連休明けは全く調子が出ません、中元です。はよ帰って、酒飲んで寝たい・・。
はい。今日は以下の記事を読んで、簡単に言えば影響をクッソ受けたので、僕もやっちゃうぞというシリーズである。
僕は自己分析が好きなスーパー内省的な人間なのだが、実は最近、ある感情が他のそれを押しのけて出てくることが増えているのだ。
それは、イライラである。ぶっちゃけ、小さい頃はゲームでミスるたびにコントローラーを投げていたタイプなので、僕自身としては不思議な感じはしないのだが・・。
自分の外の世界の何かにイライラすることって、実は相当久しぶりなのだ。なぜか?基本自責に終始していたため、イライラする資格さえないと思っていたのが大きい。
やはり、僕は病気だったのだろうか。
―そうやって久しぶりに忘れていた感情が蘇った状態なので、ラベリングがまだ済んでいない。つまりこの裏に潜む自分の声を、まだきちんと拾えていないのだ。
ってことで今日は、完全に僕のための記事なのだが、もしかしたらヒントめいたものが出てくるかもしれないので、そのままここに書き散らしたいと思う。
僕は”なにに”イライラしているのか?
”解像度を上げる”というフレーズがある。文脈によるのだが、要するに一言でふわっと終わらせられがちなあれこれを、きちんと論理的に考えて分析することだと思う。
となれば、「イライラする!」「ムカつく!」という段階で分析を終わらせるのは、それはスタートラインに立ててすらいないということに他ならない。
やはり、大事なのはそこからである。
だからまず、僕が「イライラを向ける対象」をしっかりと考えることから始めてみる。
すると、「雑に仕事を振られたとき」「自分だけ作業量が多いとき」「自分のしたいことを止められたとき」といったアレコレが頭の中に浮かんできた。
―では、これらの共通点は何だろうか?すると、すぐに閃いた。僕の時間が蔑ろにされていることだ。
僕は自分の時間を軽んじられたとき、はっきりとそれにイラつくという、お子ちゃまなのかそうじゃないのか微妙な地雷を持っているようなのだ。
・・だが、まだここで分析を終えたら面白くない。まだ「なぜ」は言えそうだ。なぜ僕は、自分の時間を軽んじられると、イライラしてしまうのだろう?
―ここを考え抜くのは結構大変であった。そんなものは人間に生まれた以上当たり前のように思える、無意識化に沈んだ部分の話だからだ。
しかし僕以外の人の中には、喜んで自分の時間を差し出し、そしてそれによって高い満足度を得られている方々もいる。
なぜ、僕は時間を盗られると思い、なぜあの人たちは時間を有効に使えていると思えるのか。不思議だ。
そこでこの違いについて、しっかり考えていこうとした刹那、その理由にピンときた。ただしそれは、あまりにもしょうもなくて、なんかがっかりという感じである。
だが盲点と言われれば盲点なので、以下それについて書いていこう。
自分の時間を奪われるという感覚が浮き彫りにする実態。
その簡単すぎる理由は、僕が実現したいこと、したいことは、基本一人で完結するからである。よくわからない。
例えば今朝に少しイライラが高まった際、ここ数日の自分を振り返ってみてすぐ気づいたのだが、仕事が忙しいせいで、自分がしたいことのほぼ全てが止まっていたのだ。
筋トレも時間が無く、キャンプも行けず、釣りにも当分いけてない。新しい釣り具に糸を巻けてなければ、賃貸契約更新の封筒も投函できていない。
・・・僕のイライラの正体は、こんなにもみみっちいのだ。「無為に俺の時間を奪いやがって、だから俺は俺のしたいことができないんだ!という子供の立腹なのだ。
いやー、恥ずかしい。
一方、人に時間を差し出すことを厭わない人は、そうする方が利になると実感しているってことなのだろう。言い換えれば、それを共同作業と捉えられるのだろう。
あるいは使命感が強いのかもしれない。いずれにしても、自分の幸福や充足感を、仕事の中で、あるいは他者との協力の中で得られるタイプということと見た。
僕はそれが苦手というか、自分が作った時間を全部休憩に充てられたらちょっと無いわと思う器の小さい人間なので、なんかどうにも、難しい。
まぁ話を戻せば、僕がイライラするとき、僕は僕がしたいことのほとんどができずにフラストレーションがたまっているということなのだろう。
そのタイミングで自分の時間を使われた日には、そりゃ八つ当たりだってしますわな。ただそんだけ。マジで子供だ。もっかい言うが、恥ずかしい。
プレイハード、ワークハードは性に合わないと思っていたが、もしかしたら性格的にはマッチしているのかもしれない。1ヶ月程度、その生きざまで頑張るとしよう。
ということで帰結がダサすぎる自己分析、今日はこの辺で。