「罪悪感」という言葉がある。さして説明の必要もないと思えるほど、普遍的で、誰の心にも巣食っている、一種の慢性的な病気のような感情だと僕は考えている。
かくいう僕も、30歳を過ぎて色々なネガティブに鈍感になったと吹聴しながら、はっきりと1つ、処理に難儀している感情がある。それこそがこの「罪悪感」なのだ。
例えば、おふざけの流れでうっかり失言をしたとか、手が当たってしまったとか、本人がけろっとしていても、その程度の落ち度で僕は僕を激しく責めてしまう。
どれだけ短くても24時間前後は、その後悔、ストレス、罪悪感、申し訳なさの混ざったヘドロのようなものが、脳内にこびりついて離れないほどである。
また、時折フラッシュバックする嫌な記憶も、別にデータを取ったわけではないが8割以上は後悔や罪悪感に関するものである。
自分がもう少し配慮できていれば防げたこと。浅はかゆえに人を傷つけてしまった経験。そういうのが本当にふと頭にパッと浮かび、心に謎の負担をかけるのだ。
・・・実を言うと、その罪悪感の強さから、今も心のどこかでテンプレな幸せを満喫することに、結構強い抵抗がある。
テンプレな幸せとは、例えば結婚して家庭をもって、子供とにこやかに飯を食っているとか、そういう像である。
僕は過去に重ねたカルマから、自分にそんな資格などないと本気で思っている部分も、白状すれば、ある。
―だがいい加減、本気で疲れた。この歪み倒した思考のクセに振り回される現状に、僕はほとほと疲れた。
世の中には、客観的に見て全く救えないほどの悪行を重ねつつも、それでも僕以上に幸せそうな人生を歩んでいる人たちなど、山ほどいるではないか。
「幸せになるのに、誰の許可も要らない。」当たり前といえば当たり前のメッセージをふと思い出したとき、じっくりと自分の心に向き合おうという腹を括れた。
てことで今日は、【罪悪感】について、割と必死に調べて、咀嚼し、言葉にし尽くした備忘録を、そのまま記事にしてやろうと思います。
【罪悪感】とはそもそもなにか。
まずはそもそも、この言葉が表現する感情を理解しておく必要があるだろう。こういうときは語源に当たるのが僕のルーティンだ。
ということで辞書を引くと、こうあった。
想像通りの意味でなんにも感想が無いのだが、せっかくなので英英辞書でも引いてみよう。罪悪感は英語で【guilty】だが、その説明は以下の通り。
feeling very ashamed and sad because you know that you have done something wrong
(誤ったことをしてしまったと自覚しているがため、恥や悲しみの気持ちを感じること)
という具合だ。こちらの方がやや具体的だと言える。とりあえず、日本語でも英語でも、言わんとする意味はほぼ同じということはわかった。
だが、辞書的な意味をこれ以上紐解いても、罪悪感の姿が今以上に鮮明になるような予感は、全然してこない。
ということでここからは、罪悪感について、心の内をしっかりと見つめてきた人たちが残した解釈や言葉を、じっくりと読んでいくこととしよう。
先人たちが考えてきた【罪悪感】とは。
調べていくとすぐに、まさに今の自分にとって必要と思える何かが書かれていそうな記事を発見した。
それを読んでいくと、あまりにも自分が思っていることがそのまま書かれており、胸の内が興奮するのを覚えたほどである。順番に整理しながら、書いていこう。
まず、罪悪感とは、過去の行動を悔やみ、それを悪行と解釈することから発生するという感じの解釈が、すごく腑に落ちた。
実は、悔やむことがすなわち罪悪感とは、必ずしもならないことを、僕自身薄々感じていたからである。
例えば、ゲームをプレイしていて、その際選択や判断を誤り、ミスをしてゲームオーバーになったとして、それについて罪悪感を抱いたことは人生で一回もない。
単なるミスと、罪悪感を分けるもの。この正体はなんなのかと思っていたら、それについてのヒントが書かれた記事を発見することができた。
そこには、罪悪感の根底には「愛されたい」という欲が潜んでいる、という指摘があった。他者からのそれを渇愛するから、罪悪感に繋がるのだ、と。
「こういう悪行を重ねれば、私は人から愛されなくなる。だからこのことを罪として、ずっと胸に刻んでおかねばならない・・」というところだろうか。
仮にそうだとすれば、すごく同意する。
僕の記憶においても、罪悪感には押しなべて、「他人にとって好ましくない行動をしてしまった」という後悔の意識が、べっとりと纏わりついている。
愛を失うのではという恐怖。それもまた罪悪感と密接に繋がっているのだと考えれば、この時点で僕の抱える大問題が浮き彫りになるが、それは一旦放置しよう。
・・・・・・それよりも気になるのが、罪悪感の正体と、その止め方だ。果たして、そんなものは、あるのだろうか?
これもまた、仏教の中に一つのヒントが隠されていた。前提として、全てを因果で考えると、見えてくるものがある、と述べられていた。
過去の行動は確かに事実であり、それによって罪悪感が生じた結果、今現在の後悔といった苦しみの感情に繋がっている。ここまでは綺麗に因→果となる。
しかし、この因果の関係は、放っておくと永遠にループする。気付けば後悔という感情が別の苦を生み、その苦がまた別のネガティブな感情を作っていく。
このループが延々と回ってしまうと、気付けば自分という存在全てを悪と規定し、その罪悪感ゆえに幸せになる資格は無い、というところまで行きついてしまう。
全く持って救いのない螺旋だ。一体どうすれば、ここから脱出できるのか。その術として紹介されているのは、【懺悔】という時間である。
ここでいう【懺悔】とは、いわゆる神の前にすべての罪を告白するキリスト的なそれも含まれるのだが、単に自分が犯した(と感じる)罪を眺めるだけでも、【懺悔】となる。
先に言うと、これは積極的に罪を消そうとあくせくすることではない。むしろ、自分が罪と思うことには何の実体も無いことを、しっかりと確認する時間なのだ。
世の中は無常である。自分が犯した行動も、今この瞬間にどんどん過去へと流れていく。そして気づけば、歴史上から姿を消す。跡形もなく、無くなってしまうのだ。
その無常のものに固執するから罪悪感が生まれるのだとすれば、そもそも罪はとっくに実体として存在していないことを理解しないと、また新たな苦しみを生むだけである。
では、罪に実体が無いことを確認したとして、一体どうすればそのループを変化させられるのか。そこもまた、因果に立ち返って、考えるべきとされていた。
悪の行為から苦が生まれ、その苦がまた苦を生む。それを止めるには、既に罪から実体が消えていることを認識したうえで、善行を積む、と書かれている。
善の行為が因となれば、いずれ安らぎという果が生まれる。そうなったとき、罪悪感のループは初めて切れて、やがて止まっている・・ということなのである。
―では、ここでいう善行とは何なのか。それは例えば、当事者に謝る、その行為を基に他者の幸せに寄与する、その辺が善行の一例と書かれていた。
自分のエラーが失敗で試合に負けたのなら、その原因となったプレーを克服するための特訓を重ねればいい。それも広義の善行だと考えれば、とても救われる心地がする。
一旦、まとめよう。
自分が罪悪感に襲われているとき、果たしてその意識は妄想ではないか、独りよがりではないかを観察し、自問自答する。
その上で、その行動を活かして善行に転じられることは無いかを考える。そして因果のループを変えてしまうのだ。
そう思えば、僕が僕の中に抱えている罪悪感とは、まだ善行に昇華できていない、人生におけるやり残しのようなものではないかと思えてくる。
中には、既に20年以上の時間が経過したものもある。もう実体は跡形もなく、僕の中に記憶という形でしか存在していない罪悪感。いい加減自分を許していいだろう。
今後の宿題は、僕の中の罪の意識を、どうやって【善】の具体的な行動に繋げていくか、である。
そのためには、【善】とは何かを、また改めて、深く勉強しなければならないように思えてきた。まったく、「学び」はこれだから楽しいなと、改めて思った。
終わりに:永遠に答えが出る気はしないけど、「愛」とはつまり、なんなのか。
さっき、僕という人間が抱える大きな課題についてちらっと触れたが、それはなんなのかというと、自分を愛する度合いの弱さである。
もっと言えば、自信があまりにも無さすぎる。今でこそ最低値よりは改善してきているのだが、基準値から見れば、偏差値40程度ではないかとさえ感じている程だ。
しかしやっぱり、「俺ならできる!」と自己暗示をかけるような自信の出し方には、強い抵抗がずっとある。
だから昔は、もっと確固たる、誰にとっても自信たりえる強い根拠が欲しいと思っていた。学歴、交際相手、明朗な性格、高価なファッションアイテム、エトセトラ。
客観的な評価に振り回されていたことが明白で、超恥ずかしい。ただ幸運なことに、そういう根拠のある自信になり得るものの内、いくつかを得ることは、なんとかできた。
皮肉なことにその結果、それは自信には大して寄与しないことがわかっただけであったのだが・・。
そういうすったもんだの果てに悟ったことは、「自分が自分を愛せなければ、誰が愛してあげられるのか」といった格言が言わんとする、まさにその通りのことであった。
―ふと元ネタが気になって、さっきこの言葉を調べてみたのだが、不思議なことにそれっぽいのが一件もヒットしなかった。
それどころか、「自分を愛せなければ他者を愛せない」←根拠を教えてください、という闇の深そうなYahoo!知恵袋が一番上に出てくるほどであった。
つくづく思う。さっきもしれっと使ったのだが、つまり「愛」とは何なのか。それどころか、「俺、愛されてる」と思った記憶は、人生でマジで1度も、無い。
もしかしたら、世間では「愛」と解釈されることを、僕は違う何かだと認識して受け止めているのかもしれない。
そうだとしたら、色々と切ない話である。もしかしたらアセクシャル気質を持つことと、この辺は密接なリンクがあるのかもしれない。
少し話が反れるが、僕は「異性としての好き」という言葉の意味が、やっぱり今でも全く分からない。いくら本を読んでもわからない。
もちろん、漫画や小説を読んでて、このキャラはこのキャラのことが好きなんだなという程度のことは読み取れるが、手前のこととなると本当にさっぱりである。
世間的な言い方の「愛」が響かないのであれば、僕にとっての「愛」は何になるのだろうか。とんでもない問いに辿り着いてしまった気がする。
さっきの【善】の解釈と合わせて、折に触れて勉強を重ねてみようと思った。
―ということで無理やり話を戻して、まとめてみる。
罪悪感とは行為に対する負の感情だが、その行為が消え去った後は、感情が罪悪感を生み、罪悪感がまた苦しい感情を生むループに突入する。
そのループから脱するためには、【善】の行動に置き換えて、それによる【安らぎ・安心】の感情を伴う果を生むサイクルに作り直すべし。
それは何も、無責任とか開き直りとか放任なんてのは意味はしない。ここを腑に落とすためには、自分への【愛】が必要だ・・・。
というところだろうか。
僕にとっては1つの問いから2つの別の問いが発生しただけなのだが、何かちょっとでもヒントになる情報があれば嬉しい。では今日はこの辺で。