立て続けに、こんなエセ哲学的な記事を書いた。
hitomishiriteki-jinseikun.hatenablog.com
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意味不明なのを承知で2つの記事を乱暴に要約すると、まず【罪悪感】に囚われがちな僕に必要なのは、【善】の行動と、自分への【愛】だろうと理解した。
しかし結果、僕はどうやら脆弱ナルシストゆえに、自分に弱みを欲し、結果として【罪悪感】を手放せないのではないか、という仮説に行きついてしまった。
自分に対する【愛】が無ければ、【善】を重ねても全て【罪悪感】へとループする。本当に苦を脱するには、まず【愛】がドミノの1枚目なのだ。
・・・・じゃあ、自然と引っ掛かる。【愛】って、なに?特に僕は性愛に関するそれが無に等しいので、なおのこと理解に困る概念だ。腹落ちさせることはできるのか?
しかし、その正体を自分なりに認識し、段々と落とし込んで体現していかねば、僕は一生このまま闇に飲まれたまま、嘘の世界のような社会を生きることになる。
・・・・それはあんまりだよ!!!
・・・ってことで、一体いつまでかかるか全く見通しの立たない【愛】についての備忘録、以下いよいよ始まりでごわす。
【愛】とはなにか?
「愛」は小学4年生で習い、英語で言うと「love」で、誰かのことを好きって意味だよ!・・・なんてのは、小学生でも語れそうなほど、基礎的な知識である。
しかし、基礎だからこそ、そこには深い意味が内包されている可能性も高いわけで。【愛】という語句は、その極地ではないかとさえ思えてくる。
いつも通り、始めは語源を調べてみたわけだが、その時点でとんでもない量の情報を得ることができてしまった。
興味が無い人は、目次を押して、ここから先の話を読み飛ばしてほしい。
まず、【愛】という漢字が持つ意味は、辞書で引くとこうあった。
1 親子・兄弟などがいつくしみ合う気持ち。また、生あるものをかわいがり大事にする気持ち。「―を注ぐ」
2 (性愛の対象として)特定の人をいとしいと思う心。互いに相手を慕う情。恋。「―が芽生える」
3 ある物事を好み、大切に思う気持ち。「芸術に対する―」
4 個人的な感情を超越した、幸せを願う深く温かい心。「人類への―」
5 キリスト教で、神が人類をいつくしみ、幸福を与えること。また、他者を自分と同じようにいつくしむこと。→
6 仏教で、主として
のこと。自我の欲望に根ざし を妨げるもの。
この中で、恐らく僕が理解すべき【愛】とは、3と4の意味ではないかと薄々感じ取れている。(性愛とかどうでもいい)
ついでに、【愛】の由来も調べてみたが、これはちょっと面白い話を知ることができた。
「愛」の古い字形は、今と少し形が違っていて、「旡」と「攵」と「心」の組み合わせからできていました。
最初の「旡」は、単独ではほとんど使われることがありませんが、人間が後ろを振り返っているさまをかたどった文字です。次の「攵」は、人の足跡をかたどった文字で、そこから「ゆっくりと歩く」という意味を示します。最後の「心」は、言うまでもなく「人間のこころ」を表しています。
つまり、「愛」という漢字は、「人がゆっくりと歩きながら、後ろを振り返ろうとする心情」を表しているのです。
過ぎ去った事柄をすっかり忘れてしまうのではなく、慈しみと懐かしさをもって振り返り、それを大切に育(はぐく)む感情が「愛」の本来の意味です。
「慈しみ」と「懐かしさ」を抱えて、それを「育む」こと。なるほど、段々と解像度が上がってきた。
―ここまで来たら、「Love」の由来も調べたくなる。だから英英辞書などをガンガン引いてみた。そして、気になったのはこれだ。
the strong feeling of pleasure that something gives you
訳:何かがあなたに与える、強い安らぎや満たされた感情・感覚
強い安らぎや満たされた感情・感覚というのは、日本語辞書で紹介されていた意味とも似ているように思う。
さらに調べてみたが、Loveの語源はdesireから派生した、みたいな具合らしい。(正確なところは知らないけど)
確かに「love」をもっと正直に、そしてもっと激しくすると、「desire」が持つ意味に近づいていくような印象はある。
・・・ところで、度々引用するプルチックの感情の輪にも、混合感情のところに【愛】がある。
それによれば、「信頼」と「喜び」の混合感情が【愛】だという。ただもっと言えば、「平穏」と「容認」の混合感情とする方が、僕が思う【愛】に近いように感じられる。
・・・ということでここで一旦、【愛】そのものの語源や意味をまとめよう。
【愛】とは、「平穏(信頼)」と「容認(喜び)」の混合感情であり、対象に慈しみや懐かしさの感情を強めにもって、それを育むこと。
といったところか。わかるような、わからないような。でも最初よりは格段に、解像度が上がった手ごたえはある。
だから続いて、こういう心の内面といった「形の無いもの」に向き合ってきた人たちの言葉をヒントにしながら、更に【愛】について考えていきたいと思う。
【愛】はやっぱり、1つじゃなかった。
ここから少しちゃぶ台返しになるのだが、僕が考えていた【愛】は、もしかしたら言葉として不適切かもしれないと思うようになった。
というのも、ギリシャ哲学で言う【愛】はどれも感情が強すぎて「これじゃねーな」感が拭えなかったし、仏教に至っては【愛】を苦しみの源と定義していたからだ。
少し頭を空っぽにして、ただひたすらと様々な考え方を眺めるうちに、自分の考えていた【愛】に一番近い言葉は、【慈悲】ではないかと思うようになっている。
【慈悲】とは仏教用語であり、辞書的な意味としてはこう紹介されている。
1 《「慈」は、梵maitrī「悲」は、梵karuṇāの訳》仏語。仏・菩薩 (ぼさつ) が人々をあわれみ、楽しみを与え、苦しみを取り除くこと。
2 いつくしみ、あわれむこと。なさけ。
そして、仏教においては、「抜苦与楽」という言葉が、【慈悲】を表すという風に説かれていた。
抜苦与楽(ばっくよらく)とは、衆生の苦を取り除いて楽を与えることをいう[1]。
ただし、慈・悲を反対に配当する見解もある。
大智度論27には「大慈与一切衆生楽、大悲抜一切衆生苦」とある。仏教の基本的な考え方として、この世の苦しみを解除して、至福の境地に至ることが挙げられるが、これは「厭離穢土・欣求浄土」という言葉とともに、仏教の基本的理念を端的に現したものである。
・・・ここまで雁字搦めにされると、一体何をどうして良いのか、またしても見当がつかなくなった気がする・・。五里霧中とはこのことか・・。
自分を【愛】したらいけないのか?【抜苦与楽】とは具体的にどうすることなのか?考えれば考えるほど、また知れば知るほど、何か業が深くなっていく気がする。
・・・という風に悶々としていた折、【愛】と【慈悲】を分けるものの仮説を、ふと閃いた。それは、【我】だ。
【我】があれば苦しみを生む【愛】になるが、【我】を捨て去った状態であれば【慈悲】になるのでは?そんなことをふと思った。
ここでいう【我】とは、自分を中心にして世界を見ること、またいわゆる固定観念や、積み重ねてきた常識に固執することを指すものだ。
そして仏教が「苦の源だ」と解く【愛】には、【我愛】というものがある。アドラー風に言えば、「徹底的に自己中心的な思考を、常日頃から念頭に置くこと」かと思う。
となれば、少し見えてくるものがある。「【我】に固執しないまま、自分を大事にして、慈悲をかけること」。これが、僕に必要な【愛】だとしたら、どうか。
・・・ここで、「幸せになる勇気」の一節を思い出した。うろ覚えだが、「幸せになるためには、”じぶん”という存在など要らない」みたいなフレーズがあるのだ。
初めて読んだときは結構な暴論だと思ったが、何度もここまで調べて考えたことを思い返すうち、確かにその通りかもしれないと、今は感じている。
共同体感覚。諸行無常。我愛。慈悲。抜苦与楽。様々な教えやヒントが、急激に頭の中で繋がっていく。唐突だが、一つ僕の中で、到達した手応えがある。
上手く言葉にできないが、これを手放したらまたうやむやになりそうだ。だから、僕が考える【愛】の暫定解を、まだ解像度は低いが、次項で書いておこう。
他者に慈悲を施すように、自らにもそれを施すのが、つまり【愛】。
アドラーの考える共同体感覚について、僕は「心の底から安心できる場所にいるときに抱く、安らいだ感覚」かなと、ぼんやり考えている。
これに近いかなと思うのは、大学の同級生の家にいるときの僕の分人だ。毎日のように入り浸っていたが、そこにいると強く安心する感覚があったことを記憶している。
特にこちらがギブをしなくても、相手がテイクを求めなくても、自然に釣り合いが取れている。後ろめたさも感じず、かといって欲する気持ちも生じない。
そのような感覚を、僕は僕に対しても抱けるようになる。それが、僕が求めている、必要としている【愛】なのではと、今は納得しつつある。
例えば、セルフコンパッションという、近年注目を集めている考え方がある。これは自己肯定感と言い換えられて、それを高めることで幸福度が増す、という具合だ。
そこに書かれていた意味に、僕は強く心を惹かれた。まさに僕が辿り着いた答えが、ずばり一言でそこに載せられていたためだ。
他者を思いやるように、自分自身のことを大切に思うこと。
言い換えれば、他者に慈悲をかけるように、自分に慈悲をかけるということだろうか。自分を大事にすることはつまり、他者を扱うように自分を扱えということか。
それを踏まえると、やはり【我】に固執することは、そこから遠ざかる思考・行為だとよくわかる。
【我】とは自分を特別視することだ。しかしその観点を捨てて、自分に対し適切な距離を取れるようになったとき、僕は初めて自分に【慈悲】を注げるのではないか。
言葉にするのが難しいが、”他者”という言葉が意味する集団の中に、【じぶん】も入れて、その集合全てを慈しむことが、共同体感覚の言わんとすることなのではないか。
他人に慈悲をかけるように、自分に慈悲をかける。
・・・このステージに到達できれば、僕は僕の抱える【罪悪感】にケリをつけられるのかもしれない。四十になる前に、たどり着けるだろうか。
そんなことを考えていると、「自分を大切にするためには、大切な友人に対してかけるような声を自分にかけてあげること」という教えも発見した。
しかしその後に書いてあったフレーズに、僕はギクッとした。「しかし多くの人は、他者にかけないような酷い言葉を、自分には容赦なく、自然に浴びせる」。
―このあべこべ極まりないメンタルの捻れを正すには、何が必要なのか。冷静な目線か、はたまた自分を客観視するためのトレーニングか。
しかしとりあえず、【愛】の第一歩は、自分への固執を止めること、距離を取ること。それが分かっただけでも大収穫だ。
・・・とはいえ、到達とは同時に新たな思索の始まりとは、まさにその通り。今の僕には同時に、【我】を捨てるための、また大量の課題が並ぶことになった。
まぁ、それでもずっとマシか。ということで急に終わった感はあるが、僕はもう満足したので、ここで内省は止めることにしよう。
とりあえず「よくここまで考えたな~」と、自分を労いながら。
では、今日はこの辺で。