僕はネガティブだけど、それなりに充実した人生を生きたいと思う。

「ネガティブ」で片づけず、自分の観察を続けたい。

【道徳?】わかるようでわからない【善】について調べまくったら、何故かアドラーに辿り着いて、そして自分の闇が浮き彫りになった件について。【moral?】

先日、こんな記事を書いた。

hitomishiriteki-jinseikun.hatenablog.com

 

意味不明なのを承知で乱暴に要約すると、【罪悪感】に囚われがちな僕に必要なのは、【善】の行動と、自分への【愛】だろうと理解した、という感じである。

 

すると案の定、新たな謎が次々と頭の中に浮かんでくる。【善】とは何か?【愛】とは何か?・・・といった風に。

 

ことに僕は、どっかで書いたが「アセクシャル」という、恋愛感情がどうやら備わっていないタイプの人間らしい。(例えば、他人の片思いに気付いたことは一度もない)

 

そうなれば、特に後者の【愛】の理解と解釈が、極めて難しいと予想できる。ぶっちゃけ、暗中模索状態もええとこ、である。

 

―しかし、「カバーニャ要塞の野良犬と、表参道のセレブ犬」というエッセイで若林正恭氏も言っていたが、知ることは動揺を鎮めるのだ。

 

だから臆せず、動揺が鎮まるまで学ぼう、知ろうと腹を括れた。そんなわけで今日は、自分が納得するまで、【善】と【愛】について考えてみた記録を記事にする。

 

尚、とんでもなく膨大な記事になる予感がしたので、ここでは一旦、【善】をテーマにしたそれに絞って、書いてみようと思う。

 

では以下、本題である。

 

 

【善】とはなにか?

「一日一善」という言葉は誰しもが知っているように、僕らはさして注意も払わず、【善】という言葉を使っている。もちろん僕もそうだ。

 

しかし、【善】とは何かと改めて自問すると、例えば「皆にとって良いこと」といった、ふわふわした説明しか出てこないものではなかろうか。

 

実際、辞書で引いても、わかるようなわからないような、すごく曖昧な説明がそこに書かれているだけであった。

 

よいこと。道義にかなっていること。また、そのような行為。「を積み、功を重ねる」「一日一」⇔

 

だからさらに調べてみることとする。英語では【善】を「good」と呼ぶようだが、その意味の中の1つに、確かに上記の説明に似たものがある。

 

morally right; behaving in a way that is morally right

(道徳的に正しい、道徳的に適切な方法に則り振舞うこと)

 

うーむ、英語の意味を調べても思うのだが、なぜにここまで曖昧なのだろうか?道徳とは何か、道義とは何か、moralとは何なのか、謎が謎を呼びまくってしまう。

 

ということでWikipediaを調べてみると、「道徳」について、この曖昧さのヒントになりそうな箇所が載っているのに気が付いた。

 

人間が無意識の内に世の中に存在するものと認識している[要出典]正邪善悪規範。個人の価値観に依存するが、多くの場合は個々人の道徳観に共通性や一致が見られる。社会性とも関わる。

 

ja.wikipedia.org

 

そして「moral」という言葉の語源も漁ってみたが、上記のような曖昧さに繋がり得るヒントが、こちらにも載っていた。

 

 mid-14c., "associated with or characterized by right behavior," also "associated with or concerning conduct or moral principles" (good or bad), from Old French moral (14c.) and directly from Latin moralis "proper behavior of a person in society," literally "pertaining to manners," coined by Cicero ("De Fato," II.i) to translate Greek ethikos (see ethics) from Latin mos (genitive moris) "one's disposition," in plural, "mores, customs, manners, morals," a word of uncertain origin. Perhaps sharing a PIE root with English mood (n.1).

 

※下線部訳→ラテン語のmoralisに由来し、その意味は、「社会における、個人の適切な振る舞い」である。

 

www.etymonline.com

 

【善】とは【道徳】に則った行動を指し、【道徳】とは社会全体の幸福に繋がる、守るべき規範のようなものを指す。もしそうなら、一旦まとめることができそうだ。

 

「皆がしてもらったら嬉しい、喜ばしいと感じる言動を察知し、実行すること」が、つまり【善】ではないか。暫定解もええとこだが、ちょっと辿り着いた感はある。

 

あくまでも「俺がしてもらったら嬉しい!」と思うことの実行ではなく、「これをすれば集団の幸福に寄与できるかな」と思うことの実行、それが【善】だと思えてきた。

 

ここまで書いていく内にふと、「なんかどっかで似た話を読んだナァ」という感覚が湧いてきた。少し考えると、思い出した。アドラー心理学だ。

 

そしてその中で提唱されている、共同体感覚だ。ほぼ直感だが、この僕の暫定解と共同体感覚は、結構似ているのではなかろうか。

 

ということで、話がちょっと更新されたので、一旦ここで項を変えてみることとする。

 

【善】と共同体感覚。

 

改めて共同体感覚について調べてみると、以前は気付かなかった教えがいくつも引っ掛かった。例えば、共同体感覚の英訳は、【social interest】というそうだ。

 

言い換えれば「社会的関心」であり、さらに単位を区切れば、「自分以外の存在に向けた関心」ということと言える。

 

ところで、他者からの目を気にして、自分の好きに振舞えない人は、自己中心的なのか、それとも他者中心的なのか、さてどちらだろうか

 

―実は、アドラー曰く、他者の目を気にしてばかりの人は、他者から見た自分がどう映るかにしか興味・関心の無い、すなわち自己中心的な人なのだという。

 

例えば、他人に自分なりの親切を施したとして、それに対するリアクションが期待した通りでなければ怒る人は、いわゆる自己中心的な人間となるわけである。

 

あくまでも「貢献している」という感覚は、自分が抱けるかどうかであり、他人が抱くかどうかは課題の分離、つまり関係が無い話・・・だったように記憶している

 

ただ、これ以上はうろ覚えだ。あんなに読んだのに、内容を忘れつつあるとは・・。もっと掘り下げて学び直したいので、「嫌われる勇気」はまた読み直すことにしよう。

 

・・だが、一切掴めていなかった、【罪悪感】に関する僕自身のメンタルの弱点を把握するには、ここまでの思索でもう十分だ。そういう実感がある。

 

僕自身、こっから先を言葉にするのが正直イヤなくらい、自分の思考の歪みの幼稚さと浅はかさに気が付いてしまったからである。

 

でもま、全然スッキリしないし、一旦言葉にしなければ何事も始まらないし終わらないということで、エイヤっと推敲もせず、一気に言葉にしてやろうと思う。

 

僕と【善】と【罪悪感】。

 

アドラー心理学で最初の方に知る言葉に、「目的論」というものがある。簡単に言えば、実際に自分の身に起きていることに、「なんのために?」と問うのがそれだ。

 

僕の【罪悪感】で言えば、「なんのために」僕はそれが要るのかを考えることが、自問の第一歩となる。

 

もっと言えば、【罪悪感】をもって、僕は何を得ているのかというところに着目する。すると、見えた。見えてしまった。

 

それは、同情や注目ではないか?僕は、不幸であることや弱みがあることを利用し、他人から承認を得たいのだとしたら?・・色々な辻褄が、一気に合ってしまう

 

断片的だったジグソーパズルが一気に完成して、そこに書かれた文言がバシッと入ってくるような感覚。背中にツララを刺されたかのような衝撃だった。

 

僕は恐らく、脆弱ナルシストだ。もちろん定性的な程度はわからないし、本物と比較すればあまりにも弱いのかもしれないが、恐らくベクトルはそっちを向いている。

daigoblog.jp

 

謙虚であること。それ自体は悪いことではないが、いつの間にかそれを振り回して、自己中心的な目的のために利用するようになっていたのだとしたら・・。

 

この仮説が合っているのであれば、仮に今の状態で【善】を模索し、共同体への貢献を目指してその行為を繰り返しても、多分無駄だ。

 

他者を鏡として、脆弱な自分を見てウットリしているような状態を破壊せねば、僕はいつまでも【罪悪感】を手放せないままになってしまう。

 

【罪悪感】ゆえに苦の感情が生まれ、その苦の感情が、別の苦の感情を生む。このループを脱するには、善を重ねて新たなループに繋げる必要があると、前回書いた。

 

しかし、僕は今のままだと、善を重ねても、憐れみや同情を得るため、「許されない自分」を欲し、【罪悪感】を手放さないという予感がする。・・嫌な汗が背中を流れた。

 

・・・・・・・・・前回の記事の時点でも悟っていたが、やはり僕にとって一度じっくりと向き合って突き詰めねばならないのは、【善】ではなく、【愛】のようだ。

 

自信、喜び、信頼、許容、受容。その全てをひっくるめた総称としての【愛】とはなんなのだろうか。

 

【愛】が無ければ、善行を重ねても自分の中の脆弱ナルシストに利用され、結局【罪悪感】を手放せない。ドミノの一枚目は、【愛】なのか。

 

・・哲学者でも東大卒でもなんでもない自分が、それについて何かしらの仮説を抱くことはできるのだろうか。本当にげんなりしてきている。

 

だが、それをここで一度掴んでおかねば、三十代どころか、人生丸ごと、影を落としたまま浪費していくことになる。そんな辛い話、あってたまるか!

 

ちょっと自分の中のヤバすぎる闇に辿り着いてしまった気がするが、やっぱり校閲も推敲もせず、このままアップしてやろうと思う。

 

次回、【愛】とはなにか、という謎の記事へ、多分続く。

 

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