本当に急なのだが、今の僕は人生で一番、自分に優しいと思う。自分で自分を責めるようなマインドはどこかに失せて、心が穏やかな状態でここ1ヶ月は過ごせている。
2022年前半の自分の荒れ狂い方を考えると、微塵も想像もできない境地だ。何があったのかわからないくらい、本当に今は平和なのだ。
―あの頃の僕は、変わらない環境と変えられない自分にブチ切れ続けていたことが、記事に色濃く残っている。何があったかは、何度も書いたので察してほしい。
しかし恥ずかしさや後悔とかは特になく、なんなら「おぉ、青いなぁオレ」と、めちゃ他人事で面白がっているところもある。
―もちろん今がたまたま間氷期のようなもので、単に周期としてその状態に落ち着いているだけであり、打った手段のどれかが効いたわけではないのかもしれない。
しかし、だ。僕が過去一で自分にも人にも優しくなれている現状には、心当たりがいくつも存在する。つまり偶然ではなく、再現性はきっとあると感じているわけで。
ということで今日は、その心当たりである、【自愛】と【知識】の重要さについて、つらつらと記事を書いてみようと思う。
【自愛】で過去を徹底的に正当化せよ!!
最近意識せずとも、僕は自分に対し、優しい解釈と声掛けができるようになっている。自責に全振りしていた20代前半では考えられない優しさである。
心掛けているのは、【自愛】だ。【自己愛】は拗れれば病気として扱われるが、【自愛】は押しなべて、徹底できればできるほど良いことだと感じている。
元々は「病気にならないよう自分の身体を大切にすること」という意味だとあるが、うつ病は心の病ということを考えても、用法として間違ってはいないと思う。
そんな僕が心掛けている【自己愛】は、自分にとって優しいと思ったフレーズや知見を、全力で自分に当てはめていくという、ただそれだけである。
そうすることで、今現在に起きている、感じているネガティブだけでなく、後悔がまとわりついた過去さえ、じわじわと正当化することができているのだ。
例えば昨日は、「今思えば後悔するような過去の言動も、その当時の自分や他者にとっては正義だったのだ」という言葉に出会い、一層己の黒歴史を正当化できた。
「今思えば愚かな言動だけど、当時の自分にとっては善の行為だった。結果倍めんどくさいことになったけど、その分これからの俺はラクできらぁ」という具合に。
同様に、僕は2022年度前半の荒れ狂っていた自分も、今は完全に正当化している。他人や環境に愚痴を噴出しまくっていた自分。
どう頑張っても正当化できそうにないが、できるんだな、これが。例えば、昔読んだ「男の条件」という本に、すごく僕にとって自分に優しい一節がある。
「燃え上がるような激しい思いを持った人が、その熱さを内に秘められたとき、男としての格が上がる」、みたいな文言だったと思う。
実際、燃え上がる真っ赤な炎よりも、静かに燃え続ける青い炎の方が、温度が高いとのことなのだ。
ただの荒くれは、周りを焦がす。しかしそれを内に包めたとき、周りをより高い温度で温めることができる。なるほど、イメージとして、すごくしっくりくる。
若い頃はトガってフラストレーションのままに暴れた人が、丸くなった後に人として大成するといった話はよく聞く。それを聞くたび、羨ましいと思う自分がいた。
それに比べたら弱いと言えば弱いのだが、似たような経験を積めたということで、むしろよくあのとき怒り狂ってくれたと、当時の自分に感謝さえしている。
これを通じても思うのだが、やはり決断に重要な意味は無く、行動によって得た経験値をどう解釈するかが、人としての深みと呼ばれる部分を形作るのではないかと思う。
そう思えば、自分を責めるだけクソ無駄なのだ。どう解釈すれば、今後の自分にとって一番有益な糧となるか。僕にとってはそれが、【自愛】であった。
どんな決断も、どうでもいい。どうせ未来の僕が、良いように料理してくれるのだから。最近はそれくらい開き直っている自分が、ここにいる。
【知識】があれば、優しく観察ができるようになる。
「他人に優しくすること」という教えを、全く腑に落とせていなかった。慈愛という接し方は自分には無理だと、結構早々に諦めていた気さえする。
例えば、世の中には困った人も数多くおり、なぜそういった奴らにもこちらが働きかける形で優しくしなければいけないのかと、不快感さえあったためだ。
―だが最近は、おそらく客観的に見ればの話だが、僕は「人に優しく」できていると見られている自負がある。「優しくすること」の正体が最近、掴めたからだ。
他者への優しさとは、こちらから積極的に何かを施すことだけを意味しないのだ。むしろ、あるがままに他者を受け止めることこそが、真の優しさなのではないか、と。
それはつまり、自分以外の他者に一切期待しないこと。そして、負の部分に対する思考の連鎖を意識的に止めること。これが、今の僕が暫定的に考える「優しさ」である。
誤解されそうな気がするが、僕は最近僕の身の回りの人たちについて、「意識的な無関心」か「観察」という心構えで接するようにしている。
例えば前者であれば、掃除ができない人、梯子を外す人、泣き叫ぶ赤ちゃん、全然学習に手を出さない子供、その辺に対して発動している。
といっても、何にも難しいことは無い。「ま、そういう一面もあるか」と自分に言い聞かせて、悪い思考の流れをサッと切るだけである。
なぜ掃除ひとつできないのか?そういえば昔もこんなことがあったな、これからも俺が肩代わりして掃除をするのか?という風に思考を彷徨わせると、僕まで不幸になる。
それを、”切る”。切ったうえで、気にしない。言うは易しだが、20代の僕はこれがしたくても、全然できないというジレンマをずっと抱えてきた。
しかし最近この境地に至れるようになったのは、実を言うと【知識】を大量に仕入れたことが大きな要因だと思っている。
例えば犬が用を足した後、土を蹴飛ばすことを怒る人は、ちょっと病気だと僕は思う。それはなぜかというと、「そういうものだから」である。
やっていることは、程度こそ違えど、「なんで夜は暗くなるんだ!」と不満を吐き散らして、勝手に機嫌が悪くなるのと同じくらい器が小さいことである。
実を言うと、自己愛が強い人、仕事をしようとしない人、他者に怒りしか発せない人は、ワザとそうしているのではなく、そうプログラムされているようなものなのだ。
「なぜ?」ではなく、「あぁ、そういうタイプの人か」とだけ認識したら、それ以上思考を流さない。囚われない。ネガティブを増長させない。それだけである。
心理面の知識を大量に頭に入れた頃から、僕はようやっと余裕や器と呼ばれる何かを手に入れられつつある気がしている。
仮に理不尽な怒りを上司からぶつけられても、心の中で以下のような結論を出し、どこか温かい目でその人を見るだけだろう。
「あの本に書いてあったこのタイプの人か。じゃあなんかイラついてるけど、多分どっか別のところで嫌なことがあって、それを僕にぶつけているだけだな」
そう思えば、自己愛、ナルシスト、サイコパスについて学びを深めまくったあの日々は、巡り巡って繋がってくるもんなんだなと、本当にしみじみと思うところがある。
―ちなみにさらに余裕があれば、「じゃあこういう報告の仕方をしたら、怒るだろうか、怒らないだろうか」といった実験を勝手にやって遊ぶこともある。
ときに一石を投じつつ、あるがままを【観察】するのも、人に優しくなるためにはとても有効だと感じている。
今のところは、「この人を漫画のキャラクターとして登場させるとすれば、どういう言動をさせればその人らしくなるか?」というメガネを通すのがしっくり来ている。
言葉にし切れない部分もあるが、雰囲気が伝われば御の字ということで、このまま放り投げることにする。
終わりに:順番はどっちが先なのか?
まず優しくすべき人はどちらか。自分なのか、他者なのか。一見ニワトリタマゴな話ゆえに、考えても無駄な気はするが、僕は「自分」だと考えている。
齋藤一人さんの言葉を借りれば、「自分一人幸せにできない、優しくできないヤツに、他の人を幸せにすることなんてできっこないよ」ということである。
かくいう僕も、昔は逆だと考えていた。他者の幸せが先で、自分の幸せは後だ、と。自分の周りの幸福を、自分の幸福と同一化することが、つまり理想なのだ、と。
しかし他者の幸せを”妄想”して履き違えて、滅私奉公して頑張った結果、自分の心が折れる音を聞いた過去があってから、コロッと変わった。
自分自身が心のどこかで不幸を感じている状態で、他者の幸福について考えることはできない。あの日々の中で悟ったのは、大体こういうことだ。
ただそこからがかなり長くて、なかなか自分の中に渦巻く嫉妬とか不満とか苛立ちと折り合いをつけられないまま、ずるずると何年も過ごした、という感じである。
ただしここ数ヶ月で急速に、【自愛】と【知識】と取っ掛かりとして、僕は自分に対して労いの気持ちを向けることができるようになりつつある。
自分が大好きというより、自分を愛してやれている、という感覚が近い。英語だとどちらもloveになるのでややこしいが、この2つは僕の中で意味合いが違う。
そして驚くことに、そうして初めて、僕は掛け値なしに他人への優しさを自然に抱けるようになったのだ。まぁ、本当にそうなのかは、これから追試してわかることだが。
人に優しくなるためには、【自愛】と【知識】を起点にすることも一手。そのことが伝わっていれば嬉しい。
では今日はこの辺で。