コーヒーを今日だけで1リットル飲んでるのに、夕方で眠気が強い男中元です。
さて。どっかで書いた気がするが、最近この本を読み耽っている。いわゆる自己愛型人間の闇と特徴と対策を解き明かした名著だ。
ここに書いてある実例について、僕ははっきりと"食らう側"であり、それが嫌で、避けたいから理由が知りたくて、この本を手に取ったのだ。
―しかし、読み込んでいくうちに、なぜか自分の心の奥底をぐりぐりと抉られるような感覚があった。そしてそれには、たまらなく不快な感情が伴っている。
その理由は、認めたくなかったが、すぐに思い当たった。僕自身も昔は、自己愛が暴走していた、未熟極まりない人間だったのだ。
他者は自分の理想を満たすために存在する。自分は他者より秀でているはずなのだから、この状況はオカシイ。
唾を吐きかけたくなるようなあまっちょろい思考。だが・・・特に高校生から大学生の序盤にかけて、僕もまた、幼稚で浅はかな人間だったのだ。
その当時を今振り返れば、ある種の「人間失格」状態である。恥の多い生き様なのに、その恥に自分が気付いていないという恥。
このまま墓場まで持っていくには、あまりにも悔しい人生のロス。だからこそ、この記事の中でまた一つ、自分の中のヘドロに、ケリをつけたいと思う。
評論家面していたあの頃とその理由。
高校生の頃、僕は家と学校の8㎞くらいある道のりを、決まった友達と2~3人で自転車をこぎながら、毎朝通い、そして毎夕帰っていた。
当然その間は他愛無い会話を交わしながら往復することになるのだが、ある日、その道中、友達から強めに怒られたことがある。
今の時代っぽい言い方をすれば、「俺はお前のマウントを取るような物言いが好かねぇんだ」という感じだ。
当時は、「あ、勢い余って他者の悪口言ってたかも・・・口には気を付けよう」という程度の反省しかできなかったが、今思えば、彼の発言の真意はそんなに浅くない。
恐らく、「他者をこき下ろしていい気になってんじゃねぇよ」ということが言いたかったのではないかと思う。なぜそう思うのかというと、心当たりがあるからだ。
高校進学と同時に、慣れ親しんだ友人の大半と別れることになり、僕は心の底から不安だった。友達ができなかったら、孤独だったらと思うと、怖くて仕方なかった。
幸い気を許せる友人はできたし、学校生活もつつがなく始まったが、僕の不安は全く和らぐことなく、それどころか、自己愛を拗らせながら増幅していくこととなった。
僕は僕より秀でた人が心の底から羨ましかった。自分より勉強ができて、自分より友人が多くて、自分より女子と普通に話せて、誰からも価値があると認められる人たち。
そういった存在が羨ましいなら、それを正直に受け止めた上で、自分を高める努力をすればいいのだと、今なら理屈で理解できる。だが当時の僕に、そんな器はなかった。
気付けば、本に登場していた、自己愛を暴走させた人たちが取るような行動と思考を、当時の僕は取っていた。しかも恐ろしいことに、完全に無自覚だ。
例えば、僕は当時、2ちゃんねるのまとめサイトに熱中していた。文字通り、1日数時間も眺めていた。特に好きだったのは、いわゆる炎上系の記事である。
ミスをした誰かを、よってたかって攻撃する。その膨大なログを読みふけっているとき、僕は何か救われる感覚を抱いていた気がする。
今なら、記事そのものにも、それを好む人にも、猛烈な嫌悪感を抱くのだが、当時は逆に、すごく居心地のよさを感じながら、その世界に入り浸った。
具体的なエピソードはそれこそ、枚挙にいとまがない。僕は評論家ヅラして、仮初の優越感に浸りきっていたのだ。矮小すぎる自己肯定感ゆえの、悲しすぎる行動。
他者の欠点を見ているとき、僕は僕の不安を忘れることができた。だがそんな僕は、確実にただの嫌な奴であった。実際、今の自分から見ても、当時の僕は嫌いである。
自分のことが好きというナルシシズムがなくても、自己愛は発生する。自分を受け入れられないとき、それは拗れた形となって表面化するものなのだ。
あなたは自分が大好きだろうか。それとも、自分が大嫌いだろうか。どちらにせよ、あなたはあなたを護るため、自己愛の行動に走る可能性が高い。
僕が全てを失わなかったのは、単に運が良かったからに他ならない。自己愛が強く表面化しているとき、あなたは確実に何か大事なものを削っている。
完全なる孤独に落ちる前に、一度しっかりと立ち止まって、じっくりと自分の内側に思いを巡らせることを、僕は強く推奨する。
自分を変えたくても、結局自分のことしか考えられなくて。
そんな僕も、18歳の頃に現実と立ち向かおうと決めた時期がある。具体的には大学進学だ。人生における岐路で結果が出れば、自分という人間は変わるはずだと信じた。
そして僕は第一志望校に合格した。僕はやればできるのだと、その時は嬉しさ余ってそこまで振り切ったものだ。だからその後をしくじった。
僕は成長した。それを確認したくて、その証拠を僕は求めた。自分に価値があるという圧倒的な証拠とは何か?僕が辿り着いた答えは、恋人という存在だった。
その後に意を決して、県外に旅立つ前に行った人生初の告白は、見事に撃沈した。今思えば当たり前だ。そんな局面でさえ、僕は自分のことしか考えていなかったためだ。
自分は成長したのか、してないのか。価値があるのか、ないのか。自己肯定と自己嫌悪に揺れまくったあの時期の心境は、今思い出しても吐きそうになる。
その後も僕は、自分が成長したという"確証"を他者に求めてしまった。周りの人が認めてくれれば、褒めてくれれば、僕という人間は初めて価値を持つのだと。
・・・ここから先の顛末は、脱線するので控えておく。あくまでも、この経験から取り出した教訓だけ、書き残しておく。
それは、自分のことを認めろと他者に要求することもまた、強い自己愛ゆえの行動ということである。つまり、それは精神が極端に未熟な証拠なのだ。
僕は数年かけて、数多の無駄な努力と失敗を重ねた結果、ようやくそれに気付くことができた。世界は自分を中心に回ってなど、いないのだ。
―しかし、強い自己愛が守っているのは、あくまでも弱い自己なのである。その繭を剝ぎ取ったら出てくる物は、芋虫の如く醜くて脆弱なのだ。
弱い自分を自覚したからと言って、無茶苦茶な負荷をかけて急成長を促してはならない。それは、初心者が超高重量で筋トレをするのと同じ。
つまり、最終的には壊してはいけないものを壊して終わるということだ。実際僕も、一度自分が壊れる音を聞いてしまった。
続いては、自己愛を自覚し、それを自ら剥ぎ取ることに潜むリスクについて、書いてみよう。
急に自分を捨てたら心が折れた。
自分は無力で才能もないからこそ、何をしなければならないか。それは我武者羅な努力。僕はそう悟った。
だから、今思い出しても異常な数値なのだが、僕は毎日15時間働いた。朝日が昇る前に出社して、日が沈んでから帰る毎日。
だが、会社とは学校ではない。頑張っても結果が伴わねば、認められることなど無いのだ。僕は誰よりも働いたが、誰よりも軽んじられていた気もしていた。
日本酒をコップ一杯一気に飲まなければ、寝ることすらおぼつかない。その状態になってしばらくして、何がトリガーか忘れたが、僕の心は完全に折れた。
その後の顛末は、より詳細に言葉にしたものがあるので、そちらの紹介に留めておく。
hitomishiriteki-jinseikun.hatenablog.com
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・・・ただ、ここでわかったことは、やはり強い自己愛で守られていた本当の"じぶん"は、幼児だった頃から成長していない、あまりにもか弱い芋虫であるということだ。
餌を食べて、脱皮して、いずれ蛹になってから蝶になるように、心もゆっくりとその成長を確認していかねばならなかったのだ。
僕は芋虫なのに飛び立つことを目指し続けて、理想と現実の格差に叩きのめされて、一度自分を壊してしまった。まずはそう、脱皮することを目指すべきだった。
人は一足飛びには成長しない。しかし、それが自然なのだからがっかりする必要はない。僕は自分を愛することがとても下手くそだと認識できた、闇の数年間であった。
終わりに:それでも今は幸せです。
―というところまで書いてきたが、僕自身もまだ、ゆがんだ自己愛がゼロになったかと言われれば、胸を張って「いいえ!」と答えるだろう。
斎藤一人さんのいうところの「神様の試練」は毎日のように飛んでくる。美人と並んで歩く男。高学歴な方々。筋骨隆々な男たち。嫉妬しない方が難しい。
しかし最近は、そういったくだらない嫉妬の気持ちも、かなり軽減させることができている。意識して減らしたというより、気付いたら減ってたという感じなのだ。
31歳になった今、心当たりはなにか。それは、今年はおそらく、健全に、自分のことだけ考えることにうまくいっているからじゃないかなと仮説立てている。
アブローラーという筋トレグッズを使って、立ちコロと呼ばれる技ができるようになったし、中学理科の勉強も、知らないことを知ることができて楽しく継続できている。
自分は成長している。誰がなんといおうと、当事者比で成長している。最近そのことをしっかりと認められている自分に驚いている。
言い換えれば、僕は他者評価からの脱出に成功しつつあるのだ。自己愛を乗り越えた先にあるものこそ、本当の自己愛なのかもしれない。
ということで、改めて質問。
「あなたは自分のことが大好きですか?それとも、大嫌いですか?」
―そのどちらかという方がもしおられたら、もしかしたら本当のあなたはまだ、繭の中で守られた弱い存在かもしれない。
自分を本当の意味で大事にしながら、少しずつ世界の中心を自分の外へ遠ざけていく感覚。気付けさえすれば、抜け出せる。
だからこそ、一度立ち止まって考えてみてほしい。
では今日はこの辺で。