の真の意味を解していないのだろうか。色んなことを考えた。
本を読んで、考えて、手応えを得たと思ったらちょっと違って。そういうせわしないラリーを脳内で続けるうち、ついにある暫定解に、2年越しで辿り着いた。
取り急ぎ、僕が今抱いているその解を、言葉にしておく。
「許す」とは、相手への屈服を表明することではない。むしろこちらから”切る”、能動的な行為だ。
以下、その過程をなるべく詳細に書いていく。
空(くう)という考え方。
この解に辿り着いた直接のきっかけは、以下の本を読んで、「空(くう)」の意味について思いを馳せたことにある。
「色即是空」という言葉にも書かれているが、この空(くう)という概念は、ある意味仏教の極致ともいえる考え方だ。
僕ごときが本を一冊読んだだけで理解できるものではない。しかし、「あらゆるものは空から、相互依存の関係性によって生じている」という話は、すごく興味深い。
例えば、ドーナツの穴は、周りをドーナツで囲まれているからこそ”ある”という話に似ている。ドーナツを取ってしまえば、穴だったところには何も残らない。
この世に存在するすべてのものは、あらゆる因果や縁起の相互作用関係によって、この世界に存在している。こんな感じの話だと僕は今のところ納得している。
僕自身だって、確固たる”ぼく”がいるわけではなく、無数の因果関係のネットワークによって、たまたまこの世に在るだけに過ぎないのだ。(奇跡のようだとは思うが)
この世は全て、因果関係で成り立っている。あらゆる物事の因は、縁という外部作用を受けて、果という形で結実する。
種が因ならば、土や栄養、水や太陽の存在が縁で、花が果という風になる。具体例として、とても腹落ち感がある。
だからこそ、苦しい気持ちや辛い何かが起きたときは、その対象自体ではなく、それを出現させている縁(えん)と因(いん)を見つめ、しっかりと観察する必要がある。
花だけ摘み取っても、球根や栄養がある限り、苦という雑草は何度でも花を咲かせる。そんな様子を僕は心に浮かべている。
―そろそろ本題に入る。このモデルを浮かべたとき僕はふと、許すとは、あらゆる苦の球根を引っこ抜くことそのものではないかと思ったのだ。
これ自体もすごく急で乱暴な話だ。だから項を変えて、なるべく丁寧に説明してみる。
許せば”消える”。
実際に、僕の中で「苦」となっているものを1つ、”許して”みよう。高校の思い出の1つに、魚の小骨が刺さったようにずっと嫌な記憶として残っているものがある。
それは高3の頃。日本史の授業で先生が作ったプリントが、あるヤンキー的な生徒に回った瞬間、彼はそれをぐしゃぐしゃに丸めてカバンに突っ込んだのだ。
そのまま彼は机に突っ伏して寝てしまった。この思い出は、ある意味今の僕に「苦」を生じさせているものの1つである。
さて。今必要なのは、「苦」となっているこの記憶をしっかりと認め、縁と因と果をしっかりと浮かび上がらせることにある。
ただし、因は簡単だ。それは「ヤンキーがプリントを丸めてカバンに突っ込む光景を見たこと」である。
そして果もそこまで苦労しない。「時折記憶の底から蘇っては、僕に嫌悪感・不快感を生じさせること」である。
では、そこを繋ぐ縁はなんなのか。ここは、僕の価値観か、その行為の裏に関しての、永遠に答え合わせができない推測が入るのではないか。
例えば、僕はその紙を丸める行為に「俺は不良だぜ」という矜持を感じたが、「いや、進学校でそんなことされても・・」という恥ずかしさの方が強い。
あるいは、せっかく用意したプリントを目の前で紙ごみにされて、先生の胸中がズタズタになっているだろうな、という同情もある。
となれば、因の正体が更新される。「イタい行為を見せつけられること」や、「他人を傷つける行為だと感じたこと」が、”因”になっているのではないか。
では、更に問いを進める。そいつの取った、イタくて他人を傷つける行為を見ることが、なぜ僕にとっての10年以上続く”苦”の根っこになっているのだろうか。
実を言うと、他者のイタい言動や、アンチの意味不明な荒らしの全てに、イチイチ腹を立てたり嫌な気持ちになっているわけではない。時には数分で忘れるのもある。
ではなぜ、この記憶はそんなに強いのか?そこまで考えると、少し思い当たることがある。僕はそもそも、そのヤンキー自身に全く良い印象を持っていなかった。
公立高校にせっかく合格したのに、クローズみたいな価値観・風貌の人間がいる。そいつが徒党を組んで、大きな顔をする。僕らの安心・安全を脅かす存在、その根っこ。
究極の縁が見えた。僕はそいつのことが嫌いという、ただそれだけなのだ。この部分が、僕の苦を育んでいる。
・・・このことがわかると、あとはもう一息だ。
高校を卒業してから14年、そいつのその後を僕は知らない。興味もない。宝くじを当てていようと、肉親と死別していようと、本当にどうでもいい。
つまり僕とそいつは今、僕からの一方的な嫌悪でのみ、繋がっている。そいつは僕のことを一切覚えていないだろう。だから僕は、そいつを”許す”。繋がりの部分を、断つ。
僕さえ”許して”しまえば、そいつは僕にとって、空に還る。そして”許す”とは、そいつはもう、僕の人生に影響を与えるほどの繋がりが無いと、しっかり認めることだ。
許すことで、僕の中でそいつの存在が消える。先ほどの記憶の意味合いが、大きく変わる。どうでもいい人間が過去の一点で、今に影響を及ぼさない何かをしただけなのだ。
因果の観察によって、嫌悪や憎悪が縁になっているとわかったとき、それを論理的に空へ戻すこと。ある意味、認知の中で相手を殺すことと同義である。
だから強く思う。「許す」とは、相手への屈服を表明することではない。むしろこちらから”切る”、とても主体的な行為だ。
許せる人間は弱いのではなく、逆だ。とても強い。「お前ごときが俺の人生に影響を与えられるとでも?」というメッセージを相手に発信しているように聞こえる。
すごく乱暴な解釈だとは思うが、ひとつの持論として、そのまま書き残しておこうと思う。
終わりに。
そもそもこの世において、僕の生殺与奪に直接影響を与える程の繋がりを持った”人間”は、果たして居るのだろうか?
理不尽な目に遭ったり、攻撃をされたりするのは人間社会に生きる以上避けられない面倒だとは思うが、果たしてその一発が、人生に影響を与える程強いのだろうか。
突発的な怒りや嫌悪、不安や動揺は、脳に刷り込まれたバイアスによって発動する。だから、そもそものそれらを防ぐことは不可能に近い。
しかし、冷静になった後、意識下に降りた嫌な記憶は、認知によってキッチリと殺すことができる。その行為を「許す」と呼ぶのなら、身震いするほどすごい発見だ。
だから改めて問う。そもそもこの世において、僕の生殺与奪に直接影響を与える程の繋がりを持った”人間”は、果たして居るのだろうか?
僕は冷静に、「いねぇな」と思う。それが思い出の世界となれば、猶更だ。何に対して、僕はこんなに、肩肘の力を張っていたのだろう。
「ゆるします」という言葉は、とても優しい、御仏様のような柔和さをそこから感じ取れる。
しかしその一方で、嫌な記憶や感情といった縁で意識内に存在する相手を、空に戻し葬り去るという、強い意味をまとった言葉なのかもしれない。
僕はもっと、色んな人を”許す”ようにしよう。色即是空。これを座右の銘にしようかな。
では今日はこの辺で。